第7話:前人未踏の秘地へ

 この日、京香は昼休み以後も妙な胸騒ぎに頭を悩ませ、五時間目、六時間目と陰鬱な顔で授業を受けた。辛うじて板書は出来ていたものの、教科担任の「ここは重要だぞ」と説明した箇所を、教科書からすぐに見付けられず苦慮してしまった。


 倉光が目撃した女が――数日前にフラリと現れたである事は明白だった。


 カフェで交わした会話の数々が、今では異常な質量を持った小石となり、京香の心へ堆く積まれているようだった。二度と会いたくは無かった。しかしながら……中断されている「一重トセの秘密」が、「先輩との紛争の理由」が――どうしても気になるのは事実である。


 そして、あの人も。不思議な確信が京香を更に悩ませた。


 早く家に帰って、一人で頭を整理しよう……放課後、浮かない顔の京香は心配する友膳達に「ちょっとお腹が痛くて」と嘘を吐き、飛び出すように教室を後にした。


 早足で玄関ホールへ向かい、立ち並ぶ下駄箱の元に到着する。「羽関京香」と札の入った、右から五列目、上から三個目の蓋を開ける。おかしな手紙は入っていない、履き慣れたローファーだけが彼女を待っていた。


 急いて取り出し、近くの傘立てから自分のものを抜いた。外は曇天だが、雨は天気予報と違って降り止んでいた。


 走って帰ろう――京香は玄関のガラス戸を開いた刹那……空から落ちて来た大釘によって、足の甲を深々と貫かれたように、その場でピタリと立ち止まった。


 パクパクと、陸に打ち上げられた魚の如く口を開閉する京香。


「……ぅ、う……ずら……のさん」


 校門の方から、ゆっくりと歩いて来る上級生――鶉野摘祢を認めたからだ。


「羽関さん。何も……」


 


 悲しいわね――淡々とした声調で言いながら、鶉野は微動だにしない京香の眼前に立った。


「昨日は話を中断してごめんなさい。お陰様で、弟の風邪も悪化せずに済んだの」


「……それは良かったです」


 コクリと生唾を飲み込む京香。彼女は……待っていた。「話の続きをしましょう」と、鶉野が口にするのを。


 今日、どうしても鶉野との関係を終わらせたかった。


 日が経つ毎に、鶉野の存在が自身の心に巣食い始める気がしたからだ。


 だが――期待とは裏腹に、鶉野はしばらくの間京香を見つめてから、「今日は」と口を開いた。


「悪いけれど、


「えっ……?」


 思わず見せてしまった「隙」に構う事無く、京香は続けてしまった。


「お話……されるかと思いました」


 鶉野はかぶりを振った。


「しないわ。恐らくだけど、貴女は今、正確な判断が出来ない状態に陥っている」


 京香の心臓が高鳴る。何かを見透かされた気がした。


「その証拠に、あれ程私を警戒していた貴女が、たった一日で『話をしないのか』とまで言った。仮に私が『協力』をお願いをしたとするわ。判断力の鈍っている貴女が協力を買って出ても、断っても――それはの決断では無いでしょう」


「……べ、別に鈍ってなんか――」


「そう言うのよ、何かが弱っている人は誰しも。私だって嫌よ、そんな人にお願いをするのも。可哀想だもの。……とにかく、今日は帰るわ。ごめんなさいね」


 プイッと振り返り、そのまま歩き去って行く鶉野に……京香は「あの!」と声を掛けた。


 全ては――判断力の低下が招いた「事故」だろうか。


「いつですか、いつ……全部をお話してくれるんですか?」


「さぁ。いつかしら」


 慌てて駆け寄り、鶉野と並んで歩く京香はなおも食い下がる。


「せめて、日付を決めてくれませんか! 私、それまでに――」


「それまでに、何をするの」


「ですから判断力を――」


 おかしいわね――鶉野は立ち止まり、横目で京香を睨め付けた。瞳孔の奥から怪しげな光が漏れ出しているようで……京香は身を竦めてしまった。


「羽関さんは、もっとだと思っていたわ。判断力をどうするのかしら、薬でも飲んで治すつもりなの」


「……い、いいえ……」


「教えてあげる。昔から言うでしょう、『頭を冷やせ』と。何かしらの問題が起きた時、通常の思考が出来なくなるのは当然の事。冷やす、つまるところ――暴走した思考の、冷却期間が必要なのよ。理解出来る?」


 諭すような言葉が京香の心へ、柔らかな陽光となって深く差し込んでいく。


「普段の貴女なら、こんな事は考えるまでも無いでしょうね。それが出来ていないという事自体が……判断力が鈍っている明確な証拠よ。冷たく聞こえるかもしれないけど、私だって、貴女をとは思っていないわ」


 分かって頂戴――やや声を低めて、京香の肩にソッと触れる鶉野。


は時間が解決してくれる。今はお互い……我慢の期間かもしれない。私も悪かったわ、一度に全てを話そうとして。もう少し、時間を掛けていけば良かったわ」


 じゃあね……鶉野はそう言って帰ろうとした矢先、京香は胸の奥がボンヤリと温かくなるような感覚と共に――。


「鶉野さん!」


 彼女の名を呼んだ。


「この後、お暇はありますか……」


 えっ? と鶉野は驚いたように、軽く目を見開いた。


「今言ったでしょう、話はまた今度と――」


「違います! 今日はしません、しませんけど……その、ウチに――に来ませんか?」


 首を傾げる鶉野は、「休業期間でしょう」と返した。


「大丈夫です、今日は仙花祭の準備をしないって叔父さんが言っていたから……」


 京香は初めて――鶉野にに笑い掛けた。


「ちょっと、遊びませんか」


 何故か……鶉野は困惑したような、何かを悔やむような表情を浮かべ、訝るような声で言った。


「…………少しだけ……なら」

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