第8話:奥底の稟性
花ヶ岡高校から然程離れていない目的地――靖江天狗堂まで、しかし京香は道のりが永劫続くのではと感じていた。
一歩、一歩とアスファルトを踏み締めるローファーの音が、今は二重に聞こえた。数メートル後を付いて来る女……鶉野摘祢の音だった。彼女と肩を並べる時は信号を待つ間に限り、それ以外は同極の磁石のように、互いの距離が縮まる事は無かった。
身体から発される見えない力場が、未だ本質を見抜けずにいる宿主に代わって――相手を品定めしているようだった。
それでも……京香は後ろの鶉野に警戒はしつつも、隠された「何か」を発見しなくてはならないと、自らを鼓舞さえしていた。
冷徹極まり無く、溺れている他人に石を投げそうな女――京香はつい先程まで、鶉野をそう評価していた。その評価に「はて?」と首を傾げてしまった事に、しかしながら京香は後悔をしていない。
一瞬、ほんの一瞬だけ感じられた「優しさ」。
深雪の奥底で春を待ち、耐え忍び続ける芽の青い香りを――京香の鼻が雪の渇いた匂いの中に嗅ぎ分けた。
秘匿の泥に塗れた鶉野の稟性は如何なるものか?
それを問わんが為に……京香は、あえて自身の領域に彼女を誘い込んだという訳である。
「……着きました。ちょっと待って下さいね」
果たして靖江天狗堂の前に到着し、暗い店内の様子をガラス越しに覗き込む京香。叔父の姿は無い。前日に公言した通り、町内会の会合に出掛けているらしかった。
「叔母さんいるかな……鶉野さん、鍵、取って来ますね」
コクリと頷く鶉野は、スマートフォンを弄ったりもせず……黙して走り去る自動車を眺めていた。手持ち無沙汰、という概念が無いような素振りに、京香は急いて裏口から回り、「叔母さーん!」と声を掛けた。
数秒の間を置き、奥からエプロン姿の叔母――
「あらまぁ、あらまぁ……どうしたの京香ちゃん。あの人は夜まで帰って来ないし、今日は仙花祭の準備はしないわよ?」
「うん、分かっているよ。あのね、学校の先輩に来て貰って、ちょっと店の中で遊んで良い?」
そういう事ね――孝子は肉付きの良い手を打った。
「勿論良いわよ。後でお菓子ぐらいなら用意出来るから……ほらほら、まずは上がって貰いなさい」
人見知りの叔父と違い、孝子は見知らぬ人間ともすぐに友情を構築出来る程、心の門戸が軽かった。不意に誰かが訪れて来るのを楽しみにしている節さえあり、接客業に向いた性質の女だった。
ありがとう叔母さん! 京香は古びた鍵を受取り、店舗入口の方へ駆けて行った。キチンと――鶉野は所定の位置で待っていた。ブロック塀に留まる雀を見つめ、何かしらの意思疎通を図っているのか、時折パチパチと瞬きをした。
「お待たせしました。どうぞ、中へ」
「お邪魔します」
暗い店内にドア鈴が鳴った。馴れた手付きで照明を次々と点けていく京香の様子を、鶉野はボンヤリと見つめていた。
「あそこの椅子に座っていて下さい、今、お茶とお菓子を持って来ます」
「要らないわ。申し訳無いから」
「気にしないで下さい、わざわざ来て貰ったので……」
なおも鶉野の否定が続きそうだった為、京香はわざと店の奥へ歩いて行った。椅子を引く音がしない、鶉野はまだ立っているようだった。
「京香ちゃん、これしか無かったのよ。でも、好きでしょ? これ」
俄に京香の顔が引き攣る。彼女が幼い頃より好いている、児童向けビスケットであった。様々な動物の形で焼き上げられ、表面には「ぞう」「きりん」などと文字が書かれている。このビスケットを用いて……京香は動物の知識を養った。
「ちょっ……これは恥ずかしいなぁ……」
「良いから良いから。『これ美味しいですよね』って渡したら良いのよ。先輩も懐かしがるわよぉ。伊達に何年もスーパーに並んでいないのよ?」
結局――京香はコーヒー牛乳と例のビスケットを盆に載せ(この組み合わせが京香の好物であった)、店舗の方へ戻った。鶉野は鞄を椅子の横に置き、ズラリと並ぶ賀留多を眺めていた。
「ごめんなさい。余り来ないから、つい眺めていたの」
そう言って鶉野は京香の元へ歩み寄り、彼女が恥ずかしげにテーブルへ置いたビスケットを見やった。
「す、すいません……偶然これしか無くて……」
真っ赤な嘘であった。叔父は京香の為にわざわざ問屋に出向き、ビスケットをダース単位で購入している。兄の卓治は「甘やかし過ぎだ」と叔父を窘めるも、京香が可愛くて仕方無い叔父にとっては意味を成さない。
鶉野は箱の中から「ぺんぎん」のビスケットを取り出し、「珍しいわ」と呟いた。
「え、え……?」
「ぺんぎんは殆ど入っていない形だから」
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