近江龍一郎、高みへ

第1話:鍛錬の日々

 翌日。龍一郎は全ての授業をそっちのけで、ある事を思い続けていた。


 それはただ一つ、《こいこい》のあらゆる局面を想定し、「ああでもない、こうでもない」と思案し続けている。


 昨日の月曜日から始まった三人との特訓が余りに激しく、また色濃いものであった為にいつの間にか、彼の頭には《八八花》の札が四方八方に舞い出すようになった。


 昨日は目代から基本戦術を復習として教わると、次に絡め手の理論を叩き込まれた。




「《困った時の藤打ち》、知っているよね。これは二通りの解釈があると私は思う、何故なら逃げる手として採用する場合ともう一つ、加算役のみにしか絡まないのを逆手に取る方法があるの。加算役で後一枚が足りないって泣きたくないよね――」


「一文でも相手より多ければ勝てる《こいこい》において、必ずしも全勝を目指す必要は何処にも無いんだよ。相手の欲しがっている札を場に出し、安手をにするのも、後々大きく利益をもたらす事があるんだ。『肉を斬らせて骨を断つ』……ってね――」


「相手を欺し、叩き、制圧し、場の流れを引き寄せる……全力で立ち回った人だけが、。分かっているだろうけど、今一度心に留めてね――」


「これは経験則なんだけど、『勝った時こそネガティヴになる』のが肝要なんだ。勝てた、良かったなぁ……で終わるよりも、勝……といつでも反省する事で、自ずと相手の打ち筋が読めるようになるんだ。勝負には謙虚であれ……皆が分かっている事なんだけど、意外と実践出来る人は少ないんだよね――」




 学年的にも打ち手としても偉大な先輩、目代小百合が細かに語る実戦を元にした戦術は非常に有用であり、普段勉強事とは縁を切りたいとすら思う龍一郎の頭に、実によく浸透して血肉の一部となっていった。


 好きこそものの上手なれ――なるほど、好きなものが学校の勉強だという奴が大成する理由が分かったぞ……龍一郎は一六才の夏を迎え、真理に一歩近付いたような気がした。


「……ではこの例題をだね、近江、先程のやり方で答えてみなさい」


 数学の教師が白髪頭を掻きながら言った。しかしながら賀留多熱にうなされる龍一郎の構うところではなく、教師はおろかクラスメイト一同の視線が彼に集中した。


「おい、おい! 龍一郎! お前だぞ!」


「うるせぇな、今大事な局面だ」


 楢舘の助け船に投石をする龍一郎。勿論怒った教師は、大きな額に青筋を見事に浮かべて、「近江!」と嗄れた声で怒鳴った。


「級友の折角の助けを……お前は、お前という奴はぁ!」


 この後に一年四組の一同は「俺の若い頃は助け合いがあって」と二束三文にもならない昔話を、おおよそ一〇分間強制的に聞かせられる結果となったが――当事者の龍一郎は菊札の持つ制圧力を考え込んでいるのであった。


「お前どうしたんだよ、今日はおかしいぞ」


 いつものように昼休みの時間が来ると、楢舘は龍一郎の異常さを咎めた。一方の龍一郎は弁当をチマチマと摘まみながら、「そうでもないよ」と面倒そうに答えるだけである。


「振られたのか、彼女に。それとも浮気したのか」


 低俗かつ短絡的な推測を挙げていく楢舘に、羽関が「そんな程度の問題ではないはずだ」とかぶりを振った。


 彼の妹と自分が「花ヶ岡の文化を賭けて戦う」という事を、龍一郎は報せていなかった。


 余計な心配を掛けたくないのもあったが、しかしながらその配慮は対外的な口実で、果たして龍一郎は「真正面から誰にも邪魔されず打ちたい」という、純粋な勝負欲に支配されていた。


「まあ、深くは聞かないけどよ……そうだ、龍一郎。俺、《こいこい》をすっかり憶えたんだ、ちょっとやろうぜ」


「おお、偉いな楢舘。近江、俺も横で見させてくれよ」


 そんな暇は無いんだが――と龍一郎は顔をしかめたが、良い気分転換になるとも思考を切り替え、果たして楢舘の申し出を受けた。


「じゃあやろうか、親は楢舘からで構わん」


「ようし、本気でいくぞ龍一郎!」


 目代さんから学んだ事を実践してみよう……龍一郎は手札と場札を交互に見やり、いつもとは違う打ち筋で睦月戦に臨んだが……。




 彼が自分に起きた異変に気付いたのは、既に弥生戦を過ぎた頃だった。




 何かおかしい。歯車が噛み合わない――。


 決して強い打ち手ではない楢舘に、しかし今では欲しい札を踏まれ、手筋が読めず、持っているはずの自力が発揮出来なかった。


「良い勝負じゃないか、これは」


 羽関が驚いたような顔で座布団を見下ろす。得意気に楢舘は「」と笑い、引き寄せた流れを確かに感じたのか、「いけるぜこれは」と呟いた。


「楢舘、ネットで打っていたのか?」


「ああ、そうだよ。龍一郎もやっているんだろ?」


「いや、殆どやらないんだ」


 相手の表情、場の空気が推し量れない電脳上の闘技を、龍一郎は何処か軽んじるきらいがあった。


 その食わず嫌いが如何に「愚考」であったか――彼は悟ったのである。




 相手の表情が読めないからこそ……純粋な技術比べになるんだ。楢舘は恐らく――言葉ではなく「感覚」で相手の打ち筋を読める程に打ち込んだ、そうに違い無い――。




 時間の都合上、二人の対局は六ヶ月戦にて終了となった。


 一日の長により龍一郎は一二文差を付けての勝利を収めたが、素直に喜ぶ事が出来ずにいた。


「いやあ、やっぱり強いなお前は。これでも勝率は五割を超えるくらいなんだぜ?」


 楽しげに笑う楢舘に対し、龍一郎は無言で散らばる札を見つめていた。


 経験してみる価値は大いにあるな――羽関と感想を言い合う楢舘に、龍一郎は「どのサイトを使っているんだ」と問い掛けた。


「これだよ、検索したら上の方に出て来る、ごく普通のサイトだけど……」


「ありがとう、今度極上の本をプレゼントするよ」


 現在、自分はどの程度の技術があるのか。


 この上無く自在で好きなだけ使える計測手段を得た龍一郎は、スマートフォンを取り出し……早速「こいこい、対戦」と検索する。


 これもまた、良い勉強になる――龍一郎は名も無き打ち手達との闘技を開始した。

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