近江龍一郎、危ぶむ
第1話:小さな種
六月の終わりが近付く頃、龍一郎の花石貯金は四〇〇後半を行ったり来たり――といった様相だった。
トセに連れられて金花会で己の地力を試したり、昼食代を浮かす為に購買部で使用したりと、彼の花石は実に健全に残高を上下させていた。
自分を安売りせず、決して奢らず無理をするな――目代の言葉をよく自らに言い聞かせた龍一郎に、最早月初めのような「疲弊」は見られなかった。
未だに彼を頼って訪ねて来る生徒はいたが、「余程の事が無ければ自分で解決した方が良い」という彼の言葉を受け、特段怒り出しもせず納得して引き返す者が多かった。
代打ちの意味が無いのでは……と自分で首を捻る事もあったが、「これも時代の流れだ」と無理矢理に結論付けるよう努力したのであった。
「最近、代打ちの依頼が減ったわねぇ」
宇良川が《花ヶ岡の友》と書かれた小さめのトランクを磨きながら、ふと思い付いたような声色で言うと、目代は微笑みながら頷いた。
宇良川が暇を潰す際、《八八》という技法で使用される道具類の手入れをするのが決まりであった。
花ヶ岡高校の購買部に並ぶ商品の中で、トップクラスの価格を付けられた《花ヶ岡の友》だったが、目代は勿論トセや龍一郎まで自分用のものを手に入れていた。
今日、龍一郎は晴れてマイ《花ヶ岡の友》を購入し、トセと二人で内容物の確認を行っていたのだ。
「まぁあんまり依存されても、って事ですよ、宇良川先輩っ。……次はダルマ、予備も含めて一〇個あるかな」
「ええと……あぁ、あるな。目玉が飛び出る細工がされているぞ、これ」
小指程の大きさに作られたダルマが、龍一郎の手の平で目を飛び出していた。
「可愛いよね、それ! ちなみに、箱の裏を見てみなよ」
「うん? どれ……あっ、靖江天狗堂って書いてあるぞ」
姫天狗友の会でマストアイテムとなった《花ヶ岡の友》。高校近くで賀留多屋を営む靖江天狗堂謹製の品であった。花柄の可愛らしいトランクを見つめ、同時に――一度は自分を打ち負かした羽関妹を龍一郎は思い出す。
一見近付き難い程の美貌を持ち、しかし話してみると兄思いの優しい女性――龍一郎は最後に靖江天狗堂へ出向いた時から、彼女と顔を合わせる事が無かった。
「あらぁ? 靖江天狗堂がどうかしたのぉ?」
小首を傾げて宇良川が問うた。
後ろに座る目代も「私も気になるな」とでも言いたいのか、首を少し伸ばして二人を見やった。
「あれ、先輩方には言っていませんでしたっけ? 私達、靖江天狗堂でバイトしている子と友達になったんですよ!」
それは良かったわねぇ――と宇良川と目代が笑ってくれる事を期待した龍一郎だったが、彼の予想に反して……二人の上級生は顔を曇らせ、互いに見合った。
「……ど、どうかしたんですか」
何というか……宇良川は申し訳無さそうに口を開いた。
「私達、代打ちでしょう? その……賀留多を卸している店と結託している、なんて噂が立つかもって……考えてしまったの。ねぇ、姐さん?」
目代の寝癖が上下する。彼女も同じ考えらしかった。
「でも、私達は別に悪い事をしていやしません!」
「それは充分分かっているわぁ……でもねぇ……例えばよぉ? その関係に付け込んで悪巧みする奴がいない、って言い切れる?」
言い切れます――と断言出来る程に、今の龍一郎は青くなかった。
平気で幼稚なイカサマを使ってくる者もいれば、負けた後に文句を言う者とも出会って来た彼にとって、「良い人ばかりの高校生活」という理想は既に崩れ去っていた。
どれだけ素行の良い素晴らしき生徒が集まる学校でも、少なからず淀みが生まれる……その常識を、今更に叩き付けられるようであった。
「賀留多を打つ上で一番重要なのは信頼よ。相手に何も影が見えない……そう信頼して初めて本気で打てる、というものなの。代打ちならなおさらの事……」
目代がメモ用紙にサラサラとペンを走らせ、二人の前に「補足」を示した。
「『勿論、友達を止めろって事じゃないよ。打ち場において、疑わしきは徹底追求……というのを憶えておいて欲しいんだ。二人に嫌な思いをさせたくないから』……」
トセが不満げに目代を見つめた。寝癖が頭の上でへたり込んだ為、彼女もどうしたら良いか決めかねているようだった。
「理不尽な事なのはよく分かるわぁ。私もみーちゃんと親友なのを、未だに下らない論理で糾弾してくる奴らもいるから」
「宇良川先輩はその時どうしているんですか?」
「私? 私はちょっとお話すれば、大体は口を閉じてくれるからねぇ……」
「うーん、お話かぁ。私ももっと交渉スキルを鍛えなきゃって事だよね」
その人の「お話」は絶対交渉じゃないぞ――龍一郎は腕を組んで唸るトセに内心訴えた。
「事情はどうあれ、お友達が増えるのは喜ばしい事よぉ。私と姐さんが言いたいのは、要らぬトラブルが起きた時、キチンと対処出来るか否か……という事なのね。もしかしたらそのお友達に迷惑が掛かるかもしれない、……生徒会だって、腐った奴を一層出来た訳ではないの。あそこも一枚岩では無いからねぇ」
コクコクと頷く目代。苦労を重ねた二人だからこそ出来る忠告なのだ、と龍一郎は素直に「気を付けます」と首肯した。
亀の甲より年の功……に当てはめるのは余りに若い目代達だったが、彼は代打ちという立場も鑑みた結果であった。
「分かってくれて嬉しいわぁ。……さて、湿っぽいお話はもう止めましょう? ここらで一つ、《八八》とでも洒落込むのはどうかしらぁ」
宇良川の提案にトセは「良いですね、やりましょう!」と身を乗り出して受けたが――。
龍一郎は彼女が見せた、一瞬の「暗い」表情を見逃さなかった。
慣れた手付きで座布団と道具を配置したトセは笑顔で彼の前に座った。「ちょっと紅茶のお代わりを淹れるわねぇ」と宇良川が立ち上がり、目代も読んでいた本を棚に戻すべくトセに背を向けた瞬間――。
トセは二人の隙を突き、龍一郎に素早く耳打ちをしたのである。
「後で付き合ってよ」
頷く龍一郎は、彼女が何処に自分を連れて行こうとするのか、手に取るように分かっていた。
彼の中で……漠然とした不安が芽吹いたのである。
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