第3話:毒菖蒲

 有り得ない。何かをしているのか――。


 龍一郎は如月戦を終え、荒い呼吸で彼女の取り札を眺めていた。


 光札が三枚、そこに《柳に小野道風》を加えて完成する《雨四光》、この大役を目代は四手で完成させた。


 楢舘を救う戦いで決め手となった役が、今では彼を討つべく謀反を起こしたのである。


使。イカサマ」


 暗い予想が見抜かれた時、龍一郎の精神は崖際まで追い詰められたも同義であった。顔を歪めた龍一郎を見やり、目代は悲しげな表情で言った。


「楽しくないでしょう、そんな賀留多」


は止めてください! まだ一〇文差はある、これからですよ勝負は!」


 もう一回俺が切ります、龍一郎は「安全」を確定させるべく、二戦に渡って札を切った。


 焦る毎に札が一枚、二枚と座布団に落ち、その度に拾い上げて念入りに札を切り刻む。


 目代に流れる「ツキ」を破壊し、自らの運を練り込むように、何度も、何度も札を切る。




 勝てる、大丈夫だ龍一郎。


 一文でも先に取れば勝てるんだ。そして――勝ってこう言ってやるんだ、「傲慢は貴女です」と!




 手札を八枚、場札を八枚と配っていく。


 左手に持つ山札が減るに連れ……龍一郎は自らの機運が削られるように思えた。


 先手は龍一郎だった。


 一戦目、二戦目とは違う戦略――徹底的な安手上がり――を採用した彼に対し、目代は実に柔軟に、そして完膚無きまでに龍一郎の求める札を


 種札を、短冊札を、更には光札すらも――龍一郎が何を欲しているかを察知し、彼女は絶妙なタイミングで札を出し、引き当て、邪魔をした。


 このまま打ち別れとなっても良いか――龍一郎は泥のように動かない頭を叩き起こすように、「逃げ」の策を閃いた時……。




 第五手目。龍一郎は




 無意識の中で行ってしまった法度に、しかし目代は言及する事も無かった。


「目代さんは気付いていない」彼は思う。一瞬だけ見えた二枚目の《菖蒲に短冊》、それを選んで打てば即座に加算役のタネは完成するのだ。


 彼の勝利は完璧だった。




 何としてももう一枚を手の内に隠し、勝利を宣言した後に札を混ぜてしまえば、きっと目代さんは分からない。


 やれる、それだけの胆力が俺にはあるはずだ。良いんだ、これは誰の為の代打ちではない、ただの遊びなんだ!




 打ってやる、菖蒲を打ってやる――龍一郎は「勝負」と声に出し掛けて……。


「……近江君? 大丈夫?」


 不相応な全力疾走をした後に感じる吐き気が、一気に彼の喉元へ駆け上がり、途端に全身が濡れるような不快感を覚えた。


 打つか、打たぬか。勝つか、負けるか。進むか、立ち止まるか――。


 実時間は数秒に満たない自問自答が、しかし彼の精神を右に左にと乱暴に揺り動かす。


 構わない、俺はここで勝てばそれで良いんだ。


 忍ばせた菖蒲の札を座布団に叩き付けようとした刹那――何故か、彼の脳裏を過ぎる人物がいた。


 以前に「賀留多が嫌になったか」と彼に問うた少女……一重トセだった。




 リュウ君、駄目だよ――。




 彼はこの場にいないはずのトセの声を、しかし確かに聞いた。


 途端に腕が重くなる、まるでトセが横に立ち、「過ち」を犯そうとする彼を必死に食い止めているようだった。


 動きもせず、声も発さない龍一郎を、目代はただ見据えるだけだった。


「…………すいません、何でもありません」


 龍一郎は起き札として――正規に引き当てた《梅に短冊》を場に置いた。


 縮こまった手の中でヒッソリと花を開く菖蒲は、そのまま陽に当たる事は無く……弥生の月に狂い咲いた代償として、静かに花弁を散らした。


「……赤短、タネ。倍付けで一四文。私の勝ちだね」


 果たして三ヶ月戦を終え、僅か四文差により龍一郎は敗北した。


 だが彼の中ではハンデとしての三〇文は最早無く、「」という事実にすり替わっていた。


 龍一郎は立ち上がり、深々と頭を目代に下げた。適当な言葉が見付からなかった。


「近江君、その……私も言い過ぎたよ。でも本当に心配なの……だから――」


 やはり適した返事は出来ず、ただひたすらに頭を垂れるだけの龍一郎は、そのまま部室を出て行った。


 目代はその背中を追おうと手を伸ばしたが、果たして取り止め、散らばったままの札に目を落とす。


「……近江君、大丈夫だよ。、最後の最後で……」


 


 目代は呟き、一枚足りない《八八花》を片付け始めた。

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