第2話:私を嘗めないで

「目代……さん、ですよね? 今の声……」


「ここには私と君しかいないよ。……久しぶりだな、こんな声を上げたのは」


 小さく溜息を吐いた目代は、「座りなさい」と椅子を指差した。


 抵抗出来そうにない……そう判断した龍一郎は渋々と腰を下ろす。


「悲しいな、私。を吐いてまで避ける事無いじゃない?」


 そうでしょう、近江君?


 無口だが優しげな笑みを湛える目代は何処にもおらず――彼の前には、悲痛そうに眉をひそめる一人の女がいた。


「私の知っている近江君は、不器用だけど嘘は吐かない、真っ直ぐな男の子だったんだけど。変わっちゃったの? それとも……全部嘘だったのかな」


「……俺は変わっちゃいません、初めて会った時からずっとこのままですから――」


「そのも、最初からの癖なんだ?」


 苦笑い――龍一郎は口元に触れた。口角が微かに……意志とは関係無く上がっていた。


「苦笑いなんかじゃありません……ブスッとしているより、この方が良くないですか」


「良くない。好きじゃないよ、そんな顔」


 目代に特別な感情を抱いている訳では無かったが、しかしながら龍一郎は心の奥が刺されるような痛みを覚えた。


 酷使された「偽証の笑顔」が、ようやくに対価を求め始めた瞬間であった。


「最近、よく笑うようになったよね。でも……その笑顔、続けていると痛くない? 顔が、とかそういうのじゃなくて……」


 ほら。目代は人差し指で龍一郎のえくぼを突いた。


「また笑っている、


「イカサマって……酷いですよ目代さん」


「イカサマだよ。他人じゃなくて、自分を欺す……とっても質が悪いもの」


 何故そんな事が分かるんですか――龍一郎は苛立たしげに問うと、目代は少しも目線を外さず、間を置かずに答えた。



 グラウンドの方から運動部の声が響く。二人がいる部室とは違い、無垢に何かを楽しむような声だった。目代は続けた。


「近江君。今……自分は賀留多が強いって思う?」


「……ええ、そりゃあ少しは」


 事実、龍一郎の最近の勝率は一〇割であった。


 代打ちとしての噂を聞き付けたクラスメイトとの遊戯は勿論、公式戦とも言える《札問い》においても、決して彼は負ける事が無かった。


 札を打つ毎に高まる自信。


 やがてそれは凝り固まり、変質を遂げ――「俺は代打ちなんだ」という傲慢に成り果てた事を、しかし龍一郎は気付かぬ振りをしていた。


「負けない自信が?」


「あります」間髪を入れずに彼は答える。


 そう――目代は戸棚に置いてあった《八八花》を取り出すと、


「その傲慢さ、ここで壊してあげる」


「う、打つんですか……俺と目代さんが?」


「うん、三ヶ月戦ね。当然だけど、花石は賭けない。……断言してあげる」


 私、今の君には負けないから――目代は互いに手札八枚、場札八枚と配り終えると、「ハンデをあげる」と龍一郎を見つめた。


。最初に君は三〇文持っている状態で始めて良いよ」


 さすがに嘗めている……龍一郎はかぶりを振ってハンデを断った。


「それこそ傲慢じゃないんですか。三〇文差なんて、それもたった三ヶ月で! 俺を嘗めないでくださいよ!」


 刹那。龍一郎は身が竦む思いをした。


 絶対的な戦力差を知った時、野生動物はその場から動けない――うろ憶えの知識が彼の脳裏を過ぎったのである。


「そっちこそ、私を嘗めないで――」




 目代の提示したハンデを受け、憤激した龍一郎は果たして短期戦に臨んだ。


 最初の睦月戦。


 龍一郎の手札に《松に鶴》《芒に月》が転がり込むという幸運が訪れ、また場札にもそれらの光札に対応するカス札が散らばっていた。


 まるで「こちらへどうぞ」と自分に向かって手を伸ばしているように思え、龍一郎の口角は歪に上がった。


 君から良いよと目代は微笑み、龍一郎は最早断る事も無く、無遠慮に《芒に月》を攫っていく。


 起き札は《菊に短冊》、上々の始まりだった。


 目代は出来役を夢想してほくそ笑む龍一郎をしばらく見つめた後、《柳に小野道風》を捨てた。


 引き当てたのは《菊のカス》、少しだけ速攻役の《月見酒》が遠のいたが、しかし龍一郎の着眼点は別にあった。




 一手目からそれを捨てるのか。踏む(相手の捨て札や起き札を次手で取る事を踏む、と言う)か? いや、放って置こう――。




 龍一郎の二手目。


 《三光》と《月見酒》を主軸として動く事に決めると、《松に鶴》を打ち取る。起こした札は《藤に短冊》、目当てのものでは無かった。


「ねぇ、近江君」不意に目代が口を開いた。


「ハンデ、


 何て失礼な――龍一郎は彼女の顔ではなく、寝癖に目線を向けて素気無く返す。


「……お断りします」


 首肯する目代。


 それから《紅葉に鹿》を青い短冊札で打ち取り、山札から《牡丹に蝶》を起こした。龍一郎は吸い寄せられるように現れた蝶を見つめ、俄に冷や汗を垂らす。


 手札を見やるも、しかし鮮やかな牡丹の姿は無く……。


 どうする? ここで《桜のカス》を捨てて勝負に出るか? 余りに危険か? いや……もう一手ぐらいは様子見出来るか?


 果たして龍一郎は懊悩した挙げ句、《梅に鶯》を場に捨てた。


 桜の札を踏まれるかもしれないという恐怖、「一手くらいは大丈夫」といった傲慢が彼の思考を濁したのであった。


「……クソッ!」


 龍一郎は起き札を検め、怒りのままに《桜に幕》を叩き付けた。彼の手から飛び立つ鶯は、しかし桜の枝を好まない――。


。次に行こうか」


 目代の手札から滑り出た《牡丹に短冊》は、場に目にも鮮やかな真っ赤な花を咲かせる。


 三枚の青い短冊が一つの長い布となり、龍一郎の首をゆっくりと締め上げるようだった。


「残り二四文。如月では……、貰うから」


 札をお願い――目代は龍一郎に札をそっくり渡すと、それから黙したまま彼の乱暴な手付きを見守っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る