第5話:溺れた龍一郎
龍一郎は三階奥――姫天狗友の会に向かう事もせず、テラスに置かれたベンチに腰を掛けて俯いていた。
二周三周とトラックを周回する陸上部の「一、一、一、二」という独特なカウントも、今の彼にとっては小鳥の囀りと同じであった。
何故あそこで勝負を下りなかったのか? 何故札の位置に固執したのか? 何故あの女は勝てたのか? 何故自分は斗路の言葉が理解出来ないのか――?
一つとして抱える問題が解決する糸口が見えず、また頭を捻る程にその糸が複雑に絡み合うようだった。
煙草を吸うなら、こんな時だろうか――龍一郎は溜息を吐いた。
不意に、右頬にヒンヤリとした冷たさを感じた。
「見付けた、文無し君」
トセが横に立っていた。手には二本の缶ジュースを持っており、その内の一本を無理矢理に彼の手の中へねじ込んだ。
「天気良いねー、今日」
コクリ、コクリと音を立ててジュースを飲むトセは、熟したミカンの色に似た空を見上げていた。
「何やっているんだろう、先輩達」
「……俺に構わず、行きゃあ良いじゃねぇか」
今日はいいよ――トセが明るい声で返した。
その明るさが眩しく、申し訳無く……龍一郎はやや声を荒げてしまった。自家中毒に似た怒りが何処までも不愉快であった。
「今日は一人にしてくれ、そんな日なんだ」
「それは出来ないなぁ。面倒な女だろう?」
トセは彼の手に納まったままの缶ジュースを指差した。
「温くなるぞ、リュウ君」
「……リュウ君?」
「そう、リュウ君! 私の事、さっき初めておトセって呼んでくれたよね。そのお礼さ」
リュウ君――かつて彼をそう呼んだ人間は一人だけである。賀留多遊びを教えてくれた祖母、彼女のみであった。不意に蘇った祖母の記憶に懐かしくなり、少しだけ荒んだ彼の心に平常をもたらした。
「リュウ君、リュウ君……うん、何か良いねこの渾名! 私ったら天才かも!」
「……悪いけど、おトセが最初じゃないよ。婆ちゃんが最初だ」
あちゃーと自らの額を叩いたトセは、「でもそれって」と笑った。
「私がリュウ君のお婆ちゃんと似ているって事だよね。運命じゃん!」
「何でも良いけどさ……」
あくまで明るいトセと会話を続ける事により、龍一郎の胸で淀んでいた悩みに緩やかな流れが生じた。
凝り固まっていた負の念が、俄に生まれた流れによって微量だが着実に、ポロポロと崩れていくようだった。
「……呆れたろう? 俺の打ち方」
「うん、すっごく呆れたよ!」
ハッキリと言い切るトセに、思わず笑ってしまう龍一郎。
「でも、あの場を生み出したのは君のお陰だね」
「どういう事だ? 勝負には負けたんだぞ」
「本当に人が熱中したら、逆にその場は静かになるんだ。その静けさを作ったのは、紛れも無くリュウ君の選択によるものだね」
龍一郎は最後に親が札を捲る時、打ち手達が静寂に包まれた光景を思い出した。
「負けたのは、多分……自分の作った流れに飲み込まれたからじゃないかな?」
こんな感じ――トセは溺れるような演技をして見せると、「へへっ」と頬を掻いた。
「……やっぱり、流れとかってあるんだよな」
「そりゃあ勿論。特に《高目》とか、この前に打った《きんご》もそうだよ。読みと運気の手綱を掴んだ人だけが、最後には勝つんだよね、不思議と」
目代、そしてリボンの女が見せた研ぎ澄まされたような無表情は、そのまま二本の手綱を握り締めていた故に生まれた結果なのか……。
ポーカーフェイス。
その表情は内心を読まれるのを防ぐ鎧としてだけではなく、場に充満する機運を突き刺し、留め置く為の槍でもあったんだ――龍一郎は俄に信じ難く、しかし妙な信憑性を持つ推測に頭を悩ませた。
「……あの女、凄い無表情だったよな」
「うん、初めて見る顔だったけど……何だかとても楽しそうだったよね」
え? 龍一郎が首を傾げる。「何となくね」とトセが続けた。
「リュウ君が逆手に張るって言った時、一瞬だけ――あの子、リュウ君の方を見たんだ。その後は普通に札を見つめていたけど、内心……とっても楽しかったんじゃない?」
あの女もまた、俺を見ていたのか……。
龍一郎は決してこちらを向く事の無かった彼女――彼の記憶の中では――を思う。俺を見て何を思い感じたのか、何かを切っ掛けに楽しいと思ったのか……?
「あの子の事、考えているんでしょ」
「……ああ、このまま負けっ放しなのは気持ち悪いからな」
「機会は来るだろうさ、きっとね。斗路さんの言う通り、今は修行期間だと思いなよ」
自己鍛錬の期間、か――龍一郎はトセの言葉を反芻しながら、彼女のくれた缶ジュースを景気の良い音と共に開けると、一気に半分を飲み干した。
冷涼感の残る液体が口へ、喉へ、食道へ、胃へと流れて行く。
五月も既に半ばを通り過ぎ、次第に初夏の暑さが蔓延し始める季節に、トセのもたらした冷涼は彼の肉体的快楽以外にも、精神的安寧すら与えたのである。
嫉妬、憤懣、恨事が練り合わされ一つになった「敗北感」という異物は、涼やかな飲料の流れによって押し流されたのだ。
龍一郎は横に座り、両足を交互に前後へ動かすトセを見つめた。間も無く視線に気付いたのか、「どうかした?」と小首を傾げるトセに、龍一郎は軽く頭を下げた。
「今日、付き合って貰って……悪かったな」
しばらくトセは彼の口元を見つめていたが、クスリと笑いながら答えた。
「……悪いと思うなら、一つ私も付き合って貰おっかな」
ベンチから跳ねるように立ち上がるトセは、龍一郎の片腕を勢いよく持ち上げる、反動で彼の缶ジュースが少しだけ零れた。
「この近くに賀留多屋さんがあるんだ、知っていたかな?」
白い歯を惜しげも無く見せ付け、トセは龍一郎の鼻先を突いた。
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