第9話

 場所は変わらず、スイーツ店「メルヘン」の店内。



「大丈夫か、間切」



 僕を殴り飛ばしたチャラ男は、間切さんの方を向いて、そう問いかける。


 これが事故なら僕に真っ先に謝るところだと思うが、どう考えても故意である。



「いっつー……」



 口内に、鉄の味と臭いが広がった。味はともかく、ここ一週間ほどで嗅ぎ慣れた臭いだろうか。


 口元に手をやると、どうやら端の方を切ってしまったらしく、指にねちゃりと赤い血が付着する。


 犬に噛まれた経験は嫌という程あるが、人に殴れたのは初めてだ。痛みには多少慣れているので大したことはないのだけれど。


 すぐに治せるし。


 心の中で超能力を行使し、ゆっくりと立ち上がろうとする。



「行くぞ、間切。遥の兄貴っていうから様子を見てたけど、お前を泣かせるような奴に任せてらんねぇ」



 ちょうどその時、チャラ男は間切さんの腕をつかもうと手を伸ばしていたらしい。筋肉質で太く、たくましさすら覚える腕だろうか。


 ……が、間切さんに差し伸べられた手はその目的を果たすことはなかった。


 間切さんはその腕を払いのけ、僕の方へと駆け寄ってきたからである。


 僕の周りに、甘い花の香りがふわりと漂う。


 未だ中腰の体制だった僕は、彼女に再び押し倒されるようにして尻餅をついてしまった。幸いにもそれほど高い位置まで腰を上げていたわけでもないので、痛くはない。


 むしろ、それ以上に、間切さんの顔が近くに来たことに非常に驚いた。


 とはいえ、女の子の顔が近くに来たから、甘くドキドキしたという理由で驚いたわけではない。


 店内の控えめな空調にもかかわらず、僕は寒気を覚えたのだ。


 無表情。


 いつも明るく、色々な表情を見せる間切さんはそこにはいない。何も考えていない、ぼーっとした顔というより、絶望に満ち溢れた顔、あるいは静かな怒りをその身に宿しているかのような、そんな顔だった。


 光を写していない真っ黒な眼が、ただただ僕の顔……正確には、口元を見つめている。



「「間切……」さん……?」



 僕とチャラ男の声が被ったその時だ。


 僕の口元にぬるりと生暖かい感触が走った。


 ーー舐められている。


 間切さんは綺麗なピンク色をした唇を近づけ、ねっとりとした柔らかな舌を、僕の口元で滑らせている。


 さながら、親猫が子猫の傷を舐めるかのように、ぺろぺろと丁寧に、傷をいたわるようにだ。


 僕の傷は、超能力治したのでもうすでにそこにはない。あるのは、口元から垂れた血、それだけだ。


 だが、彼女は止めようとしない。僕の口周りが彼女の唾液でベトベトになっても、それは続けられたのである。


 その間、間切さんの頭越しに、大きな音を立てたために、こちらな様子を見ているらしい他のお客さんと、駆けつけてきた店員さんも身を固めているのが見えた。


 状況が飲み込めないのだろう。当然だ。僕も飲み込めない。


 いや、彼女が行なっていることと、その理由も、彼女のことを多少なりとも知っているので、なんとなくわかる。僕を心配しての行動なのだろうとわかる。


 だが、見ず知らずの男に殴られて、直後、口元に舌が這わせられているのだ。理解はできるが、飲み込めない。



「先輩……大丈夫ですか?」



 舐めながら、間切さんは尋ねてくる。表情は相変わらず、完全な無表情。ただ、その声音は、本当に心配してくれているのだとわかる程度には震えていた。



「け、怪我のことなら、大丈夫だよ」



 あまり唇を動かすと彼女の舌と触れる面積が増えるような気がして、極力、口を動かさないようにして答える。


 ある意味、ファーストキスもしていない人間が、キスよりもディープなことをされた身としては、なんとも複雑な気分である。



「そうですか……よかった。いえ、怪我自体に問題ないことはわかっているんです。でも、それでも、万が一があるといけませんから……すみません、先輩、ちょっとまっててくださいね」



 すると彼女の舌は、すっと僕から遠ざかっていった。


 店内の空調で冷やされた空気が、僕の唾液まみれの唇をひんやりと徐々に冷やしていく。



「間切さん……?」



 どことなく不安に駆られ、腰を上げ始めた間切さんを呼び止めようとする。しかし、それは弱々しすぎた。もう少し、強く呼び止めるべきだった。



「先輩に怪我を合わせた、殺しますから」



 彼女はなんでもないかのように、冷たく、そう呟いたのだ。


 それは帰り道、飲み物を買ってくるというような自然さで。


 しかし、買ってきたものが、夏場であるのにもかかわらずホットコーヒーであるかのような不自然さで。


 それは完全なる倫理観のズレ、常識のズレ。


 人を殺してはいけないという倫理観が、完全に消え去っていると理解できるだけのリアリティが、今の彼女からは感じられた。


 だが、僕はそんな彼女に既視感を覚える。怪物を倒しに行ってくると笑顔で言う彼女と、倫理観のズレという点で、似通っている。



 ーー彼女は狂っている。



 もともとわかっていたつもりだった。彼女の重すぎる愛の異常性については、理解しているつもりだったのだ。


 足りなかった。


 理解が、足りていなかった。


 普段は普通の女の子なのだ。それが、一皮むければ、狂人と化す。それが彼女の異常性、いや、狂気だった。


 口元の冷えが、一層ひどくなった気がした。



「間切さんっ!」



 それはとっさに、といっていい。考えるよりも早く、彼女を止めるべく、僕はその細い腕を掴んで止めた。


 ここで止めなければ、取り返しのつかなことになるのは明白だった。彼女には、やるといったらやる、そんな凄みがあったのだ。



「? 先輩?」



「僕は大丈夫だから、落ち着いて」



「でも……」



「いいから」



 抗議の言葉を途中で止めて、僕はその場で立ち上がる。そしてそのまま財布から5000円札を抜き、机の上に置いた。



「いこう、間切さん」



「えー……でも私、こいつ殺さなきゃ……」



「つべこべ言わないの」



 少しだけむすりとした間切さんを見て、少しだけ安心する。言っていることはおかしいけれど、なんの感情も持たないソレよりは、何倍もマシだ。



「悪いけど、君にもきてもらうから」



「は?」



 僕は呆然としていたチャラ男の腕も有無を言わさずに引っ張り、店員さんやお客さんに「すみませんでした」と謝りながら、二人を連れてその場を後にする。



 途中、店内で遥の姿がちらりと見えて、やっと、状況を飲み込めた気がした。




◆ ◆ ◆




 逃げ先に選んだのは、お客さんの少ない喫茶店。あまり人に聞かれたい話でもないので、近くにあって丁度良かった。


 僕と間切さんが隣に座り、対面にチャラ男が座っている形であるが、僕の腕に嬉しそうに無言でひっついている間切さんと、僕を鋭く睨むチャラ男という構図はどうにかならないものだろうか。


 居心地が悪い。


 入店と同時に適当に頼んだコーヒーをすすりながら、僕は重い口を開いた。



「で、まず君は誰?」



「……テメェには関係ないだろ。それより、間切から離れろ」



「僕からくっついてるわけじゃないし……さっき幼馴染と言っていたけれど、それは間切さんとな、ってことでいいのかな?」



「……ああ、そうだよ。お前、遥の兄貴なんだって?」



「うん。やっぱり、君が遥のいっていた友達か」



 以前、遥が間切さんのことを好いている友達に相談されたと言っていた。店内に遥もいたし、遥は僕がスイーツ店「メルヘン」に行くことは知っていたはずである。


 待ち伏せか尾行かはわからないけれど、意図的に僕たちを見張ってたのは確かだろう。


 あとで問い詰めなきゃ……まあ、今はそれは置いておこう。


 名前も分からなくては話が進まないので、腕に自分の頭をぐりぐりと押し付けている間切さんに聞いてみることにした。



「間切さん、彼の名前、わかる?」



「え? えーと……確か、近所に住んでる板付康太(さかつきこうた)ですね。昔はよく話してましたけど、小学校中学年あたりからはさっぱりで」



 間切さんはひどくどうでも良さそうに答える。これが元カレ、元カノの関係だったのなら、僕は完全な間男だったので、とりあえずは安心だろうか。まあ、その心配は、遥の話からして、あまりしていなかったのだが。



「坂付君か。知ってると思うけれど、僕は直沢治。とりあえず、誤解から解くことにしようか」



「…………いや、今の間切を見てればわかる。俺の早とちりだったんだろ」



 少しだけ悔しそう、あるいは気まずそうにしながら、彼は下を向く。



「まあ、そうなるね……なんで間切さんが泣いてしまったのかは、僕も知らないけれど。今話したいのは別のことだ」



「ああ?」



 彼の怒ったように眉間に寄った皺が、別の意味で、怪訝そうに深くなる。


 ……いちいち睨まないでほしい。怖いから。



「なんで急に僕を殴ったの?」



「それは、お前が間切を泣かせたと思ったから……」



「でも、勘違いだったと」



「……そうなる」



「うーん、そっか……先に言っておくと、僕はこれっぽっちも怒ってないし、君を責めるつもりもないよ」



 実際のところ、殴られた理由は気になったが、それ以上でも、それ以下でもなく。ただ、疑問が働いたくらいだ。


 怪我なんて一瞬で治せる僕にとって、殴られたこと自体は大した問題でもない。痛いとは感じるけれど、それだけだ。


 むしろ、間切さんに舐められまくったことと、それを大勢の人に目撃されたという事実のほうが精神的にキツイ。


 思い返してみれば、めっちゃ恥ずかしい。動画とか取られてないかと、かなり心配である。



 ただ、僕の超能力について何も知らない彼にとっては、



「俺がいうのもなんだけど、急に殴られても怒ってないって……お前、おかしいんじゃあないのか?」



 と、なるのは仕方ない。別に理解してほしいことでもないので、説明もする気は無いのだが。



「ひどいな。君の行動は、間切さんを想ってのことだったんでしょ。それなら、責める気は無いよ……流石に、人を殴るのが趣味っていうのなら、でるところに出てもらうけど」



「んなわけねぇだろ!」



「だよね、安心した」



 ただの愉快犯であるのなら、それは普通に警察に突き出すところである。



「でも先輩、こいつ、先輩のことを殴ったんですよ。生きてる価値なんてないです。ここで殺しておいたほうが、後顧の憂いなしですよ。またいつ殴られるか、わかりません。一回やった人間は、二回、三回とやるものなんです。私なら証拠もなく、殺せます。いつもと変わりません。ね? いいですよね? 私、我慢できないんですよ。先輩を傷つけた奴がのうのうと生きているなんて。だから先輩、いいでしょ?」



「ダメ」



「えーっ!」



 ぷんぷんと可愛らしい擬音が聞こえてきそうなほど、間切さんはあざとく頬をぷっくりと膨らませて、抗議してくる。


 そんな可愛い顔しててもダメだから。言ってることが物騒すぎる。



「……なあ、さっきのこともだけどよ、間切、お前どうしたんだ? そいつになんかされたんじゃあないよな?」



 ずっと気になっていたのだろう。チャラ男君はここぞとばかりに間切さんに問いかけた。



「あ゛? 先輩に失礼なこというなよ、ゴミ。私は先輩命を助けられたんだから、尽くすのは当然だっつの。お前、今、先輩に生かされてるの。状況わかってんの? わかったならそのクセェ口閉じろやプラナリア」



 ……対して、間切さんはめっちゃ喧嘩腰。敬語の間切さんしか知らない身としては、かなりビビる。普段、彼女はどんな感じで話すのだろうか。こんな感じなのだろうか……それは嫌だな。



「っ……」



 ほら、チャラ男君、なんか涙目だし……助けようとした女の子からズタボロに言われるのはとても辛そうだ。



「間切さん、僕は怒ってないし、彼も誤解だってわかるってると言っているし、許してあげられないかな」



「……先輩がそういうなら、我慢します」



 ……許しはしないのか。まあ、今はそれでいいか。



「ってことだから、坂付君。今日のところは、引き下がってくれないかな」



「でも……」



「いいから。でも、一応念の為、君の連絡先を聞いていいかな。あとで聞きたいこともあるんだ」



「あぁ? 聞きたいこと?」



「ダメかな?」



「……………………チッ、わかったよ。俺が早とちりで殴っちまったのは事実だし、それくらいは……」



 チャラ男君は渋々といった様子で、ラインIDとメアドを差し出してくる。あとで遥に聞いても良かったが、本人から受け取ったほうが返信ももらいやすいだろう。


 受け取った僕は、心の中でガッツポーズ。子供の頃の間切さんを知る彼に、これで色々と書くことができる。


 間切さんとのお出かけはぶち壊しだし、結局、お菓子も食べられずじまいだったけれど、主目的の半分は達成できたといってもいい。



「それじゃあ、僕たちはもう行くから。もう、考えなしに行動しないほうがいいよ」



「ああ…………悪かったな」



 ぶっきらぼうに、視線を逸らしながら呟く彼を見て、軽く達成感を覚えながら、間切さんを連れてーー置いて行ったら何をしでかすかわからないしーー喫茶店を後にするのだった。







 ーーーーそして次の日の朝。坂付康太が、遺体で発見された。

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