ch.1 報せ舟


アムは悪夢を見て目が覚めた。

自分が死ぬ夢。

動悸が激しかった。

落ち着くまで待って、腹部と顔面を撫でまわす。

血はつかない。

夢だった。

ただの夢だった。

私はじゃない。

私は言語学者のアム・セパア、紛れもなく人間。

ここは海の中ではなくて、アルマナイマ国際宇宙港の自室のベッドの中……。

ほう、と安堵の溜息をつくと同時に、ベッドサイドの壁がスライドしてモニタが現れる。

前面にせり出したモニタの電源が自動的に入った。

<バイタルサインが乱れています。精神安定剤が必要ですか?三十秒以内にお答えいただけない場合は次のステップに移行します>

と表示されたモニタの<いいえ>のパネルを弱々しくタップする。

モニタは幾分、疑わしそうにのろのろと壁の奥に引っ込み、ベッドサイドはいつも通りのフェイクウッディな調度に戻った。

アムは、何でこんな変な夢を見るのだろうと思いつつ、枕元に表示された時計を見る。

まだ夜明け前だ。

寝なおそうかと考えたが、やめる。

根拠はないが、また同じ夢を見そうな予感がしたからだ。

辺境惑星アルマナイマの宇宙港管制官兼言語学者として赴任して三年目。

自分が龍になった夢を見るのは初めてである。

風を切って空を飛ぶ快感も、未知なるものに遭遇した慄きも、柔らかい腹に牙を突き立てられる痛みも、瑞々しいと言っていいほどリアルだった。

アムはベッドの下に放り出してあったサンダルをつっかけると、のろのろと立ち上がる。

海を見に行こうと思ったのだ。

常夏のアルマナイマ星の海は美しい。

今の時間から出て行けば、ビーチに着くころにはちょうど美しい日の出が見えるだろう。

早起きは三文の得と古代の地球では言ったそうだ。

そうであればいいなとアムは思う。

ところで、三文とはいくらなのだろう?

アムの動きに合わせて、部屋の照明が全てオンになった。

書類が散らかった机が目に入り、悪夢から覚めてまた悪夢を見たような気がして、というかこちらの方が現実的な脅威としてアムをげんなりさせる。

宇宙開発全盛のご時世において未だに前時代的な紙の書類が山積みになっているのは、この星ならではの事情によるものだ。

アルマナイマ星は特殊な大気組成を持ち、そのために電子機器の作動が著しく不安定である。

特に星外との情報の受発信は阻害される傾向にあった。

ではなぜ宇宙港は機能しているのか、という最もな問いに対する答えは、ここがその特殊大気層の唯一薄い場所だからなのである。

この星に住む大型生物の名を冠して<龍のへそ>と名付けられた大気層の穴が無ければ、そもそもアルマナイマ星自体が現在の科学技術では発見不可能であったかもしれない。

いまだに最新の軍事調査用ソナーを打っても、アルマナイマ星は謎の<へそ>の部分しか見えない星なのだ。

そんなわけでアムが提出する予定の論文と、自然分野専門の動画配信サービスからオファーのあったエッセイの下書きと、官民織り交ぜてそれこそ星の数ほどの問い合わせの紙束は、ぐずぐずと机の上に居残っていた。

そこまで多忙なのは、アムがアルマナイマ星で唯一、汎銀河で通用するの正規の戸籍を持った人間だからである。

先々月までは二人いたのだが、片方は戦闘―――対外的にはテロとされた戦闘により死亡した。

アムは、机の上の現実から目を逸らして部屋を出る。

客もスタッフもおらず、ただ掃除用ロボットだけが律儀に動いているだけの宇宙港は寒々しかった。

ガラス張りの正面玄関から外に出ると、強い海風が吹きつけてくる。

予想外なほど寒かったので、アムは宇宙港のロゴの入ったジャケットのファスナーを上から下まできちんとしめた。

天候は晴れ。

スコールを降らせるようなどす黒い雲はないし、傘は持たないことにした。

もっともこの星では、龍が雨を降らせることもあるから油断はできないのだが。

滑走路の脇の道を通り南側へ進むと、進入禁止の看板が貼られた木柵が置いてある。

その柵をどけてさらに歩めば、浜辺へ続く坂道が始まる。

坂道の天辺からは海が見えた。

アムは潮の香りを肺いっぱいに吸い込む。

日の出の気配に輝きだすエメラルドグリーンの湾と、白波の砕けるラグーン。

その外に広がるのは深い青の、文明に汚染されていない純な海だ。

甲高く鳴き交わしながら、日の出を待ちきれない海鳥たちが一散に南へ飛んでいく。

東から空がいよいよ白み始めて、やがてぽっと太陽が頭を出した。

自然のエネルギーを凝縮した風景の中で、アムはようやく心がほぐれていくのを自覚する。

知り合いから聞いた魔よけの言葉を呟いた。

こういうシチュエーションなら効きそうな気がする。

「我が海原の父母よ。悪しきものが我が背におぶさる時は、どうか振り落としたまえ」

アルマナイマ星に住む海洋民族セムタムのまじない。

悪夢を見た後に言うのだと聞いた。

だいたいの知的生命体にとって夢が宗教的に、あるいはスピリチュアル的に重要な要素であるように、セムタム族の社会においても夢は神からの預言として大きな意味を持つ。

夢を専門に扱うシャーマン<夢見師>が存在するほどである。

その夢見師から教わった正確なまじないであるから、効くだろう。

効くに違いない、とアムは自らに言い聞かせた。

郷に入っては郷に従え。

まじないの効果が早くも表れたのかどうかは定かではないが、日の出鑑賞をひと段落したアムが何気なしに海のかなたに目を遣ると、カヌーの白い帆が点と見えた。

見守っていると、その白い点は少しずつ少しずつ大きくなる。

どうやらアムの住む空港島に向かって進んでいるのだった。

ならば、こちらに用があるのだろう。

アムは浜に下りてカヌーがやって来るのを待つことにする。

風は相変わらず強く、外海は波が高くなりつつあるように感じられた。

カヌーは二艘。

波にもひるまず、舟足は速い。

ぴたりと前後に並んでやって来る。

どちらのカヌーを操るのも、良い漕ぎ手なのだろう。

アルマナイマ星の知的生命体はこれまでに二種類が知られている。

一種は龍。

爬虫類的な外見と高い知能を持ち、意思疎通が可能な種もあり、空から深海までおおよそあらゆる範囲を生息圏にしている。

もう一種はセムタムである。

こちらは二足歩行型の生命体、つまり異星人類の一種であって、体のパーツはほぼ地球型人類と変わりがない。

言語もあるし、立派な社会構造を持ち、独自の文化を発展させている。

カヌーを操るのは、もちろんセムタム族だ。

彼らのカヌーは、外星の人々からは船体の材質から竜骨カヌーとも称され、学術的にはシングルアウトリガーカヌー、すなわち船体の片方に浮き木が張り出している帆を持つカヌーに分類されるもので、セムタム族の言語ではファッカムセランと呼ばれる。

アムは論文でも一般人向けのエッセイでもセムタム語を尊重して、ファッカムセラン・カヌーと書く。

朝日の中でカヌーの帆が輝いていた。

風を捉まえてぐんぐんと進んでくるカヌーの帆に描かれた紋様が見えるようになると、アムはジャケットを脱いで、漕ぎ手に見えるように大きく振り回す。

手に持った布を沖合に向けて振るのは、セムタム族の<入港歓迎>の合図だ。

先頭のカヌーの帆に描かれた紋様は、ジグザグの線で稲妻が走る図を表現している。

後続のそれは渦巻型にシンボライズされた海龍の顔。

知り合いのカヌーだった。

いつの間に仲良くなったのかしら、とアムは不思議に思う。

ふたりは犬猿の仲とは言わないものの、<稲妻>の方が<海龍の顔>の方を一方的にライバル視していて、事あるごとに挑発しているのを知っていた。

ただ組み合わせとしては何となく意外なのだが、両方とも気持ちの良い男たちであることは保証できる。

カヌーはラグーンの切れ目まで辿り着いた。

穏やかに見えてここが実は大きな難所で、細心の注意を払う必要がある。

ラグーンの付近は水深が浅いから座礁しやすいし、切れ目の部分は海水の出入りのせいで急に流れが速くなるのだ。

怖いもの知らずの一艘目<稲妻>はイルカが跳ねるような高々としたジャンプを見せて、元気よくラグーンを乗り越える。

二艘目<海龍の顔>は対照的に、いつの間に越えていたのかしら、と見ているこちらが驚くほどスムーズに、滑るようにラグーンの切れ目をクリアした。

「ドク!」

と、一艘目<稲妻>の舳先でセムタム族の青年が大きく手を振っている。

海で鍛え上げられた筋肉質の上半身を風にさらして、自信満々と言った表情で胸を張る青年は、海洋民族セムタム族の快活さの好例だ。

ズミックという海藻繊維で織られたセムタム族の伝統的なズボンを穿き、腰には遠目にもそのきらめきが明らかな、黄金色の剣を下げている。

二艘目<海龍の顔>の漕ぎ手は深々と頭を下げ、櫂を水平に捧げ持って、迎える側への礼儀を尽くした姿勢でアムに挨拶を送っている。

アムは砂浜に船腹をこすりつけながら止まった二艘のカヌーに駆け寄った。

「今日は早えじゃねえか。ええ、寝坊助ドクよ」

おはようエンダ、トゥトゥ。あなたも随分早いじゃない」

<稲妻>からひらりと下りたセムタム青年は、名をトゥトゥと言う。

百九十センチというセムタム族でもずば抜けた高身長と、腰のあたりまで伸びる炎のような赤い髪、心の底まで見透かすような深海色の瞳の取り合わせが、見る者に強い印象を残す。

トゥトゥはアムにとって、セムタム族文化の最高のナヴィゲーターであった。

この星で初めてまともにアムと喋ってくれたセムタム。

目を細めて、トゥトゥはにんまり笑う。

「報せ舟の一番手だからな。朝も晩もねえのさ」

「トゥトゥが?どうしてまた」

とアムは驚いて目をしばたたく。

報せ舟とは、海洋民族セムタムの速報ニュース伝達係である。

セムタム族は定住生活をしない。

さらには集団生活をもしない。

余程の大事件がない限り(例えば、彼らの神と崇められるような龍が余所者の宇宙船と激突したとか、あるいは年に三度の龍祭だとか)徹底的に個人主義で生きている。

家族ですら子供が独り立ちすればバラバラになるのが普通だという。

そんなセムタム族の間でニュースを広めるのは大仕事だ。

緊急で伝令をしなければならない時は、セムタム社会でも顔の広いものが報せ舟となって知り合いを訪ねて回る。

伝令を聞いたものがまた知り合いに伝えていく。

そうしてニュースが広まる。

報せ舟の一番手とは、速報しなければならない事件・事象の第一目撃者のことを言う。

「まあ、ほら、それは手前が言えよエタリ」

にかにか笑っているトゥトゥは、<海龍の顔>の漕ぎ手を顎で指した。

「そういえば挨拶がまだだったわ。おはようエンダ、エタリさん。歓迎します」

おはようエンダ、ドクター。島の静けさを打ち破ることを残念に思います」

エタリ。

操船の技術が対照的であるのと同じように、こちらは無口で思索的なセムタムである。

剃り上げた頭と穏やかな眼差しは、まるで求道僧のようだ。

歳はアムよりも上であるので、アムは名を呼ぶときに敬称をつける。

「エタリさん、何があったのか聞かせてもらえますか」

「私は嘘をつかないと証立てましょう」

トゥトゥが、ふんと鼻を鳴らした。

それから小さい声で

「ほんと、まどろっこしいやっちゃなあ」

とぶつぶつ言う。

こちらは年長者に対する敬意と言うものがほとんどない。

エタリはトゥトゥに構うことなく、アムにだけ語りかけた。

「二日前のことです。私とトゥトゥはカヌーの技を磨いていました」

「競争な、競争」

「私が先頭に立って漕いでいましたが」

「ほとんど並んでただろうがよ」

説明しろと自分で言った割には会話に入りたいトゥトゥが、茶々を入れようと身を揺らし、うずうずしているようだったので、アムは顔の前で手を振った。

これはセムタム族のジェスチャーであり、伝えたいことは明瞭である―――黙れ。

面食らったらしきトゥトゥは、ふぬ、と言ってから静かになった。

ごめんなさいプリ―、エタリ。あなたの邪魔をしました」

「いえ」

とエタリは穏やかに笑った。

「いいのですよ。さて、カヌーを漕いでいた私の目の前を、見たことのないものが激しい速度で掠めていきました。それはホピの実のように丸く、羽が生えていて、全体的に透明で、非常に目視のしづらいものでした」

アムは今朝がたの悪夢を思い出して、ぎょっとする。

ここを、と言ってエタリは右肩を見せた。

五センチほどだが、まだ赤い傷跡がざっくりと刻まれている。

「ハナレアレ」

とアムは言った。

これは鎮痛のまじないであり、怪我をした人に対する「お気の毒に」の意味である。

ありがとうアエラニ、ドクター。私は、これはセムタムの伝承にもない化け物ヘカーの現れであると考えて、それでトゥトゥとふたりで報せ舟の一番手になったのです」

ここでエタリの話は終わりだった。

彼は無駄なことを言わない。

冗談を言わないので、セムタムの中でも有名である。

これでも今日はまだ長く話したほうだ。

初めて会った時など「はい」と「いいえ」しか言わないものだから、アムは彼にインタビューするのを諦めたものである。

「でもなあドク。俺は見えなかったんだぜ透明な化け物ヘカー。そのあとカヌーからぶち落ちたことの言い訳じゃねえかと睨んでるんだけどなあ」

トゥトゥが小馬鹿にして言うと、

「お前は口が動き過ぎる」

エタリが一喝した。

ぐるる、とトゥトゥは喉の奥の方で唸った。

まるで大型の獣が威嚇しているようである。

仲が良いのか悪いのか。

信じていないと言いつつもエタリと一緒に報せ舟をしているということは、トゥトゥが一応は彼を案じているということだと思われるのだが。

「エタリさん、私にも聞いてほしいことがあります。もしかしたら、そのヘカーに関係があるかもしれない」

アムは言った。

エタリの話にあった<猛スピードで飛び、羽があり、透明な殻を持った何か>はアムの悪夢に登場した落ち星モドキの特徴と合致する。

龍の夢は、龍の遺言だとセムタムは信じていた。

セムタムと至近距離で暮らしているがために、もしアムが真に星の一部として認められているのならば、その遺言をキャッチした可能性もある。

信じがたいことではあるが、この星では信じがたいことの方が沢山起こるのだ。

例えばアムとトゥトゥは、創世神話に出てくる天の龍にして黄金の王の異名をもつアララファル本人に会ったことがある。

さらに言えば、気まぐれな王が人に擬態して真面目に働く、という遊びを敢行しているが故にアルマナイマ星を今のところ留守にしているというところまでも知っている。

何故知っているのかと言えば、彼がアムに口頭で説明して彼が出て行ったからだ。

つまるところ、気まぐれな天神の遊び相手に指定されたようなのだが、そういうことがアルマナイマ星では往々にして起こる。

ここでは、創世神話の登場人物はほとんど存命で、しかも触れられる存在だと考えたほうが良い。

「話、長いやつか?」

とトゥトゥが問うたので

「長いかも」

アムは答えた。

「ようし、そんなら飯食おうぜ。朝飯喰わねえとやってらんねえや、なあじじい」

「話を聞きながら海の上で食べればいい。報せ舟だ」

「やだね」

子供のようにトゥトゥは両手両足を踏ん張って、もう一度言う。

「やだね。そんなら手前だけで行け」

エタリは少し考えてから、ふううと長い長い溜息をついて、折れた。

「仕方ない」

ひゃっほう、と叫んだトゥトゥは途端に上機嫌になって、自分のカヌーの底から魚を掴んでは浜に放り投げ始める。

エタリは粛々と石を集め、波の当たらぬ浜の奥で簡易的な窯を組み立て始める。

窯の下で火を起こし魚を焼くのだ。

焼き魚は身を崩して、抗菌作用のあるホピの葉に包んでおけば航海用の保存食にもなった。

アルマナイマサンゴ石を組んだ窯は非常にもろいが、一回の煮炊きくらいなら何とか耐えてくれる。

「何喰う、ドク? さっき走りながら銛で突いてきたんだ。新鮮だぜ」

色とりどりの魚が浜に積まれていく。

いかにも楽園の魚というイメージを異星からきたアムには感じさせるものだ。

トゥトゥが一匹ずつ指さしながら解説してくれる。

アムは胸ポケットからメモ帳を取り出して、すかさず書き留めた。

赤い鱗に青い目の魚は現地語でフガラ、青い体に黄色い縦じまが入ったのはポナポナ、銀色の鱗のずんぐりしたのがオ、鼻先が尖がっているやつはアポナヒ。

「私、これがいい。食べたことないもの」

アムが指さしたのは、全体的に扁平で、黄色い地に黒い班が散った魚。

口先から尻尾の先まで三十センチというところ。

魚を片手につかみながら、トゥトゥが振り返った。

口角をきゅっと上げて笑う。

発達した犬歯が見える。

「いい魚選んだな。そいつはカイアレ。生でも喰えるけど試してみるか?」

「挑戦する」

「俺の小刀ペライナ貸してやるよ。さばいてみな」

平たい石をまな板代わりにカイアレと格闘していると、魚の鱗まみれになった手を浅瀬で洗いながらトゥトゥはにやにやと笑っている。

「相変わらず不器用だなあ。エタリに見せたら卒倒するぜ」

「エタリさん、上手なの?」

「料理人が一番向いてる」

そういえば、とかまどの方に視線を向けるともう火は赤々と起こっていて、エタリは近くにあったホピの木の葉を摘み取って、軽く石をあててなめす作業に取り掛かっていた。

ホピは強い木だから、物を包むには繊維を柔らかくした葉でないといけない。

「あのさ、トゥトゥ。ひとつだけ聞かせて」

「おう」

「いつから仲良しなの?」

ぶ、とトゥトゥは噴き出す。

怒ったように眉根を寄せて(しかしこれは困惑の表情である)

「気色悪いこと聞くんじゃねえや。あれはいつかぶっ倒してやる相手だ」

すたすたと歩いて行ってしまった。

ふうん、なるほどね、よかったじゃない、とアムは独りごちる。

やっとまともに尊敬できる大人アカトを見つけたのね、と。

そして、三人で作った朝食はとても美味しかった。

アムのさばいたカイアレの刺身も、鮮度が良いのでほのかな甘みがあって良かった。

が、白眉は何と言ってもエタリの作である。

エタリは砂時計型の木製の細工物にオリジナルブレンドのスパイス粉を入れて持ち歩いていて、それを振りかけて蒸し焼きにしたフガラの味は、アルマナイマでアムが食した中でも最高級の蒸し魚だった。

青魚の臭みが消え、うまみだけが浮き出ている。

時折ピリッと辛いスパイスが舌に乗り、それでさらに口の中へとすべての意識が集中する。

他所の星の五つ星ホテルで供したとしてもおかしくない逸品だった。

アムはこっそりと、トゥトゥの脇腹をひじでつつく。

「あん?」

「エタリさんにスパイス分けてもらってね」

「食いしん坊め」

「私からは言いづらいのよ。上手いことお願いしてくれない?」

ふん、と鼻を鳴らしたトゥトゥはエタリに向かい、大きな声で言った。

「おうじじい。ドクがスパイス分けてくれってよ」

「そのまんまじゃない! あと、ちゃんと敬語使いなさいってば」

「何だ。言いたいことは言いたいように言えばいいじゃねえか。まどろっこしい」

短い笑い声が聞こえたので目をやると、信じられないことにエタリが笑っていた。

余所者がセムタムにセムタム語を指摘するというシチュエーションが面白かったらしい。

トゥトゥはこれ見よがしに鼻を鳴らした。

「ドクター。私のスパイスはパンパナスと交換することになっている。ひと瓶でおおよそ一匹と交換だ」

ぐえっ、と率直な感情が声に出そうになって、アムは慌てて自分の口を塞いだ。

トゥトゥが噴き出す。

「そいつはドク、うんと頑張らねえとだな!」

パンパナスとはこの星の海に生息する肉食亀である。

肉質が良くセムタム族にとっては一番のごちそうだが、反面、極めて凶暴で下手をすると大人のセムタムが命を落とすような相手だった。

何しろ小型海龍ですら捕食してしまう亀なのである。

アムは狩猟の手助けをするどころか、手を出そうと思ったことすらない。

「まるごと一匹……」

目頭をもみほぐしながらアムは呟いた。

「……また挑みがいのある目標ができたわ」

そんなアムの傍らで、トゥトゥがひそひそとエタリに囁く。

「ほらな。ドクは食い意地と負けず嫌いの度合いじゃ、セムタムにも引けをとらねえんだよ」



報せ舟は島から島へと海域を巡っていく。

空港島の次は南方のアムナ島、そこを過ぎると西方に航路を変えてプ・アトプ島へ。

出会ったセムタム達に片っ端から、ヘカー(あるいは落ち星モドキ)の話をする。

素直に信じる者が多かったのは、エタリの人徳のなせる業だと思われた。

二艘のカヌーは順調に速度を上げていく。

で、とトゥトゥは眉間に皺を寄せて言った。

「なんでドクまで行くんだ?」

「龍の遺言を受け取ったのは私だし―――」

「俺たちに話したから義務は終わってる」

「―――知らないことを見に行くのは、私の仕事なの。学者だからね」

分からんなあ、という様子でトゥトゥはアムをじっと見つめたが、アムが譲らないのを見てお手上げの意味を込めて首を振る。

他の文明と接触したことのないセムタム族にとって、他の星からやってきてわざわざ自分たちの文化を教わろうとする存在、すなわち学者(ドクター)とは理解しがたいものであるようだ。

アムの愛称としてのドクターは定着してしまったが、観念としてのドクターは定着しなかった。

あああ、と呻くトゥトゥ。

「もうちょっと海が大人しいときについてきてくれよ。カオ・トーレ・アウ・イテ」

「また不敬なこと言って。知らないわよ出てきても」

「黄金の誰かさんよりは暇じゃないだろうさ」

帆桁に結び付けたロープの張り具合を確かめながら、トゥトゥは忙しく立ち働いていた。

アムの方は操船用語で言われるところのアカクミ、要するに船体を超えて入ってきた海水の掻き出し作業を手伝っいながら喋っている。

ファッカムセラン・カヌーは竜骨を基材とした軽量なカヌーだが、木材のそれと原理原則は同じである。

海水が底に溜まってしまえば沈む運命だ。

「カオ・トーレ・アウ・イテ、卵が流れちまう、ね」

とアムが共通語交じりの言葉で呟いたのを、トゥトゥの敏い耳は聞き逃さなかった。

「イテのことを、星の外の言葉では卵って言うのよ」

「ふーん、タマゴね、タマゴ。覚えとく」

トゥトゥは、メモを取るアムの真似をして、けらけらと笑う。

このセムタム語のスラングの語源は、創世神話でのエピソードにまで遡る。

それはセムタム族に仲間と認められるため成人の儀式に挑んだアムが、はじめの方に暗記したお気に入りのエピソードだ。

アルマナイマの海の長となった海龍アラコファルと、逆プロポーズによって妻の座を射止めた女神マウメヌハヌの、冗談かと思うくらい人間臭い物語。

それは、こうである。



海底の女神マウメヌハヌは、<海龍の長>アラコファルとの間に生まれた卵を無時に孵すため、柔らかな白砂の敷き詰められた浜辺に居を構えた。

海龍の弟であり、深い知恵の持ち主であった<島々の主>アラチョファルが、卵は海の中で孵してはならない、天と海と地の交わる浜辺で孵すべきで、さもなくば骨のないぐにゃぐにゃの生き物しか生まれないであろうと言ったからである。

さて、アラコファルは卵が孵るまで大人しく待っていようと思ったが、どうしても愛しい妻の姿が見たくなってしまい、ある日たまらず海面を割って首を出した。

すると、余りにも大きな体に押しのけられた波たちが一目散に湧き立って、女神ごと、浜辺の卵をことごとく海に押し流してしまった。

女神マウメヌハヌはカンカンになって怒り、アラコファルは慌てて卵を探しに出た。

十一個の卵を傷ひとつつけず回収することは不器用な海龍にはたいそうな難事業であったが、それでも何とか女神の待つ浜へ抱えて戻る。

さすがに懲りたアラコファルは卵がすっかり孵るまで浜辺に頭を乗せ動かないことにした。

そうすれば間違えて大波を起こすこともないし、妻と喋ることもできる。

卵から子供たちが生まれて、それぞれの世界に散っていったあと、そろそろと首を上げた夫の姿を見て、女神は悲鳴を上げた。

透けるように真っ白な鱗が自慢だったアラコファルは、ずっと外に出していた首の部分だけ、不格好に日焼けしていたのだった。

それを天から見ていた兄アララファルは長い腹を六本の手足で抱えて笑った。

このときアララファルの笑い声から、世界で初めての虹が産まれたという。

プライドの高いアラコファルは兄に笑われたことに相当腹を立て、すさまじい勢いで潜ると(そしてまた波を起こして女神を海に流したし、逃げ遅れた龍は波に砕かれて魚になった)海底火山の所まで行って、全身くまなく真っ黒になるまで焼き焦がした。

夜の闇のような鱗をまとったアラコファルは「ざまあみさらせ」と叫びながら、今度は勢いをつけて天まで伸びあがり、まだ笑い転げていた兄を海に叩き落としたという。



ここから海と天を股にかけた一大スペクタルな兄弟喧嘩が起こることになる。

末弟アラチョファルの仲裁により喧嘩は引き分けに終わるが、あらゆる生命が迷惑をこうむったこの一件を教訓にして、セムタムは言うようになった。

卵が流れちまう(カオ・トーレ・アウ・イテ)―――情熱が有り余って何もかもを台無しにしてしまう、と。

外海は見た目以上に荒れていた。

波のうねりがざわついている。

アムの技術では、こんな海をひとりで渡ることはできない。

迷いなくカヌーを進めるトゥトゥとエタリの操船技術の高さが、ひしひしと感じられた。

ようやく作業がひと段落着くとトゥトゥはエタリに向かってハンドサインを送り、何度かやり取りして針路の打ち合わせが済むと、船底に腰を据える。

ありがとうアエラニ。手を休めてくれ。しばらく風なり、潮なりでいい」

「うん、ありがとうエポー

アムは汗を拭って、肩を揉みながら、同じように船底に座った。

海は、男も女も老人も幼子も差別しない。

他の星の人間からすればセムタム族の暮らしは何にも縛られない自由気ままな楽園暮らしに見えるかもしれないが、カヌーひとつ、腕ひとつで生きていこうとすることは肉体的にも精神的にも重労働である。

時計は持ってきていなかったが太陽の傾きからしておおよそ一時間ほど経ったころ、突然トゥトゥがすっと立ち上がり、風を吟味するように天の彼方に目を凝らした。

「嫌な吹き方だな」

その独り言に合わせるように、アムの首元に生暖かい風がぬるりと当たる。

体がびくっと竦んだ。

トゥトゥは気づいていない。

せわしなくエタリとハンドサインのやり取りをしている。

アムは体の向きを変えて、海を覗き込んだ。

ふと違和感を覚える。

群島域の海には、何度も自分のカヌーで出た経験があった。

海洋民族セムタムの成人の儀式に挑んだ際は、勿論のこと必須項目として実地の航海術が求められたから、空港島から近いアムナ~プ・アトプ間は何度も何度も練習のために漕ぎ渡っている。

空港島~アムナは島影が見えるからセムタムにとっては航海とすら言えないだろうが、アムナ~プ・アトプは順風でも二、三時間は島影が見えないし、海流に癖があるから初心者には歯ごたえがある航路だ。

風はやや強く、波は細かく高く立っているが、日は出ている。

その条件で海面はこんなにも暗かったか?

こんなにもどす黒い色をしていたか?

アムは遠くを見、近くを見直して確認する。

直上には雲がなく、従って影ではない。

もう一度海面に目を戻したとき、アムは確信した。

「トゥトゥ!」

「待てよ。今エタリと」

「海の下から何かが近づいてきてる。カヌーを回して!」

何だって、とトゥトゥは言って周囲を見渡し、愕然とした顔になる。

「目くらましか。挑みの儀なんてされてねえのに、何で―――」

波が盛り上がるようにして高くなった。

どん、と大きな異音が後方で鳴り、アムはカヌーのへりにしがみつきながら振り返る。

エタリのカヌーがひっくり返って、宙を舞っていた。

巨大な何かの尾らしきものが海面に突き出している。

「口を閉じろ!」

というトゥトゥの叫び声が聞こえて、次の瞬間、がっしりした腕に抱えられてアムは船外にダイブしていた。

ざざざざ、と波の巻きあがる音が鮮明に聞こえる。

時間の流れが急激に遅くなったようだった。

人は死ぬ間際にそういった体験をする、と物の本で読んだ覚えがある。

まさか自分がそれを味わうとは思わなかった。

何かに突き上げられたカヌーが中心部から二つに割れる。

突き上げたものはそのまま海面を裂いて、空中に飛び出した。

海龍。

それも大型の。

海龍は主に蛇型と魚型に分類されるが、これは後者だ。

カヌーを丸呑みできそうな口がばっくりと開いて、何もない空間で噛み合わさった。

トゥトゥの判断が遅かったら、今頃そこに飲み込まれていただろう。

海龍は身をくねらせて豪快に着水する。

ひらひら流れるひれが、まるで鞭のように海面を叩く。

そこまで見えて、アムとトゥトゥは海龍の立てた波の底に落ちた。

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