終幕【02】ある恋の結末
……そこは、大地母神の神殿の地下にある
町中で死した者は、いったんこうした場所に運ばれて適切な処置を施され埋葬される。
燭台の灯りでぼんやりと照らされた室内は気温が低く保たれていた。沢山の石の台座が縦横に並んでいる。その上には死装束を着せられた死体が乗せられていた。すべてに白い布がかぶせられている。
そして、この神殿で死体処理係を担当する司祭が、台座の合間を練り歩いている。
司祭は死体に
そして、司祭がその台座の前に立ち止まり、
すると突然、布の下から右腕がごろりとこぼれて台座の縁からぶらさがる。
司祭は一瞬だけ息を飲み、詠唱を中断する。
しかし、この仕事について長い彼は、死後の硬直により、死体が動きだす事があるのはよく知っていた。
これは
……だが、そこに横たわる死体は、例の
流石の彼も思わず
司祭はひとつ息を吐き出し肩の力を抜いた。こぼれた右腕を元に戻そうとする。
すると、その瞬間だった。
布が突然はね除けられ、死体が上半身を起こす。
ぎょろりとした魚のような目玉。
潰れた鼻とふたつ並んだ楕円の鼻孔。
ひきつれて、むき出しになった歯茎……。
「ミィ……レェ……アアァ……」
司祭は悲鳴をあげようとした。
しかし、それより一瞬だけ早く彼の喉元を
凄まじい力だった。
こうして、この日、大地母神の神殿の
あれから、数ヵ月後……。
赤い絨毯の敷き詰められたその部屋の東側の壁には、大地母神を画いた絵画が飾られている。
そこは海沿いにある伯爵家の城館の二階であった。
その張りだし窓の影から玄関前を見おろすのは、元銀鷲騎士団のミレアであった。
彼女の青い瞳には、門まで続く石畳を走る馬車が映り込んでいた。
馬車はやがて門の外へと出ると見えなくなる。
ミレアはにやりとほくそ笑むと、うしろを振り向いた。
そこには、整った容姿のエルフの執事が立っていた。
ミレアは、その執事の元まで歩むと彼の首に両手を絡ませて彼の瞳を覗き込む。
「……行ったわ」
さっきの馬車にはミレアの夫が乗っていた。
他の貴族たちとの会合があるため、町中にある高級サロンへと向かったのだ。
「いけません。少しはお控えなさってください」
エルフの執事は、
しかし、ミレアは知っていた。雇い主の妻である自分の命令に彼が逆らえない事を……。
「良いから早く。こっちに来なさい」
そう言って、ミレアは天蓋つきのベッドの縁に座り、右手でぽんぽんとシーツの上を叩いた。
「しかし……もう、召し使いの間では噂になっております。いつ旦那様のお耳にこの事が入るかと思うと私は……」
怯えた表情をするエルフの執事だった。
そんな彼を見て、ミレアは呆れ顔で溜め息を吐く。
「良いかしら? 女っていうのは、いつも恋をしていないと駄目なものなのよ……男とは違って恋愛体質なの」
「はあ……」
ミレアの旦那は彼女よりもかなり年上である。まだまだ元気ではあるが、最近は若者のように愛を語らいあう事がなかなか難しくなっていた。
「恋をしていない女っていうのは手入れがなってない花壇の薔薇みたいに、あっという間に
「はあ……ですが」
何かを言いかけたエルフの執事の言葉を制してミレアは続ける。
「私が美しくあり続けるということは、あの人のためでもあるのよ。だって、そうでしょ? 可愛くて若々しい私のような妻に寄り添ってもらえるなら、きっと、あの人も鼻が高いに違いないわ。だから、これは、あの人のためよ? ……ねっ」
ミレアは
すると、エルフの執事はどこか絶望したようにも見える思案顔で、しばし天井を見詰めたあと溜め息を吐いた。
「わかりました……」
そう言って、ミレアの元へと歩み寄る。
その瞬間だった。
彼の背後の壁際にあった衣装箪笥の扉が勢い良く開いた。
ミレアが口元に手を当てて短い悲鳴をあげた。
エルフの執事がうしろを振り向く。
その彼の腹に
「がっ……あっ……」
声にならない呻きを漏らし、口を酸欠の魚のように開閉するエルフの執事。
「ミレア、助けに来たよ?」
彼女は口元に両手を当てたまま絶句した。
ボロボロの薄汚い死装束……顔には包帯が巻かれている。
その隙間から見える血走った
歯茎が剥き出て引きつった口元が醜い微笑みに歪む。
ミレアの瞳が恐怖の色に染まる。
「あああ……嫌……」
ブランクがありすぎて、こういうときに役に立ちそうな呪文が、ぱっと頭に思い浮かばない。
ミレアは立ちあがろうとするが腰が砕け、座り込んでしまう。
そんな彼女へと包帯の男が迫る。
彼女がへたり込んだ絨毯に失禁の染みが広がってゆく。
包帯の男は何年かぶりに彼女の前にたち、気弱な性格から当時はついに言えなかった自分の気持ちを口にした。
「ミレア、愛してる」
ミレアは目覚めて上半身を起こし、目蓋を開けた。
しかし、おかしな事に何も見えない。
「……何、これ……」
数秒後、ミレアはそこがまったく光のない場所だと気がついた。
弾力のある布――恐らく寝具の上で、彼女はそこに寝かされていたらしい。
立ちあがろうとした。上手くいかない。じゃらりと鎖の音がした。そこで自らの手足が拘束されていた事を知る。
「……ちょっとっ!」
大声で叫ぶ。
「誰かっ! 誰かっ! ちょっとおっ!!」
ミレアはわめき散らす。そして、どうにか気を落ち着けて明かりの呪文を唱えようとした。
すると突然、背後から抱き締められ、口元を手でふさがれた。
魔術は正確な発声で呪文の詠唱がなされないと効果を発揮しない。
「んーっ! ……んーっ!」
わめき散らし精一杯、暴れる。
……はあ、はあ、という、すぐ耳元で聞こえる荒い息遣い。血の腐ったような悪臭。そして、背中越しに伝わる何者かの生暖かい温もりと心臓の鼓動……。
しゃがれた囁きが右耳の鼓膜をいやらしくなでつける。
「ミレア……ミレア……明かりをつけちゃ駄目だよ。じっとしていてミレア……」
その声を彼女はすでに忘れていた。しかし、どこかで聞いた事があるような気はした。
「暗くしたのは、君が怖がらないようにさ。ぼくの顔はとっても不気味だから……見なくていいように暗くしたんだ。だから明かりは絶対につけないで」
優しい声。幼子に言い聞かせるような……しかし、それがかえって彼女の恐怖心を煽り立てる。
「大丈夫だよ……ミレア。動けない君の変わりにぼくが何でもやってあげる。ぼくが君のお世話をしてあげるよミレア……ご飯も食べさせてあげる……髪もすいてあげる……かっ、身体もふいてあげる……うぃひひ。……あと、その……汚い話になるけど……あの、その……したくなったら我慢しちゃだめだよ? お漏らしして布団を汚す前にちゃんと言ってね? ……うぃひひひひひっ」
「んーっ、んんーっ!!」
「……大丈夫。大丈夫だから安心して。君は何もしなくていい。ずっと、ここにいて……ぼくだけのお姫様。ぼくが君を守ってあげる。それから……」
ベロリと生暖かい湿ったものが右頬を伝う涙を救いとった。
舌で舐められた。そう気がついたミレアは再び半狂乱になりもがきながら必死に叫ぶ。
「んーっ!! んーっ!! んんんーっ!!」
「静かにしてミレア。あまり、大声は出さないで。あまり騒ぐと、不気味な
その言葉でようやく……。
「ぼくは、大きな音が苦手なんだ」
彼の名前を思い出す。
「ミレア……好きだよ。愛してる」
「んんんん……」
スリザス。
彼の名前を口にしたつもりだったが、上手く言葉にならなかった。
そして、彼が闇の向こうから囁ささやく。
「……いっぱい愛してあげるよ。うぃひひひひひひ……」
……ある海沿いの城館で起こった伯爵夫人誘拐事件は、未だに解決していない。
終わり
ある新米冒険者パーティの末路 谷尾銀 @TanioGin
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