六
鋭い銃声が聞こえる。
もうそんな時間なのかと布団の中でうつらうつら考えて、何かおかしいことに気付く。
ああ、通勤服のままなのだ。どうりで動きづらい。
でも、なんで通勤服のまま寝てしまっていたのだろうと考え、私は全てを思い出した。
慌てて時計を見ると、既に日付が変わっている。
心の中で叫びながら、素早く最低限の荷物を持って部屋を出た。
いつもすれ違う時間までは、まだ三十分近くある。
けれど、私には全くといっていいほど、時間が無かった。
だって、今いる場所は、会社付近ではなく、家のすぐ近く──電車で向かえば一時間近く掛かる場所なのだ。
半分寝ていたせいで、中々、働かない頭を必死に働かせ、とりあえずは駅に向かって走り始めた。そうすれば、お酒を嗜んでから帰る会社員を狙ったタクシーがいるはずだ。
街の間を走り抜ける。歩くのだって嫌いなんだから、走るのなんてもってのほかだ。
それでも、私は走り続けた。会えるかどうかも分からないし、会えないことを仕方ないとしたはずなのに、私は必死に走っていた。
なんでこんなにも走れるのか、もう自分で自分が分からない。
ただ、言えるのは、どんな結末でもいいから、こんなもんやりした感情だけは残したくない。それだけの一心で走り続けた。
駅舎の近くは夜遅くまで開いている店が多い。それなのに、今日はやたらと人が少なかった。走りやすいくらいにしか思わず、タクシー乗り場へ急ぐ。
大通りへ向かう路地を抜けた時に、その考えの浅はかさを自覚した。
等間隔に並んだ街頭に照らされ、赤い影を伸ばす姿があった。こちらへ向ける後頭部から赤黒い触手を花びらのように伸ばし、その中心部分に肉塊を沈ませている。
それ自体は別に何でもない。だって、良くある光景だから。
人とか怪異とか、他の生物を食べないと存在できない怪異なんて、街のどこにでもいる。
でも、その狩人の足下に転がる食料には見覚えがあった。
上半身だけになった人のような形をして、真っ赤に染まった人のような服を着ていて、乱れているけど人のような髪を持っていて、そして、良く見知った彼のような顔を残していて──
それはどこからどう見ても彼だった。
足が止まった。目を奪われ、離せなくなった。
その視線で食事中の怪異がこちらに気づいたようで、肉塊とともに触手を頭にしまいながら、こちらへと振り返る。
「あれ?」
捕食者は驚いた様子で声をあげた。
呆然としつつも視線を上に移動させれば、触手の花は何処かへ消え去り、代わりに半透明の角が頭から出ている怪異が立っている。
それはあの先輩だった。
「こんな遅い時間にどうしたの?」
「いや、ちょっと……」
「ちょっと?」
「……ライブにでも」
「ああ、後輩の彼氏の。気分転換にいいかもね。でも、間に合うの?」
気まずくて視線を逸らせば、虚ろな目をした彼が目に入る。助けを求めるようでも怒っているようでもある表情に、その目はあまりに不釣り合いだ。それが無性に可笑しく見えた。
じっと彼を見ていたせいか、先輩は彼の腕を運びやすいように畳んだ。
「いくら元気が無かろうとあげないよ? 怪異を消して回ってる人間がいるって聞いて、わざわざ来たんだから。でも、大当たり。やっぱり人間の方が美味しいんだよね」
いつもより上機嫌な先輩が、それは嬉しそうに彼の半身を担ぎ上げる。
「それじゃ。私みたいなのとか人間とかに気を付けて行きなよ? ……いや、あんたなら必要ないか」
「いえ、ありがとうございます……」
「さっさと失恋くらい乗り越えてね」
そう言って彼女は街の闇へと消えていった。
足が立っていることを拒否して、その場に座り込む。
きっと、必死に走ってきたからだ。それ以外に座り込む理由が無いじゃないか。
彼が死んだのは先輩が生きるためであって、人間が怪異を消すみたいな感情的なものじゃない。自然の摂理だ。結界の中が立ち入り禁止区域なんてことは誰もが知っていることだろうし、そこで死んでしまったら自業自得じゃないか。仕方がない。
他の消えていった怪異に対しては特に何も思っていなかったのに、彼の死だけを想うのは、都合が良すぎる気がした。
しばらく後、どうにか立ち上がって、私は来た道を引き返す。
予想より斜めすぎる結末だったけど、間違いなく彼に会えた。
けれど、胸のもんやりは晴れた気がしない。
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