一
今では『常世』なんて呼ばれる山手線の内側だけど、当然、本当の常世ではないから永遠に変わらないはずもない。意外にも基本的な仕組みは現世の街と変わらず、ちょっと怪異が多いだけの、ごく普通の街だ。
朝夕問わず、それぞれの出勤時間から逆算した時間に目を覚ます。大方いつも通りだろう時間に起きたら、それぞれの身支度をし、それぞれの職場までそれぞれの手段で向かう。そうして休みが来れば、それぞれに過ごして、また出勤時間に合わせて起きる。本当に人間の社会と変わらない。
私は昼型の人間、もとい化物で、職場は山手線に乗って四十分の駅前にある。隔離前なら僅か十分だったのに、結界の都合、人間は外回りしか、怪異は内回りしか使えなくなってしまったせいだ。徒歩とか自転車とかで通勤すれば、もっと遅くまで眠っていられるんだろうけど、私は疲れるのが嫌いだから、長時間かけて通勤している。尋常じゃなく不便だけど、人間たちも同じ思いをしているし、そこは我慢できる。ただ、必然混雑する電車はどうにかして欲しい。本数を増やすとか。
電車を降りると、すぐに会社勤めが待っている。オフィスワーク自体は、楽しくも苦しくも無い。時々ミスをして怒られるけど、よほどの理不尽で、八つ当たりみたいなお説教じゃなければ、自分のせいだし仕方ない。お給料もそこそこ良いし、我慢できる。でも、私が耐えられないのは、お昼休みの時間。
「すごォい! おいしそォ!」
比較的人に近い姿の後輩が私の小さなお弁当を見て、あまりに乏しい語彙力を露呈させる。間延びした彼女の声は、水みたいに耳へ絡みつく。だって、彼女の言葉は、お世辞どころか皮肉だから。
「はは。ありがとう」
乾いた笑いでお礼を言って、自分自身に嘘をついた。そうしないと耳に残った水は、いつまでも不快感を残し続いてしまう。
だけどそれも一時しのぎに過ぎなくて、すぐに半透明の角が頭から生えている先輩の歎息が飛んで来る。
「人間の食べ物なんて、良く食べれるわ。私には無理」
「はは……」
今度は水なんて生易しいものじゃない。まるで海そのものを浴びせられたようで、乾いた笑いも海底に沈んでしまう。隔離される前から人間社会に順応していた私からしたら、彼女の赤黒い肉に紫色の粘液が纏わりついたお弁当の方が、良く食べれるわ。
必ず後輩の一言から始まるこのお昼時間が、私には本当に耐えがたい。
別に誘ってもないし、誘って欲しくもないのに、後輩と先輩は寄ってたかって私を小さなテーブルへと連れ出す。そして化物なのに人間用の食事を食べる私をからかうんだ。
でも、ここで下手に断ったりしたら、私は彼女たちから徹底的に拒絶されてしまう。
それはこの時間を耐えることよる辛いこと。だから、仕方ない。
「そうだァ! 先輩たちってェ、今日、仕事の後、空いてますかァ?」
「なんで?」
先輩が聞くと、後輩は手帳から一枚の紙を取り出した。
「実はバンドマンのカレシのライブがあるんですけどォ、どうかなァって」
私は先輩と顔を見合わせる。誘われたことに対する驚きではなく、お互いが同時に感じただろう疑問の確認だ。
やり取りするまでも無く、一目でお互いの意見が同じであることを察した先輩が、額に手をやりため息を吐いた。
「また、前の彼氏ダメにしたの?」
「へへェ……。私だってェ、そんなつもりじゃなかったんですけどォ……」
後輩はそういう怪異だ。男性にやたら言い寄られるけど、それは食虫植物のそれと一緒で、触れたが最後、いろいろな精神的な力を吸ってしまう。ましてや、精神力が強すぎることで世界に存在を許され、人間のような完全な肉体ではなく曖昧な肉体しか持たない怪異が、彼女のような怪異に触れたら消滅の危機に陥る。そして彼女は、殊勝にも消えかかる彼氏を心の底から心配する。恋の末路は決まって彼氏が消えるか、彼女がフラれるか。そういう自傷行為を、彼女は何度も繰り返している。
「まあ、恋愛しようとしないこいつよりはマシか」
そういって先輩が私を小突いた。
私は会心の愛想笑いでその場をやり過ごす。
「ところでライブ、何時からなの?」
私は話題を元に戻す。愛とか恋とか、そういう話は苦手。飛んできた火の粉は、これ以上燃え広がらないように消火する。
「それがァ、結構、遅くてェ、夜中の一時くらいなんですよォ」
「だったら、私はパス。明日の用意しないと」
「私も難しいかな」
「ですよねェ……」
運よく先輩が拒否してくれたから、私もそれに便乗できたけど、もし、先輩が行けるなんて言っていたらと思うと恐ろしい。
きっと、一変たりとも興味のない私も、行けると言っていたに違いない。
例え、毎日のかけがえのない時間を捨ててでも──
「でもォ、かなり長期間やってるみたいなんでェ、よかったらチケット貰ってくださいィ」
そう言って、後輩はチケットを私と先輩に押しつけた。
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