五話 オタクは特殊な訓練を受けています

 禁域を抜けた瞬間、あたしはなぜか地面に落ちた。


「いっ、いったぁ!?」


 背中を強かに打ち付け、あたしはその場でしばらく悶絶する。ざりざりと硬く、それでいて平坦な地面。色々なものが混じった変な匂いの空気に、どんよりと色褪せた曇り空。

 何でこうなった。


「うー……あ、あれ? ここって……」


 見覚えのある景色に、あたしは思わず飛び起きた。ここは、魔界ではない。もちろん、人間界でもない。

 いや……一応、人間界ではあるのか。だって、一応人と呼べる生き物は人間しかいない世界だし。

 ここは、あたしが前世で生きていた世界だ。


「え……マジで、戻ってきた。これ、異世界転移では?」


 傍にある錆び付いた金網に駆け寄って、そこから見える景色に息を呑んだ。ごちゃごちゃと建ち並ぶ家々に、遠くに見えるビル群。懐かしさに、胸が張り裂けそうだった。

 色んな意味で。


「ここ、元職場の夢野咲病院の屋上だよね」


 白い息を吐きながら、あたしは呟いた。そうだ、絶対そうだ。前世のあたしが、死ぬまで働いた夢野咲病院だ。都心の郊外にある、中規模の病院である。地域に寄り添う医療を掲げており、患者からの評判はとても良い。

 その代わり、スタッフ側は激務でしたけどね!


「と、とにかく。まずは、シュリの薬を手に入れなきゃ!」


 屋上の真ん中にある歪みに、あたしは自分の目的を思い出した。望む世界に繋がっていると言われるだけあって、確かにこの場所以上にあたしの目的を果たせる場所はないだろう。

 でも、ここで物凄く大きな問題にぶち当たった。


「……どうやって、薬を手に入れよう」


 以前、とあるドラマで医者が無断で薬を持ち出して好きな人を助けたという展開を見かけたことがあったが。病院の薬品というものは、結構厳重に管理されているもので。それを、医師が必要な分だけを申請して使ったり患者に渡したりするっていうシステムなわけで。

 看護師が気軽に取りに行けるようなものではない。そもそも、今のあたしは看護師じゃないし!


「ぐあぁ……どうしよう! いっそのこと、薬剤部を襲って手当たり次第に薬をかっぱらうしか――」

「……あの、ここは関係者以外立入禁止ですよ」

「へ?」


 背後から聞こえた声に振り向く。すると、そこには白衣を着た男が立っていた。ぼさぼさの黒髪に、無精髭。黒縁の眼鏡を押し上げながら、明らかに不審者を見る目であたしを見てくる。

 ……あたし、物凄く運が良い。


「しかも、何なんですかその格好。コスプレ? 何にせよ、すぐに出て行ってくださ――」

「慧ちゃん、久しぶり!」

「…………は?」


 男が自分の胸元を見てから、もう一度あたしを見た。白衣に名札は付いていない。休憩中だから、外しているのだろう。

 でも、名札なんていらない。あたしはこの男を知っている。


「あんたの名前は立花慧たちばなけい、夢野咲病院の内科医。専門は循環器で、趣味はドライブ……っていうのは、表向きで。実は大のラノベ好き。特に、巨乳でおっとりしたお姉さん属性なサブヒロインが出てくる学園ハーレムラブコメが大好き」

「ぶはっ!? ななな、なん、なん!!」

「そして大好物は桃ゼリー。その理由は美味しいから、ではなくラノベにハマるきっかけになった作品に出てたお姉さん系ヒロインが、風邪を引いた主人公を介抱する時に桃ゼリーを『あーん』してあげてたから――」

「やめろおおお!! 人の密やかな楽しみをイジるんじゃねぇ!」


 ぼさぼさの髪を両手で掻き毟って更にぼさぼさにしながら、慧ちゃんが喚く。やっぱり、彼は前世のあたしの幼馴染の立花慧だ。なんと、幼稚園から高校まで一緒で家まで隣同士だったのだ。

 二人して二次元沼へどっぷり浸かり、似たような妄想を楽しむ仲。言ってしまえば彼は医師でありながら夢男子である。


「な、なんで桃ゼリーのことまで知ってるんだ……あれは、あいつしか知らない筈なのに。しかも、あいつは半年前に過労死したっていうのに」

「いやー、実はその『あいつ』なんだよね。見ての通り、異世界転生しちゃってー。今は勇者やってまーす」

「……笑えない冗談だ」


 頭痛でも堪えるような顔で、白衣のポケットからスマホを取り出す。そして、何やら操作をすると耳に当てた。


「もしもし、警察ですか。不法侵入と銃刀法違反のコスプレ女が――」

「そのまま電話を続けるつもりなら、あんたが高校生時代に小説投稿サイトで書いていたご都合主義の痛々しいハーレム小説の展開を最初から最後まで叫びながら院内を駆け抜けるわ!」

「わかった信じる、だからそれだけはやめろ!」


 顔を赤くしたり青くしながら、スマホを白衣のポケットに押し込む。ふっ、勝った。学力では負けていたが、口喧嘩では彼に負けたことがないのだ。

 それにしても、死んだあとで幼馴染に会えるなんて。不思議な気分だなぁ。


「ていうか、本当にお前なのか。異世界転生か……二次元だけの話じゃないんだな」

「え、まだ疑う? あんたの黒歴史なら、いくらでも思いつくけど。ペンネームとか」

「もう良い! それで、お前はどうしてこんな場所に居るんだ?」

「そうだった。お願い、慧ちゃん力を貸して! あたしの最推しが死にそうなの!」


 あたしは出来るだけ、慧ちゃんにシュリの病状を詳しく説明した。正直、検査どころか患者がここに居ないのに彼でも診断をくだすことなんて難しいと思っていた。

 でも、彼はしばらく考えてから口を開いた。


「……それ、インフルエンザじゃね?」

「あ、やっぱり?」

「風邪に似た症状で、発疹はなし。それくらいしか思いつかないな」


 やったぜ、予想的中。インフルエンザは体力がある人が罹っても、風邪のような症状で済むが。体力のない人が罹ったら、肺炎や脳炎を併発することもある怖い病気なのだ。現に、体力と魔力が落ちたシュリは重症化したし。

 でも、それなら薬を投与すれば治る!


「ちょっと待ってろ」

「ふえ? わ、わかった」


 不意に、慧ちゃんが踵を返して院内に戻ってしまった。どうしたんだろう、まさか警備員とか呼びに行った? いや、確かに銃刀法違反と不法侵入しちゃってるけど!

 多分、この聖剣だけは奪われたらアウトだ。ていうか今の鎧姿に、着替えくれば良かったと思わないこともないけども。

 ……いや、慧ちゃんを信じよう。彼のことは、彼の家族並みに知っている。誰であろうと、目の前に患者が居たら見捨てることなんて出来ない。

 毛色は違うけど。シュリと同じくらい、優しい男だから。


「待たせたな、ほらよ」

「……これ、は?」

「インフルエンザの点滴薬だ。その最推しは意識がないんだろ、それなら点滴で投与するしかない。その姿でも、点滴くらいなら出来るだろ」


 一人で戻ってきた慧ちゃんから、紙袋を押し付けられる。みっちりと詰め込まれているのは点滴薬だ。それから注射針に、飲み薬やうがい薬まである。


「えっと、この経口薬とかは?」

「お前を含めた濃厚接触者への予防投与分だ。悪いが、持ち出せるのはそれが限界だからな。あとはよく食って寝て体力を落とさないように注意するしかない」


 おうおう、そこまでしてくれるの? 優しいかよ!


「あ、ありがとう……でも、こんなに良いの?」

「始末書で患者の命が救えるなら儲け物だろ」


 くくっ、と慧ちゃんが笑う。良かった、これでシュリが助かるかもしれない。でも、インフルエンザの薬は発症後すぐに投与しなければ意味がない。

 シュリが倒れてから、既に一日以上経過している。急がないと!


「ありがとう、慧ちゃん! じゃあ、あたし行くね」

「……なあ、その最推しってそんなに良い男なのか?」


 慧ちゃんが扉に向かったあたしを呼び止める。


「ん? うん、めちゃくちゃ尊い。墓が建つどころか、世界を渡るレベル」

「そうか……それは、勝てないな」

「え、何?」

「何でもねーよ。早く行け、間に合わなくなるぞ」

「う、うん。ありがとう!」


 紙袋を抱えて、再び禁域へと飛び込む。すぐに世界が歪んでいく。この世界にも、心残りが無かったわけではない。

 大好きなゲームの続編とか、新しいアニメとか漫画とか。看護師という仕事は、大変だったけどやりがいがあったし。家族や友人達にも、もう一回会いたかったし。

 でも、シュリの為だから。


「俺さあ! 実は、お前のこと――」

「え?」


 慧ちゃんの声に、あたしはもう一度振り向いた。でも、既にそこに彼の姿はなかった。何か、大事なことを言っていたみたいだけど。


「……ありがとう、慧ちゃん」


 何だか、来た時よりも禁域が歪んで見える。ごしごしと目を拳で擦って、あたしは駆け出す。今のあたしが生きる世界へ向かって。魔界を目指して、全力で。


 もう二度と、振り返らなかった――

 

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