第7話 一人の少女
世の中で一番大切なものを述べよ、と問われれば人間は一体何を述べるのだろうか。
それはきっと人それぞれであるし、個人の大切なものなど他者には理解できないものも多いはずだ。しかしながら、世の中には誰しもが納得いく大切なものがある。
唯一無二の大切なもの。それは、【己の命】である。
命なくしては、何も得られない、何も感じない。ただの無でしかないのだ。
命なくして無となる。無、以上に恐ろしいものなどあるはずもない。
しかし、誰もが納得できるほどに大切なものであるはずの【己の命】だが、時にはそれを捨て去ってでも他を求める者もいる。
灰ヶ原黒時もその者の中に当てはまる。彼はあの時、己の命などまるで見えていなかった。見えていたのは、ルシファーという存在のみ。それ以外は視界に入ってはいても、それだけで、見えてはいなかったのだ。見えていたところで結果は同じだっただろうが。
ともあれ、黒時と栄作は仲良くルシファーによる攻撃を受けたわけだが、なかなかどうして、二人は強運の持ち主だったようだ。
「もしもーし、聞こえますかー? 生きてますかー?」
「ん……」
聞きなれない女性の声により、黒時は目を開けた。
開けた視界の中全てが一人の少女の顔で覆いつくされる。かなり近い場所に顔がある。下手をすれば唇が触れ合ってしまうのではないか、とも思われた。
しかしそんなドギマギする展開にも動じず、黒時は冷静に状況把握に努めた。頭の中で過去を遡る。
そして、思い出す。ルシファーの両手から放出された眩い光り。それに包まれた途端、意識を失ったのだった。
あの光がルシファーによる攻撃であって、自分はそれを受けて倒れているということは理解できた。身体能力の向上によって死ぬことを免れたのだろうとも、理解できた。しかし、一つだけ解せないことがある。
近すぎる距離で自分を覗き込むこの少女は、一体誰なのだろうか。
「誰?」
と、黒時は分からないので聞いてみた。
分からない事を誰かに尋ねるというのは、社会で生きる場合においては有効な手段だ。まあ、突如変貌した世界の中に規範となる社会があればの話だが。
「おお! 生きてましたね。おはようございます」
少女は元気よく挨拶をする。顔の距離は依然変わってはいないので、小量のだ液が黒時の顔面に付着した。不快指数は頂点に達しそうだったが、もしもそれを表情に出して少しでも顔を歪めたら、少女の唇と黒時の唇は触れる事になってしまうだろう。そうなると不快指数は臨界点を越えてしまう。
けれど、ウェーブのかかった赤い髪をした少女の容姿は優れていて、その辺のアイドルよりも遥かに可愛い。普通の男子ならばむしろ自ら唇をもっていきそうなものだが、生憎黒時は普通の男子ではなかった。そこは少し、男として悲しむべき性格でもあるのかもしれない。
「おいおい
少し離れた場所から声が届き、少女はその声に従うようにしぶしぶ顔を遠ざけ、そして立った姿勢のまま黒時に右手を差し出した。
黒時は黙ったまま差し出された右手を握り、少女の助力を受けながら立ち上がる。
辺りを見回すと、そこは見慣れた都心の交差点とはまるで違っていた。
更地。と言えば、聞こえがよいのでもっと具体的に、見たそのままで言うと、焼け焦げた大地といった感じである。
都心を埋め尽くすように建てられていた数々のビルも姿を消し、道路も、信号機も何もない。ただただ広がる焼け焦げた台地。それは、ルシファーが放った光の凄まじさを如実に現していた。
「お前も生きていたんだな、見栄坊」
黒時はさほど興味ない口振りで一人の少年を見据えて言った。黒時とは違い身体能力が向上しているわけでもないのに、何故栄作は生きているのか疑問に思うところだが、どうでもいいという思いの方が黒時の中には強くあった。暴風に吹き飛ばされて攻撃を回避でもしたのだろう。
「もうちょっと喜べよお前……」
「……わーいわーい。これでいいか?」
「もういい……」
うなだれた様子の栄作。何がいけなかったのか、と黒時は首を傾げる。そして、またもどうでもいいか、と思い首を元に戻した。
「黒時先輩!」
うなだれた栄作の姿を遮るようにして、黒時の視界に先程の少女が元気良く飛び込んできた。今度はそれなりの良心的な距離を保っており、不快な感じはしない。人との距離感と言うのは多様な意味で重要なのだ。
「ああ、一年生か」
少女の制服が自分の通う高校の制服であるのと、襟元につけてある【一】という学年章を見て、黒時は少女の素性を瞬時に理解した。
「はい。一年一組、
彩香はわざとらしい笑みを黒時に向ける。わざとらしく、そしてあざとい。
黒時は、彩香をそういうタイプの人間か、もとい人形かと判断したと同時に、今朝二階の廊下にいた一年生の少女が彼女であったことを思い出した。
ふむ、と思案する。この少女の人間としての本質はさぞかし面白いものだろう、と心の中で微笑を漏らした。
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