第四幕『伏魔殿』

第1話

 頭の中がうだっているみたいだった。風呂に入ってしまえば、心地良さに溶け出してくれるかとも思ったがどうやらそれは悪手だったようで、瑞乃は茹った頭を抱えて寝間着に袖を通していく。

 ひんやりとした寝間着の刺激は身体を僅かに震わせるに留まり、思考が乱れることはなかった。



 ――私はアイツの左腕にならなきゃいけない。



 今朝がた、アナスタシアが口にした言葉が瑞乃の頭の中でぐるぐると回っている。ずっと回っている。腕をいだ悠雅を前にした時も叫んでいた、彼女の誓い。

 瑞乃は随分前、似たような言葉を吐いた女を知っている。


 その女はとても臆病で、いつも彼の後ろに隠れることしかできない女で、とても弱い女だった。

 あらゆる恐怖を、悪意を、彼を盾にしてやり過ごした。

 九十九柱の現人神あらひとがみたちが炎の中で狂ったように殺しあった。その時でさえ、女は彼の背中に隠れていた。自分が傷つかないように、守ろうとしてくれた彼の好意に甘えて。

 その結果。彼は心に傷を負い、そして左目を失った。炎に焼かれ、切り裂かれ、彼は世界を半分失った。


 女は後悔した。臆病な自分を、弱い自分を、彼女は呪った。少しでも勇気があれば、彼は自分を呪わずに済んだのではないか? 世界を失わずに済んだのではないか? そう思えてならなかった。

 しかし、後悔をしたところで時が戻ることはない。彼が斬った友たちが戻ってくることも。世界が戻ってくることも。


 女にできることは一つしかなかった。



 ――私が貴方の左目になります。



 これから一生をかけて、償おうと思った。彼と共に在ろうと。常に共に在ろうと。己への怒りを、胸に刻み付けながら。


(出来の悪い舞台劇でも見ているみたい……)


 焼き増ししたような一連の流れに、瑞乃は鬱蒼とした気分になる。

 アナスタシアが口にした決意が、ように思えてならなかった。そして、それが自分の決意よりも綺麗に見えて。その理由がわかってしまうから、尚のこと消沈していく。


 アナスタシアの愛は重く、深い。


 たとえ、恋敵に男を奪われたとしても――その献身が、その誓いが、その想いが、微塵も揺らがない程に。


 では、自分はどうだろう? そう考えて、瑞乃はしばし凍る。アナスタシアと悠雅が恋仲になっている未来を想像して、凍えそうになる。

 瑞乃はアナスタシアのようには思えなかった。怒り狂う未来しか見えなかった。


 ――彼の隣に居ていいのは私だけだ。


 怒り狂った自分がアナスタシアを、そして悠雅さえも害してしまう。そんな未来。


(醜い……浅ましい……)


 瑞乃は心の内に吐き捨てる。

 男女愛。恋愛観。それらの定義で語れば、アナスタシアの在り方の方が間違いなく狂っている筈だ。元皇族とはいえ時代錯誤にも程がある。なのに、どうして彼女の在り方に、愛情の深さに、嫉妬を覚えてしまっているのか? 瑞乃はわからない。


「――うっそぉ……」


 不意に、この世の終わりでも目の当たりにしたような呻き声が聞こえてきた。

 湯上がりの火照った体を冷まさぬうちに、寝間着へと袖を通した瑞乃が振り向く。そこには上気した体を惜しげも無く晒すアナスタシアが、体重計の上で肩を落とす姿。


 明け方の空を閉じこめたような蜂蜜色の長い髪。勝気そうなつり目には、海を連想させる瑠璃色の大きな瞳。シミひとつない、純白の雪原を思わせる白い肌。

 華奢な細い肩とスラリと伸びる長い腕。ハリのある形の良い大きな乳房の上にはツンとしている桜色。

 キュッと括れた細いお腹を駆け下りる水滴が、艶かしい腰と柔らかそうな尻を通り過ぎて、むっちりと程よく肉の付いた太ももを流れ落ちていく。


 性的象徴セックスシンボルが発達した体。幼児体形の瑞乃とは違う大人の女性らしい体。

 如何にも男ウケしそうなその体を隠そうともしないのは、自身の肉体美に対する自信の現れなのでしょうか? ――なんて、危うく喉から飛び出しそうになるケチを、瑞乃はすんでのところで飲み込んだ。いつからこんなに嫉妬深くなってしまったのか? 狭量な己に嫌気が差した瑞乃はかぶり振る。


 余裕を持とう。そう、ひっそりと決意して、頭を抱えるアナスタシアの横から、そろりと体重計を覗く。


「へえ、五十三キロなんですね」

「…………太った。五キロも」

「そうですかね? 確かに数字は増えていますが、その肉付きの良さを考えれば納得の数字かと。貴女も十七ですし、成長しているのでは?」

「最後に測ったの、三日前だって言っても?」

「……それはちょっと、増え方がおかしいですね。何か変なもの食べましたっけ? せいぜいお餅とおせちを食べたくらいですよね」

「だから、言ったじゃない‼︎ 私太りやすいってぇ‼︎」

「えーでも五十三だよ? 私より全然軽いよアーシャ」


 瑞乃の反対側から体重計を覗く璃菜が不思議そうな顔を作り、アナスタシアの腹肉を摘む。


「璃菜はその代わり悠雅と同じくらい背が高いじゃない」

「あはは、あんなにデカくないって。あいつ六尺――一八〇センチ超えてるでしょ? 私は一七三。女学校時代に測って以来測ってないけど。アーシャは一六〇ってとこ?」

「正確にはその手前。最後に測った時は一五七だったかなあ……?」

「一八〇だの一七三だの一五七だの、なんだか空の上の会話に聞こえますね」

「みずのん一五〇行ってないんだっけ? っていうか一四〇あったっけ?」

「ありますよ。一四一センチです」


 揶揄う璃菜にさらりと瑞乃が返すと、途端璃菜と全裸のアナスタシアが目を丸くする。


「なんですか?」

「いやあ、てっきり、きいきいと怒られるとばかり」

「私も璃菜が怒鳴られると思って耳塞ぐ準備してた」

「……別に、今怒鳴る気分じゃなかっただけですよ」

「怒りっぽいあのみずのんが……?」

「そういう時もあります」

「ふぅん。――ねえ、おチビちゃん」

「……………………、」

「おー、ほんとだ。怒んない」

「えー、私も私も」


 驚きを隠せない璃菜に便乗しようと、アナスタシアは嗜虐心に満ちた笑顔を見せる。


「やーい、ちんちくりん」

「……………………、」

「まな板〜!」

「……………………、」

「えっと、胸平むねたいらさん」

「……………………、」

「じゃあ、こけ――ぎゃふっ!?」


 ――し。と続けようとしたところで、アナスタシアの白いお腹に瑞乃の細腕が突き刺さった。


「怒鳴る気分じゃない、と言っただけで怒らないとは言っていないのですが」

「ア、アンタ……無言でボディブローって悪魔か何か……? 子供産めなくなったらどうするのよ⁉︎」

「そんなに柔な体してないでしょう?」

「私、これでも家族の間じゃ弟の次に体が弱いって言われてたんだけど……」

「面白くない冗談ですね」

「うーん、文化の違いかなあ?」

「ちょっと、なんで私が冗談言ってるていなのよ!? 本当なんだからね!?」

「はいはい、ふざけたことを言ってないで早く服を着てください。はしたないですよ」


 お腹を抑えて睨むアナスタシアに目もくれず、瑞乃は脱衣場を後にする。

 アナスタシアに嫉妬している自分が急に馬鹿らしくなって、瑞乃は心の底で沈澱する何かを吐き出す様に大きくため息を吐く。


「馬鹿馬鹿しいですね、ほんと……」


 厨に赴いた瑞乃は硝子杯グラスにいっぱい、水を入れて煽る。冬の凍てつく水が火照った体を内側から冷やしていく感覚に、心地良さを感じた。すると、静けさがやけにうるさくて、違和感を覚える。


(悠雅さん、今日も早く床に就かれたのですね……)


 今晩も悠雅がいなかったのだ。悠雅の一日は早く、そして遅い。彼は通常朝の五時に起床し、夜は朝食の仕込みや風呂掃除などをして日付が変わる手前に就寝する。依頼などで夜中帝都に繰り出すようなことが無ければ、その生活習慣を崩すことは無い。


 現在は二十二時半を過ぎた所。彼が就寝するには些か早い時間だ。


「やっぱり、体調が良くないんでしょうか……?」


 悠雅は昨晩も早くに床に就いていた。そのうえで、今朝は平時にしては珍しく寝坊までしていた。

 他人の生活に口を出すほど瑞乃も野暮ではない。が、普段几帳面な生活をしている人間が急に堕落し出すと気になるもの。


 まして、彼はつい先日左腕を失い、天才西村手製の機械義腕メタルアームの換装手術まで行っている。本調子でなくても全くおかしくない。

 急に心配になってきた瑞乃は自室に戻るその足で、隣の悠雅の部屋へと赴く。


「――悠雅さん、起きていますか?」


 悠雅の私室の前で膝をついた瑞乃は、控えめに小さな声で声を投げかける。が返事はない。


「どうしたの?」


 と、後からやって来たアナスタシアが瑞乃の頭上に声を落とす。


「やっぱり、悠雅さんの体調が心配になってきましたので。今日も早くに床に就いてしまったようですし」

「そういえば、今朝そんなことを言ってたっけ? 普段が丈夫なだけに心配にもなるか。よぉし、ここは私が診てしんぜよう」

「やっぱりアーシャさんの祈祷いのりは病気にも効くのですか?」

「え? 効かないわよ?」

「えぇ、じゃあ下手に手を出さないで下さい。ちゃんとお医者様に診せます」

「大丈夫よ、私これでも怪我人と病人の介抱得意なんだから」

「介抱と治療は意味が違います」

「はいはい、素人は黙ってなさい」

「貴女も素人でしょう……」

「瑞乃うるさーい」


 アナスタシアはスパンとふすまを開け放った。その遠慮の無さに思わず瑞乃が咎めようとするも、視界に入り込んだ無人の部屋に言葉を失う。


 瑞乃はすぐ様離れの道場に向かった。平時彼の居場所は決まって三ヶ所。一つは自室、二つ目は厨、そして三つ目は道場だ。時たま庭で木刀の素振りをしたり、居間で新聞を読んだりすることもあるが、概ねその三ヶ所で固定されている。

 冷たい回廊を駆け、足の先から体が冷え始めた。しかし、それを厭わず彼女は走る。


「――悠雅さん!!」


 道場内に悲鳴にも似た声が響く。そこに灯りはなく、稽古に励む彼の姿もない。


 何故いない? どうしていない? 真琴から無茶しないよう言いつけられている筈なのに?


「どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――‼︎」


 瑞乃は怒り狂う。

 真琴から頼まれていた。悠雅に無茶をさせるな、と。だから、瑞乃は可能な限り彼から目を離さないようにしていた。そのことについて、他ならぬ悠雅自身も知っていた筈だ。

 なのに、何故彼は隠れて出て行ったのか? その答えは一つしかない。


「――瑞乃」


 不意に背後から険のあるアナスタシアの声が飛んできた。


「あのおバカをシバきに行くわよ」

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