第2話
「――瑞乃、どうしたの?」
「いえ、なんでもありません。さ、早く拾ってしまいましょう」
瑞乃は頭振る。いつか、こうした自分が変われる日が来る、とそう思って。
「あれ?」
不意にアナスタシアの動きが止まった。窓辺で拾い物をしていた時のことだ。
「今度はどうしたんですか?」
「何か変な音しない?」
瑞乃は聞き耳を立てると、カリカリカリと何かを引っ掻くような音が確かに聞こえてきた。
その怪音を追って瑞乃とアナスタシアが顔を上げると、窓の向こうに小さな影一つ。
「ひゃあっ!!」
「ひうっ!!」
二色の姦しい悲鳴。アナスタシアと瑞乃は部屋を飛び出していく。
「今度は一体なんですか二人とも。もう良いんですか?」
バタバタと部屋の外に逃げ行く二人の背中に悠雅は咎める。
「だ、だって、出たんだもん!!」
「ええ、出ました」
「もん、って……一体何が出たっていうんです?」
「灰色でチューチュー鳴くあれよ」
「時々厨で悪さをするあれです」
「……ああ」
納得したように頷いて、彼女たちが指さす方――即ち窓辺に向かう。
「たかがネズミ。そう怯えなくても……」
「そんな文句言ってないで早く窓の
「窓? 部屋の中ではなく?」
「そうよ。ずっと窓辺にいて、窓硝子を引っ掻いてるの」
アナスタシアが指さす先には、確かに小さな影が蠢いている。
しかし、妙であった。この時期の野ネズミは皆どこかしらの土の中で冬眠している筈なのだ。それがどうしてあんなにも元気に窓を引っ掻いているのか? 怪訝に思いつつも悠雅が窓辺に近づくと、カリカリと窓を引っ掻いていたネズミは途端に大人しくなった。その妙な反応に、益々怪しく思えた悠雅はやや殺気立ちながら窓を開け放つ。
ネズミは逃げなかった。ネズミは黒い楕円の眼で悠雅を見上げている。しかし、それ以上のことは何もしてこなかった。胆力のあるネズミなのか? それとも単に人馴れしているだけなのか? どちらにせよここに居座られてもアナスタシアが怯え続けるだけなので、悠雅はネズミを摘まみ上げる。と――
『やっと来たか
――小さな声でネズミが語りかけて来た。どこか聞き覚えのある声音と高圧的な物言いにひっそりと眉間を抑える悠雅は、部屋の外で待っているアナスタシアと瑞乃に聞こえない声量でネズミを咎める。
「何やってんですか若?」
『式神に連絡を寄越しただけだ』
「だからって、婦女子の部屋に押しかけるのはどうかと? 直接俺の部屋に来てくれれば良いのに」
『貴様の部屋の位置など知らないし、知りたくもないわ戯けめ』
「……左様でございますか。それで、御要件は?」
『今晩、
「研究課の第二分室ってなると、目方様のところですか」
『そうだ』
「…………無礼を働いていないでしょうね?」
『何故そんなことを貴様に心配されなければならんのだ』
「アンタがお嬢と目方様に亡くなられた雪乃お嬢様を重ねてるからですよ」
『雪乃は死んでおらん!!』
不意に麗一の式神は悠雅を怒鳴りつけた。その声を聞きつけた瑞乃が目尻を釣り上げて、散らばるアナスタシアの私物をものともせずに近付いてくる。
「お兄様の式神でしたか。一体何の御用でしょうか?」
『ああ、瑞乃、騒いで済まないね。この戯けが意味のわからないことを口にしてな』
「質問の答えになっていません。それに今、雪乃、という名前が聞こえたのですが? まさか、お義姉様にまた失礼なことをしたのですか?」
『馬鹿なことを言うものではないよ瑞乃。私が雪乃に酷いことするわけがないじゃないか。そこの戯けの悪影響かな?』
「悠雅さんを悪く言わないでください」
『何故だい? 兄はわからないよ。そこな男はお前への好意を踏み躙っているんだよ? あろうことか敵国の女と一緒にいる為に。お前は騙されているんだ』
「……………………、」
『ほら、何も返せないじゃないか。本当は怖いんだろう? いつか、その男が元皇女とつがいになるのでは――』
瑞乃は麗一が言い終えるのを待たず、悠雅に摘まれた式神を払い除けた。式神は宙に投げ出され庭先に落下すると、楕円の眼で悠雅を見上げる。怒りと恨みの悪感情が込められた眼差しで。
だがそれを瑞乃が遮る。彼女は得意の召喚術で三笠刀を喚び、その切っ先をネズミに向けた。
「次にその薄汚い口を開けば、貴方を直接殺しに行きます」
冷たい眼差し。底冷えする殺意。決して血を分けた兄に向けるべきではないであろう殺気を、瑞乃は麗一の式神に叩きつける。
妹を溺愛する麗一だからこそ、それがよく効く。式神は傷ついた目を伏せ、帝都の街並みに消えていった。
誰も言葉を発することはできなかった。悠雅も、アナスタシアも、もちろん瑞乃も。
ぽっかりと空隙ができたような時間。誰かが口火を切らねば、この牢獄からは出られそうになかった。
で、あればそこは男が義理を見せるところであろう。
「正論ですね」
ポツリ。悠雅は零すように。
「あの人のことをとやかく言えるほど、俺も清くない」
自嘲気味に笑って、頭をかいて。
「お嬢とアーシャには不義理をしている。あの人が怒るのも無理はない。これは、やはり態度を改めねばいけないな」
何せ瑞乃は麗一にとって目に入れても痛くないくらい可愛い存在。怒って当然だ。
むしろ、一般的な家族ならば、悠雅のような男はやめておけと諌めるに違いない。悠雅自身だってそうする。
自身の姉がもし生きていたとして、姉が好いた男に言い寄って、それで男がはっきりしない態度を取り続けていたら。悠雅も麗一と同じことを言うかもしれない。
ああまで、粘着質に言うことは無いまでも、拳のひとつは叩き込んでいるかもしれない。
ならばこそ、彼は態度をはっきりしなければならない。そも、英雄とは誠実であらねばならぬもの。誠実にならなければ彼は英雄になれない。
彼がそう断ずるのに差程時間はかからなかった。彼は二人の少女に向き直ってこう告げる。
「俺はやはり、あんた方に釣り合うような男ではありま――」
瞬間、世界が揺れた。
無警戒のところに入った会心の一撃。アナスタシアの白い拳が自身の顎に突き刺さったと認識した時には、悠雅は庭に転がって青い空を見上げながら顎に残る痛みに顔をしかめていた。
「……いきなり殴るな。舌を噛んだらどうするんだ」
「アンタがくだらないこと言おうとするからでしょ? アンタ、いつか言ったわよね? 英雄になるまで、そういうことを考える余裕はないって。私たちはそんなアンタの意志を尊重するって決めたのよ? アンタが胸張って英雄だって名乗れるまで、アンタのこと待つって。支えるって。なのに、アンタがそれを否定したら、私たちの気持ちはどうなるのよ?」
「だが、今の状態はお前にもお嬢にも、二人の周りの人間に対しても不義理だ」
「だから私たちの想いを切り捨てるって? それこそ不義理よ。私たちのどっちが好きかどうかすら考えてないじゃない。それどころか、そもそも私たちに対して、恋愛感情を抱いているかどうかすらまともに考えていない。なのに切り捨てるなんて、馬鹿にし過ぎにも程があるわ。ちゃんと振るなら、私たちのことをちゃんと考えなさい。そんな最低限のこともしないうちに振るなんて絶対に許さない」
アナスタシアは怒っていた。瑠璃色の双眸を紅蓮の独眼に叩き付ける。
彼のやろうとしていることは、告白してきた相手に向かって生返事で断ろうとしているようなもの。そんなものはアナスタシアの
「じゃあ、どうすれば良い? このままでは皆苦しいだけだ」
「少なくとも、私は苦しくないわ。アンタはその苦しさを抱えながら英雄になるべきよ」
「女のお前が何故不義理を推奨するんだ?」
「それがアンタへの罰だから」
「罰?」
アナスタシアはその美貌を柔らかく破顔させて。
「そう、罰。二人の女を惚れさせた罰」
「そんなつもりはない。俺が見ているのは爺さんの背中だけだ。色恋沙汰など望んじゃいない」
「本気で痛いところを突いてくれるわね、こいつ。でもやっちゃったもんは仕方ないでしょう? 受け入れなさい」
「……そんなの勝手だ」
「そーよ、女は勝手な生き物なの。だから、一度欲したものは是が非でも欲しくなる」
「どうかしてる……」
悠雅は口を尖らせる。不義理な男なぞ、どこに魅力があるというのか? 悠雅には全くもって理解できない感覚だった。
男というものは義理堅く、質実剛健で、器の大きなものでなければならぬはずなのに。
思い悩む悠雅にアナスタシアはまたにんまりと笑う。
我ながら面倒な男に恋をしたものね――そう、内心呆れながら、それでも惹かれる自分がいて少しおかしくなった。
そんなやり取りをしていると、ぽーん。廊下に突っ立っている柱時計が十時を告げる音が鳴る。
「――そろそろ、昼餉の準備をした方がいい時間か」
「あー!! アンタが自分が掃除始めた癖にほっぽり出す気!?」
「一度昼餉の仕込みをするだけだ。後、そもそも自室の本来掃除というものは誰からも言われず自発的に行うものだぞ」
「悠雅のそうやって正論で殴ってくるとこだけはきらーい」
「だったらちゃんとしろ」
注意を促し、アナスタシアの部屋を後にする悠雅であるが、その顔はどこか上の空。複雑な気持ちを隠しきれていなかった。
「こーんな美女二人に言い寄られてるっていうのに、なんであのおバカはああも暗い顔をするのかしら? 少しは浮かれるくらいの余裕持ちなさいよね」
「アーシャさん」
妙な方向に憤慨するアナスタシアに、ぽつり、瑞乃は呟くように。感情の見えない顔つきで。
「悠雅さんがもし貴女ではなく、私を選んだらどうします?」
「あん? 何よ、勝利宣言でもしようって? ちょっと気が早いんじゃないの?」
「真面目に答えてください」
瑞乃のやけに真剣な様子にアナスタシアは気を引き締める。
お茶を濁す程度の答えは許されない。それはアナスタシア自身が愛する友人の想いを踏みにじり兼ねない行為だから。
「もしそうなったら、私は悠雅にとっての、そしてアンタにとっての二番目の女になる。私はアンタたちの近く以外に居場所がないからね。それに、悠雅の左腕のこともあるし、離れるつもりは無いわ。アイツの左腕は私のせいで失われた。だから、私はアイツの左腕にならなきゃいけない」
瑠璃色の瞳で真っ直ぐ瑞乃を見つめるアナスタシアは「それに」と付け加えるように口にする。
「近くにいれば、アンタが不甲斐ないところを見せた時、横から掻っ攫えるでしょ?」
茶目っ気たっぷりに。それでいて真剣に。アナスタシアは自信満々に、胸を張る。これが“私だ”と言わんばかりに。
「そうですか」
瑞乃は彫刻のような笑みを浮かべると、部屋を出ていった。アナスタシアはその硬い笑みがどのような想いから形作られているかわからず、その背中を見送ることしか出来なかった。
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