第三幕『目方雪乃』

第1話

「――悠雅さん、朝ですよ」


 鈴を鳴らすような声が、悠雅を微睡みの園から引きずりあげる。暖かい日差しと、開け放たれた窓から吹き込む緩い木枯らしが頬を撫でた。

 目を開けば、瑞乃の小さな顔が上から見下ろしていた。大きな翠緑の瞳の中に自分の顔が見える程の近い距離で。


 梅の花の刺繍が施された薄緑色の着物に袖を通す彼女の頬には薄く紅がかっていた。唇には桜色の紅を塗られており、そこで初めて彼女が化粧していることに気づく。

 元々顔立ちの整った娘であったが、それを理解した上でさらに己を飾り付けていた。

 悠雅はその艶やかさに一瞬心が奪われそうになる。同時に、幼い頃から毎日顔を合わせているというのに、彼女が化粧をするようになっていたことに少し驚いた。

 全く知らなかった訳では無い。情報としては確かに知っていた。例えば出かける際、準備に時間が掛かったり、彼女の買い物に付き合っていると化粧品店に入ったりすることもあった。


 しかし、こうして色気づいた様子を間近で見て、改めて思い知らされるのだ。小さくとも、彼女も大人になっているのだと。


「悠雅さん?」

「あ、ああ、いえ。起きます。おはようございます、お嬢。今、何時でしょうか?」

「今、九時を回ったところです。悠雅さんが寝坊なんて珍しいですね? 昨日は疲れましたか?」


 瑞乃の問いに悠雅は内心、心臓が跳ねる思いだった。昨晩のことがバレてしまったのではないか? と背筋が凍る。


「……昨日、疲れるようなことしましたっけ?」

「何を言ってるんですか? 昨日あれほどお餅ついたじゃありませんか」


 ポカン。馬鹿みたいな顔。からの脱力。悠雅はバクバクと早鳴る心臓を抑えつつ、大きく息を吐く。その内心は安堵で一杯だった。


「だ、大丈夫ですか!? 急にそんな大きなため息を吐いて。ひょっとしてどこか悪いんですか? 昨晩は随分早くに床に着かれたみたいですし」


 どうやら、昨晩のことは彼女たちの間ではそういうことになっているらしい。

 これはしたり、便乗しておくべきだろう。そう判断した悠雅は可能な限り朗らかに笑って見せる。


「そんな、般若みたいな顔を見せてしまうくらい痛いんですか!?」

「え? 般若って何のことです? 笑ってるだけですよ?」

「笑ってる? 何を言ってるんですか!? 今にも憎悪で人を喰い殺しそうな顔をしていますよ!?」

「お、お嬢? 冗談でも流石に傷つきますよ?」

「冗談を言ってる場合じゃないでしょう!! 今、アーシャさんを起こしてきますね!! ああでも、アーシャさんの祈祷いのりで病気って治せるんでしょうか!? ……そうだ、教授が――っていないんでした!? いつも部屋で仕事もしないで経費使って研究してるのに、どうして肝心な時にいないんですか!? 役立たず!! ああもう、あの人のことはどうだっていいです!! とりあえずアーシャさんを呼んできます!! いないよりマシですし!!」


 散々喚き散らした瑞乃は、バタバタと悠雅の部屋を飛び出して行った。


『国内最大の頭脳が、役立たず、か。あの科学者も可哀想な男だ』

「……教授のこともそうだが、しかし一番可哀想なのは俺じゃないか?」


 相棒の神剣にも慰めて貰えなかった悠雅はひっそりと肩を落としつつ、手早く着替えを済ませると仏壇に手を合わせる。

 父と母と姉。そして、八咫烏ヤタガラスの研究施設で共に育った朋友たちに。己が手で切り殺した朋友たちに。


「――いっったああああああい!!」


 手を合わせていると、不意に乙女らしからぬ叫び声が響き渡った。悠雅は速やかに発声源へと飛び出す。社屋の東の角部屋である自室から、一部屋挟んで先にある部屋、アナスタシアの部屋へと。


「開けますよ、大丈夫ですか!!」


 襖を開け放った。その瞬間、彼の目に恐ろしい光景が飛び込んできた。


 洋の東西関係なく散乱する大量の女ものの服。

 本棚には一冊も収まっていないにも関わらず、十数冊と床に点在する雑誌、辞典。

 真新しい化粧台の上には、彼女が持ち込んだ細剣の神器・クォデネンツが粗雑に置かれ、その周りには香水の瓶と無数の化粧品が散らばっている。


「き、汚い……」


 悠雅は思わず零す。しかし、それも無理からぬこと。足の踏み場が無いほど、物が散乱している状態なのだ。

 綺麗なのは何故か床に倒れている瑞乃の周りと、寝起きのアナスタシアが鎮座する寝台のみ。やけに薄く、寝心地の悪そうな安物の敷布団の上に、白い掛け布団と枕が乗っている。枕元には、いつか悠雅が射的屋で取ってやった不細工な犬のぬいぐるみが座していた。


「ゆ、悠雅!?」

「悠雅さんなんで入ってきてるんですか!?」

「お嬢の叫び声が聞こえたからすっ飛んで来たんですよ」

「え? あ、ああ、すみません。足を引っ掛けてしまいまして――って、悠雅さん体の調子は?」

「俺は心配無用です。そんなことより大丈夫ですかお嬢?」


 悠雅が手を差し伸べると、瑞乃がその手を取りながら頷く。


「ありがとうございます」

「お気になさらず。しかし、酷い部屋ですね」

「お、乙女の部屋に向かって酷い部屋とは何よ!!」


 悪し様に言われることに耐えかねたアナスタシアが堪らず吼える。対する悠雅は本当に痛そうに眉間を抑えた。


「このゴミだめを乙女の部屋と言い張るのか……」

「うぐっ!?」


 見えない剣で貫かれたようにアナスタシアが呻いた。


「アーシャよ、お前掃除できない人だったのか? というか、ここで暮らし始めてひと月も経ってないのに何でこんな物で溢れかえってるんだ?」

「う、うっさい!! 乙女は色々入り用なの!!」

「入り用なのは把握してる。お嬢もそうだったからな。だが、もう少し整理整頓というものをだな」

「アンタはお母様か!? 若しくはメイド長か!?」

「どちらでもない」


 大きな溜め息を吐く悠雅は面倒臭そうに衣類を拾い始める。


「ちょ、ちょっと待った!! なにやってんのよアンタ!?」

「片付けてるんだよ。このままではいずれお前も怪我をしてしまうぞ」

「その中には私の――!!」

「私の、なんだ……? 俺に触られたくない物があるならとっとと拾った方がいいぞ」


 鬼のように言い放つ悠雅は無常にも片付けを始めてしまう。最早慈悲はない。アナスタシアは慌てて寝台ベッドから飛び降り、かつて無いほどの機敏さで何かを拾い始める。

 すると瑞乃も何か慌てたようにアナスタシアの捜し物を拾い始める。


「ありがとう瑞乃」

「悠雅さんは基本的に紳士で武士ですけど、配慮をしないことが多々ありますからお気になさらず。それに、私も似た経験あるので」


 げっそりとした様子で瑞乃が答えると、途端アナスタシアは珍しく感情の色が見えない顔つきで、じっと瑞乃を見つめた。


「どうしたんですか?」

「……ちょっとね。ちょっとだけ、寂しいなって思っただけ」

「寂しい?」

「アンタと悠雅は小さい頃からずっと一緒なわけでしょ? 二人だけの思い出がある。辛いこともあったかもしれないけどさ。かけがえのないものだって山ほどあるでしょう?」

「……なるほど、だから寂しい、ですか」


 アナスタシアは疎外感を感じている。だが、それはアナスタシアだけが持っている感覚ではない。


「私だって、貴女と悠雅さんのやり取りを見ていて、時々寂しく思う時がありますよ」


 似たもの同士だからなのか? アナスタシアと出会ってから、まだ二週間と経っていないにも関わらず、彼女は悠雅のことを本当によく理解している。時折、自分以上に悠雅への理解が進んでいるとさえ思うほどに。

 同時に悠雅もまた同様で、悠雅は彼女に対して遠慮のない物言いをするし、思いやることができていた。


 二人の接近速度は、瑞乃と悠雅が築き上げた十三年に匹敵しているとさえ思っている。それに、アナスタシアは既に、瑞乃が把握していない思い出を作っている。


「――あの犬のぬいぐるみ。彼に取ってもらったのでしょう? 甘粕正彦あまかすまさひこの襲撃で閉園したルナパークで」

「ええ、そうよ」

「そうやって思い出を作っていけばいいんじゃないですかね」


 そう言いながら、瑞乃の心の内がチクリと痛んだ。心にも無いことを言っている。そんな自覚があった。


 アナスタシアは悠雅に好意を持っている。その気になれば彼女は、力ずくで瑞乃から悠雅を奪うことができる。その程度には感情表現に富んでいるし、胆力も度胸もある人間だと、瑞乃は考えている。

 だが、アナスタシアは絶対にそれをしない。それは瑞乃に対する裏切りになるからだ。あくまで正々堂々、正攻法で彼を落とし、英雄になった彼を抱きに行く算段だ。

 何故アナスタシアが正攻法に拘るか? その理由は一つ。瑞乃と同じ土俵で争う為。


 アナスタシアは瑞乃にも好意を抱いている。無論友人の範疇だが。彼女は瑞乃を裏切って出し抜こうなどと考えない。

 そんな彼女を瑞乃自身も気に入っているし、父を前に友達として庇い立てしてくれた時は嬉しかった。


 しかし、心の底から彼女のことが好きなのか? そう問われると、瑞乃はわからなくなる。

 アナスタシアが瑞乃を想う気持ちに釣り合う好意を、瑞乃はアナスタシアに抱いているのか?


 答えは灰色だった。


 白でも黒でもない。

 好きだけど嫌い。嫌いだけど好き。

 近くにいて欲しいけど遠くに行って欲しい。


 曖昧に過ぎる感情。

 どっちつかずな願望。


 矛盾に充ちた想いが心の内を席巻している。そして、そうした自分が嫌いになった。

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