第5話

 広大な車庫の中を二度、三度と弾んだ悠雅は何とか手足を付き、勢いを殺す。

 鋭い紅蓮の独眼が見据える先には青みがかった、霧か煙のような《もや》が封印車輌からずるりと這い出す様子。


「気をつけろ猟犬だ!! 異次元の猟犬だ!!」


 余波を受けたのか、悠雅と同じように車輌外で転がる麗一が叫ぶ。

 青みがかった靄は蠢き、生き物めいた挙動を見せて収束していく。不定形の靄はやがて、姿カタチを得る。毛など一切無い、白く不健康そうな素肌を剥き出しにした、犬とは似てもつかない生命体。黒い蝙蝠こうもりのような羽根を生やし、全身に青みがかった粘液を滴らせるそれは、先の尖った太く長い舌で舌なめずりしつつ、磯巾着の触腕めいた何本もの尻尾を振る。

 ひたり、ひたり。か細い四足で歩く様は今にもその場に倒れてしまいそうな印象を周囲に与える。


 しかし、悠雅だけは違った。それは当事者だからこそわかることなのかもしれない。

 悠雅が感じるのは強烈な飢え、飢餓感だった。今にも目の前の悠雅ナニカを食べて腹を満たしたい――そんな意思のみが悠雅目掛け叩きつけられていた。


『どうやらあやつ、余程お前のことが喰いたいらしいぞ』

「俺の体なぞ、どこも筋張っていて旨くないと思うが」


 くつくつと笑う神器・天之尾羽張アメノオハバリを引き抜き、悠雅は正眼に構えた。

 彼は自身の霊力を高め、自己へと一心不乱に没入しながら己が神話たる神言しんごんを唄う。


 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。


「――輝きは北にあり、切っ先は南を見ゆ。戦塵に走る剣閃一つ。我が刃で焔を切ろう。燃え盛るその肢体から焔を断ち切ろう。だからどうか目を閉じないで、私から目をそらさないで欲しい――」


 かんぬきが抜き取られ、閉じられていた門が開け放たれる。魂から垣を切った水のように祈祷いのりが溢れ、流れ出す。


 同時に猟犬が走り出す。悠雅に向かって、恐るべき速度で。それは最早生物のそれに非ず。疾風の如き早さにて、距離を詰める。


「――私は置いて行かれたくない。焔神と交わるは最先いやさきより来たる原初の斬刃――神話再現‟八十火産神・十拳の祝やそほむすひ・とつかのはふり”」


 神言しんごんの結びと共に、悠雅は猟犬を迎え撃つべく、天之尾羽張を振りかぶる。放たれた弾丸のように駆ける猟犬とは打って変わり、ゆっくり、じっくり、無駄な力入れずに。

 切断の祈祷いのりという色に染まった高密度の霊力を纏う天之尾羽張の刀身は、空間を歪ませながら天を衝いた。


 余りにも剣呑にすぎる力を前に、猟犬は悠雅を目前にしてたたらを踏む。野生の勘が訴える。悠雅の持つ、神剣に込められた祈祷いのりの剣呑さを。間合いに入った瞬間、自分が切り刻まれることがわかったのだ。


 ならば、と猟犬は運搬用の小型車両を触腕で絡め取り、思い切り悠雅に投げ飛ばす。その速度、時速一二〇〇。人間の動体視力では感知しようのない速度。

 されど、その紅蓮の独眼、赫く煌めいて。

 瞬間、天之尾羽張の刃は空間に裂け目を作りながら振り下ろされた。


 小型車両は豆腐でも切るように真っ二つに切り裂かれ、虚空には赫い斬影、亀裂が刻まれる。

 力技で切り裂かれた空間は元に戻ろうと周りの空間を引き込む。それに巻き込まれた小型車両は、空間が元の姿状態に戻った頃には体積を三分の一ほど消失させた状態で混凝土コンクリートの地面に転がった。


 尋常ではない光景を目の当たりにした猟犬は、強烈な飢餓感を濁らせてしまっていた。飢餓感によって支配されていると言っても過言ではない猟犬の内に、恐怖という異物が混ざり始めていたのだ。


 空間に裂け目を作るほどの凶悪な力。

 掠るだけでも微塵に切り刻まれてしまいそうな力。


 まともに相対すればどちらが狩られるか、火を見るよりも明らかだった。

 しかしながら、悠雅が無意識に垂れ流している上質な霊力を気取ったことで飢餓感も増してしまった猟犬に、逃走という選択肢はない。

 猟犬は再度自身の体を霧状に分解すると、辺りに鎮座している列車の角に吸い込まれるように消えてしまった。


「消えた……逃げたのか?」

「奴の習性だ!! 奴らは鋭角を門に次元を移動する。列車や機器の角に気を付けろ!!」


 麗一の助言通り、角を警戒する悠雅。とはいえ、この車庫には列車や機器、他にも内装、鉄材、地面を転がる小石。角など数え切れぬほどある。

 ただ、角を警戒するのではなく、現状敵視されている悠雅自身にとって、一番警戒しにくい場所から出てくるはず。


 で、あればそこはどこか?


 瞬間、悠雅は背に飢餓感を帯びた殺気を感じる。霊力と肉を食むべく飛びかかる猟犬。弾丸の如き速度で仕掛けられた奇襲攻勢。しかし、それよりもう一歩早く、地面から巨大な赫銅しゃくどうの壁がせり上がった。


 悠雅が第二階梯・国津神くにつかみ位階へと至ったことで得た、緋火色金ヒヒイロカネを生み出す力。それによって出現した、壁の如き防壁だ。

 壁に激突し、張り付いた猟犬は壁の向こうから迫る、気絶してしまいそうなほどの濃密な霊力を気取る。万象を切り分ける刃が迫っていることを察知し、猟犬は咄嗟に壁を蹴って逃れた。

 されど、それを僅かに上回る速度で、天之尾羽張の刀身が緋火色金ヒヒイロカネの空間ごと壁を切り裂いた。神剣の刃が猟犬の右足先を僅かに掠めた瞬間、猟犬の右後脚が見るも無惨に吹き飛んだ。


 青い体液を撒き散らしながら車庫を転がる猟犬は、激痛に悶えながらも鋭角に逃れるべく走り出す。


 判断を誤った。

 力量を見誤った。

 自身が相対していた餌は、自身を超える怪物であった。


 飢餓感は既に失せ、恐怖によって塗り潰されている。猟犬は死に物狂いで鋭角に飛び込もうとする。が、それよりも早くゴツゴツとした革長靴ブーツが猟犬の脇腹に突き刺さる。


 甲高い悲鳴をあげる猟犬はおぞましい肉と体液で地面に青い染みを作りながら、不気味に蠢く触腕のような尻尾を失った右後脚の代わりになんとか立つ。だが、猟犬の痩せ細った首筋に、機械義腕メタルアームを伸びる。


 逆転した食物連鎖に猟犬は抵抗することも唸ることさえも出来ず、ただ怯えた目付きで悠雅を見据えていた。

 その様子に、悠雅はなぜだか罪悪感を覚えさせられた。間違いなく最初に吹っ掛けて来たのは、今悠雅が締め上げている怪物の方だと言うのに。


「良くやったぞ竹馬の友よ。やはりお前に協力を仰いで正解だった」

「若のように助言も無ければ援護もしてくれなかった人間が友? 克成、お前の中の友の基準はずいぶん低いところにあるんだな?」

鳴滝克成なるたきかつなり、貴様今までどこにいた?」

「俺はいつでもお前たちの心の中いるぞ!!」

「よし殴れ深凪悠雅みなぎゆうが。私が許可する」

「合点」

「待て待て待て。腕に霊力を漲らせるんじゃあない。そんな状態で殴られたら普通の一般人はひとたまりもない。四肢が吹き飛び、肉片になった俺と対面したくないだろう? そんなことより猟犬だ」


 強引に方向性を修正してみせた克成は、悠雅が握る猟犬へと指さした。


「こいつは人を憎悪し、喰らう生き物。取り分け現人神あらひとがみには強烈な執念を抱く。こいつらの好物は霊力だからな。だが、いくらなんでもように思える」

「どういうことだ?」

「俺の目にはお前が証拠を見つけた途端に出てきたように見えた、という話だ」

「確かに、こいつがなんの理由もなく急に出て来たとは思えないな」


 克成の言葉に麗一が頷く。


「あーと、つまり、捜査の役に立ちそうなのか? 進展しそうなのか?」

「そう急くな悠雅。あくまで、かもしれないというだけだ」


 ただ、「間違いなく調べる価値はある」、と克成は断言する。証拠の類いは全て軍に持ち去られていた可能性があっただけに、先の水晶針や猟犬といった物品を回収出来たのは僥倖というものだった。


「――しかし、それにしても」


 ぷらん、と猟犬を掲げる悠雅に、克成の顔はいつもの不敵で不遜な顔ではなく、渋柿でも口にしたような顔付きに変わっていく。

 その理由がいまいちわからなかった悠雅が小首を傾げていると、克成同様に――いや、それ以上に渋そうな顔をしている麗一が眉を潜める。


「異次元の猟犬を単騎で無力化するとはな。しかも、生け捕りとは」

「九頭龍に比べればこんな畜生風情、肩慣らしの相手にもなりません」

「神話級の災厄と比べれば大抵の魔性はそうだろうよ」

現人神あらひとがみ、面目躍如といった所か。やはり純粋な武力の話になると超人は強い」

「珍しいですね。二人が俺を褒めるなんて」


 急に気恥ずかしくなった悠雅は頬をかく。


「褒めているというか」

「半ば呆れている」

「……おかしい。仕事を全うした筈なのに不当な評価を得ている気がする。とても解せない」


 そんなやり取りをしている間に、猟犬は悠雅の垂れ流す霊力に充てられ、みるみる衰弱していた。


「――しかし、異次元の猟犬か。こいつらほどの魔性を本当に使役しているのであれば、敵方は相当厄介な相手になる」

「ああ、今回は深凪悠雅みなぎゆうがという大きな疑似餌のお陰で、奴は私たちに見向きもしなかった。が、今後の調査は気を引き締めた方が良いだろうな。この悠雅あほうにとっては取るに足らぬ雑魚でも、私たちにとっては死神に等しい。あんな動きに対応できるものか」

「そこについては大いに同意しよう。どうすれば退けられるか、想像することも出来ない。その点、こいつは間違いなくおかしい。他の現人神あらひとがみだってまだ人間らしいぞ」

「そういう話はいい。それで結局、この青グチョはどうするんだ?」


 再度渋面を作る克成と麗一からまた不当な評価を受ける前に、悠雅は話の続きを促す。


「それは俺が預かろう」

「いや、ここは禁厭師まじないしの私が預かるが無難だろう。物理的に縛り上げる手立てしかない鳴滝では逃げられる可能性がある。それに、猟犬が牙を剥けば貴様では喰われるが落ち」

「随分とまあ過小評価してくれるな麗一よ。物理が効くのなら手負いの獣くらい処理できる。これでもそれなりに修羅場も潜り抜けていることだしな」


 克成は腰に掛けた南部拳銃をこれみよがしに見せ付ける。


 互いに譲らぬ克成と麗一。そんな二人に徐々に苛立ち始める悠雅。彼は懐から懐中時計を取り出すと、時間を気にしだし始めた。とうに日付は跨いでおり、後一時間もすれば空が白み始めるであろうそんな時間。

 朝帰りだけは何としても避けたかった。新撰組の一同で最も朝が早いのは悠雅だが、その次に早いのは瑞乃だ。彼女が起床する時間は凡そ五時半。それまでの間に何としても帰らなければならなかった。


「どっちでもいいので早く決めて貰えませんか? そろそろ社に戻らないとバレてしまいます」


 己の明日を決するかもしれないのだ。不毛な争いにかかずらう暇などない。


「どうせ、こういった類の怪異を調べるには彼女の協力が必要なんだ。彼女への説明に不手際があってはならん。共に行くとしよう」

「……良いだろう」

「では悠雅、今夜はここで解散とする。今後の調査については明日、追って報せる」


 そう言い残し、克成と麗一は猟犬と共に忽然と姿を消した。次元跳躍術式によるものであろう。

 悠雅はつくづく便利なものだと感心する一方、一人頭を抱える。


「あの警備網、どうやって潜り抜けたものか……」


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