第2話

 克成の言葉を皮切りに事務所を後にした一行は、麗一が待たせていた内燃機関ガソリンエンジン式四輪車に乗り込む。車の運転席には既に花鈴の姿があった。


「花鈴、来ていたのか。どうして事務所にいなかったんだ?」

わたくしは所詮、若様の補助人アシスタントとしてし様にアシとしてコキ使われている身ですから。お仕事の話を聞く訳には参りません」


 操車把手ハンドルを握る花鈴は相も変わらず感情の見えない顔。しかし、悠雅は気取る。発する言葉からは滲み出るように悪感情が漏れていることに。


「このような夜更けに、うら若い乙女を路地裏に一人待たせるのはどうかと思いますよ若? お嬢に聞かれたら本気で軽蔑されます」

「仕方ないだろうが!! この女が私の運転手なんだから!!」

「時間が時間な訳ですし、せめて代役を探された方が良かったのでは?」


 じっとりと悠雅が睨む横で、麗一は居心地が悪くなった。すると、意外な人物から助け舟が渡される。


「待ってください悠雅。貴方は少しわたくしのことを見くびり過ぎです。わたくしも末端とはいえ辰宮家に仕える女給メイド。悠雅は御存知ないでしょうが、わたくしもそれなりに護身術を習得しております」

「相手が人間ならばそれでも良いだろうよ。だが、この街にいるのはただの人間だけじゃない」


 様々な術を扱う禁厭師まじないしや超人たる現人神あらひとがみ。それだけならまだ良いだろう。

 十二月の頭から騒がれている黒外套くろがいとうという不定形の怪物や、不気味な魚人など、帝都の闇には得体の知れぬ未知が身を潜めている。

 決して女子供が出入りしていい時間ではない。


「でも、悠雅はお嬢様や殿下と共に夜の帝都を駆けたのでしょう?」

「あの二人は現人神あらひとがみだ。同じ土俵で語れるか」

「……現人神あらひとがみである前に、同じ女だと思いますが」


 呟くように花鈴はボヤく。読めない表情で。ただ、彼女が何故か酷く感情的になっていることだけは悠雅にもわかった。

 何故こうも花鈴が感情的になっているのか? その理由を考えていると、克成が決定的な言葉を口にする。


「なんだ、嫉妬しているのか。この短期間で人付き合いの苦手なお嬢さんの心を開いてしまった殿下に。ああ、全くもっていじらしいな鷺さ――」


 直後、克成の体は助手席の扉を破壊しながら、切り込み回転しつつ車外に吹き飛んだ。


「鳴滝様、申し訳ありません。右頬に羽虫が止まっていたので処理させて頂きました」

「ああ、お前の拳、響いたぞ。誇っていいぞ。それは世界を狙える左だ!!」

「鳴滝様の転んでもタダじゃ起きない芸風、とても嫌いです」

「ハッハッハ、褒めるな鷺沢」

「貴様ら車の修理代、給料と依頼料から差っ引いておくから覚悟しておけよ」


 麗一の鶴の一声で克成と花鈴は凍り付く。こういう時、雇い主というものは本当に強い。


「――それで、どこに向かえば宜しいでしょうか?」


 コホン、と軽く咳払いをした花鈴は改めて克成に視線を送る。


「品川機関区で頼む」

「あの巨大な操車場ですか。随分珍しい場所ですね」


 さほど関心も無さそうな反応を見せた花鈴は、車の機関エンジンをかけた。車は一行を乗せ、帝都を南進する。


 ◆◆◆


 ちゃぽん。天井から垂れる雫が湯船に波紋を作る。

 アナスタシアが日本に来て初めて驚いたことの一つに、日本の風呂の巨大さがある。もちろん一般家庭の風呂を見れば彼女もそう驚かなかっただろうが、武装警備会社・新撰組の社屋兼社員寮である武家屋敷は元々辰宮家が使っていた屋敷で、かなりの規模を誇る。無論、浴場は相応の広さがあった。

 露西亜ロシアから来たアナスタシアにとっては文化的衝撃カルチャーショックがあり、湯船の中で手足を伸ばすという感覚が未体験で、奇妙で、心地良かった。


「あー、日本のお風呂愛してるー」

「お気に入りですね」


 隣で湯船に浸かる瑞乃も目を閉じて足を伸ばす。


「日本人はバスタブに香水を入れないって聞いた時は驚いたけど、こんなお風呂に毎日のように入れるなら香水要らずよね。流石はお水の国よね。この木の香りも良いし。それに、皆で入っても手足伸ばせるし。非の打ち所がないわ」

「疲れも吹き飛ぶしねー」


 同意する璃菜は腕をぴんと張って、筋を伸ばす。


「そういえば璃菜、今日のお食事会どうだったの? 帝国ホテルのレストランで食べたんでしょ?」

「美味しかったけど、あんまり良い気分ではなかったかなあ」


 今にも胃をひっくり返しそうなくらい青ざめた顔色を見せる彼女は日中、帝国ホテルのレストランで行われた会食を思い返す。

 大物政治家や大商人、学者、軍人、華族。各界の著名人が一堂に会し、立食を楽しむ中、ひたすら作り笑いを浮かべ、訳の分からない政治や世界情勢、経済の話を長時間聞き続ける苦行。これが実なる話になるなら彼女もまだ前向きに、興味を持って耳を傾けただろう。だが、これらが全て嫁入りの前準備だと思うと、やる気も興味も削がれてしまう。


「私たちみたいなのは結局、家督を継げないから家を大きくする為の人身御供になるしかないのかなあ……」

「私なら死んでもごめんですけどね」


 璃菜に同調し、瑞乃は眉を潜めて忌々しげに吐き捨てる。あのように娘に関心の無さそうな父親に、珍妙な兄に囲まれればそういう結論にもなるか、とアナスタシアは得心する。やや憐憫をもって。


「私も似たような立場だったけど、アンタたちみたいに家のために〜って言われたことないわね」

「そうだったんですか?」

「うん、むしろ私は嫁に出すなって言うのが家族親類間の共通認識だったかな」


 瑞乃と璃菜が揃って、意外そうに目を丸くする。


「私の悪戯好きが社交界にも漏れちゃってたみたいでねえ。ダンスパーティーでもダンスに誘われるのは姉妹の中じゃ一番最後だったわね。男たちはいつも美人で器量の良い二番目のお姉様と三番目のお姉様を取り合って、頭の良い商人や貴族は聡明な一番上のお姉様の手を取った。私に男は寄り付かなかったわ。顔を立てようと数えられる程度は来てくれたんだけどね。でも、そいつらがまた失礼でさ。引きつった顔で誘ってくるの。最低でしょ?」


 彼女は憤慨した様子で水面を叩く。


「革命が起きる前にあいつらの横っ面ぶん殴っておけば良かったわ」

「むしろ、よく我慢できましたね? 貴女ならその場で手を出すと思いましたが」

「私その時、皇女よ? 四番目だけど。そんな真似、できるわけないじゃない。今はそういう肩書きが無いから直ぐに手が出るだけ」

「意外ですね。貴女にそんな理性があったなんて」

「アンタの中の私は獣か何かか」


 瑞乃の軽口にどっと疲れが込んだアナスタシアは、鼻先まで湯船に浸かった。体ごと疲れが溶けだしているような気がして、思わずほくそ笑む。


「本当に気持ち良さそうに入りますね」

「実際気持ちいいから〜」

「そういえば、羅馬ローマとかにもこういうお風呂あるって聞いたことがあるよ?」


 湯船の縁に腰掛ける璃菜が、以前父に連れられて行った海外旅行を回想する。


「へえ、ローマには行ったことあるけどお風呂には入らなかったのよね。バカンスで行ったわけじゃないから」

「まあ、御姫様おひいさまってば本当に御姫様おひいさまだしね――って、ああ、アーシャって呼べば良いんだっけ?」

「親しみを込めて様付けしてくれても良くってよ?」

「きゃ〜、アーシャ様〜」

「…………ごめん、やめて。むず痒くなった」


 アナスタシアは生の檸檬レモンをそのまま口にしたような顔を晒し、その顔を見た璃菜が腹を抱えて大笑いする。


「はしたないですよ璃菜さん。大和撫子はそんな下品に笑っちゃダメです」

「私は半分、淑女レディだから良いんだよ」

「英国の淑女レディだってそんな下品に笑いません」

「いやん、痛いとこ突かれちゃった」


 なんて言いつつも、璃菜に悪びれる様子はない。


「それにしてもアーシャ様さ」

「まだ様付け続くのね。何よ英国淑女様?」

「アーシャ様っておっぱいおっきいよね。私お湯に浮かぶおっぱい初めて見たわ」


 瞬間、その場が凍り付いた。少なくとも、アナスタシアの視点では確かに凍り付いたように思えた。

 アナスタシアは温かい風呂に入っているにも関わらず、震えが止まらない。浴場を凍てつかせる冷気の源泉から絶対零度の視線が、直に突き刺さっていたからだ。


「ホント、スゴイデスヨネ。ワタシモユブネニウイタオッパイハジメテミマシタ。デキルコトナラキリトッテ、ヒョウホンニシタイデス」

「怖い怖い怖い怖い!! ちょっと瑞乃、アンタのその皿のような目が怖い!!」

「アア、スミマセン。オオキナオッパイダッタモノデ」

「かつてないほど説得力に満ちた理由よね。革命が起きても無血開城できそう」


 殺気混じりの視線に背筋を震わせるアナスタシアは大きく一息吐くと、自身の腹の肉を摘む。


「私、本当に太りやすいのよ? 一時期ぶくぶく太り過ぎたせいでお母様に怒られて、宮殿の庭を百週走らされたこともあるんだから。その点、アンタは良いじゃない。贅肉ぜいにくとは無縁な訳だし」

「ツマリ、ワタシハモウセイチョウシナイト?」

「なんでそうなるのよ……」


 一気に面倒臭くなった彼女は一人、浴場を後にする。赤く上気した肌を柔らかな西洋手拭タオルで丁寧に拭き取っていく。肌を傷めぬように、擦らず、押し当てるように。

 その後、手早く絹の洋寝間着ネグリジェに身を包んだ彼女は髪の毛を西洋手拭タオルで髪の毛を纏め、居間へと向かう。


「はー、あっつ……ねえ、悠雅ー、お茶淹れて頂戴お茶ー」


 ホカホカと湯気を上げる体を冷まさぬよう、そそくさと居間の炬燵に足を突っ込む。悠雅が淹れたお茶と共に、みかんを頬張ってから寝るのがここ最近のアナスタシアの夜の習慣だ。だが、悠雅からの返事はない。アナスタシアの呼び声は暗い廊下に寂しく響くだけだった。


「……いつもなら言わなくてもお茶用意してくれるのに」


 ◆◆◆


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