第3話

「――一体何なのよ、あの男は!!」


 憤懣ふんまんやるかたないアナスタシアは長く伸びる回廊にて、鼻息荒く吼えた。今にも財布の入った巾着を叩きつけ、地団駄を踏みかねないほど激怒する彼女にとって、そこが貴族・華族の邸宅であろうと関係ない。今の彼女に品格を問えば、家畜の餌にしなさい、と強い語調で言い渡されることだろう。


 自分をコケにされ、友人たちにも無礼を働いた。特に、瑞乃に対する態度は思い返すだけでもはらわたが煮えくり返りそうだった。


 家族間で上手くいかないことは多々あるものだ。アナスタシア自身もそれは承知しているし、痛感もしている。それでも、彼女は許しがたかった。たとえどんなに亀裂が走っていても、家族を物のように扱うことなど、決して許されていいことではない。


「……ごめんなさい。不快な思いをさせて」


 瑞乃が腰を折って謝ると、アナスタシアの胸の内がさらに爆発する。

 どうして彼女が謝らなくてはならないのか? アナスタシアは怒りが込み上げて、同時にやるせなくなった。


 個人として、この激情は正しいものだと考えている。しかし、彼女にとっては血の繋がった肉親。こうしてアナスタシアが怒りを吐けば吐くほど、瑞乃を小さく傷つけるのだと思うと、アナスタシアの心はささくれ立つ。


 やるせない思いが心の内に淀みを作っていく。こんなことなら、ついてこない方が良かったのかもしれない。アナスタシアがそんな風に考えていると、先導する悠雅がぽつりと零す。


「アナスタシア。ありがとう」

「急にどうしたのよ?」

「お前がお嬢の友達になってくれて本当に良かった。今日改めてそう思ったんだ」


 どこか自嘲気味に笑う彼の背中は、いつもよりも少し丸い。


「あの人にものを言うには、俺は余りにも恩を貰いすぎている。力ずくで訴えることなんかできなかった」


 七年前、八咫烏ヤタガラスの実験場から保護された悠雅を最初に引き取ったのは他ならぬ辰宮蓮十郎だった。蓮十郎は身寄りのなかった悠雅に衣食住を与え、仕事を与え、永倉新八ながくらしんぱちに弟子入りしたいと言い出した時には、その背中を押した。


 辰宮蓮十郎は新八と同様に、大恩ある人物なのだ。そんな人物に義理堅さに手足が生えたような男が逆らえるはずもない。


 だからこそ、羨ましいという感情を覚えた。


 悠雅にとって、瑞乃は初めて仲良くなった他人だ。本来なら、そんな彼女が物のように扱われることなど耐えきれない筈なのに。


「私は単に何も考えていないだけよ。あの男の横っ面を引っぱたけたのも五割方、自分は元皇女だからっていう意識があったからだし」


 苦く笑うアナスタシアだが、それなら残りの五割はなんなのか? 答えは驚くほど単純だ。自分が大事にしているものを守りたい――その一心に尽きる。

 アナスタシアは以前、死んで逝った家族を想い、それに殉じて行動していた。自身が持ちうるもの全てを投げうってでも、家族ともう一度再会する為に。その対象が悠雅や瑞乃に変わった今、彼女がこういった反応や言動をとるのは当然なのかもしれない。


(眩しいな。本当に……)


 羨望の念。間違っているものは間違っていると言える彼女を尊敬し、また自分自身もそうあれる人間になりたい。悠雅はそう願わずにいられなかった。


「――ねえ、あの人権無視な術を防ぐ方法はないの?」


 眉をひそめるアナスタシアに、瑞乃は白く細い指を顎にやって思索を巡らせる。


「……正直、ぱっと思い付くものはありません。命縛めいばくという術はお父様の言った通り、真名――平たく言えば名前を以て他者を支配する禁厭まじないです。この術の基本原理は暗示で、名前を呼ばれた、と自覚した時点で術中に嵌ってしまいます」

「自覚?」


 いまいちピンと来なかったアナスタシアはクイと小首を傾げる。


「そうですね――アナスタシアさん」

「何よ?」

「それです」

「……………はあ?」


 傍から見れば文脈の繋がらない会話。当事者であるアナスタシアすらも訳が分からない、と顔を歪めている。対する瑞乃は教鞭のように指を振るう。


「私が今名前を呼んだ時、アナスタシアさん返事しましたよね?」

「ええ、名前を呼ばれたからね」

。この何でもないやり取りに多様性と強制性を加えたのが命縛めいばくという禁厭まじないなんです」

「ふぅん……だから自覚、ね」


 ようやく納得がいった様子でアナスタシアは頷く。非常に観念的な禁厭まじない――魔術だが、魔術というものは得てしてそういうもの。北欧の魔術体系には指をさすことで、他者を呪う魔術もある。名前を呼んで相手を操る力があっても何らおかしくはない。


「それなら自覚しなければ――例えば、名前を呼ばれたことを認識しない状況を作れれば効果がなくなるのかしら?」

「そうです。ひょっとしたら耳栓でもしながら鼻歌でも唄っていれば無効化できるかもしれません。まあ、日常的に行っていくのはかなり不便でしょうが」

「……他にもっといい案ないの?」

「余り現実的ではありませんが、複数の禁厭師まじないしを雇って傍らで呪詛返しをし続けてもらうという方法がありますね。ただ、禁厭師まじないしを雇うのもタダではありませんので人件費が馬鹿になりませんけど」

「厄介だなあ、もう……」


 頭を抱えてアナスタシアは梅干しでも頬張ったように、眉間にシワを寄せる。

 その脳裏に過ぎるのは蓮十郎の冷たい眼差しだ。いけ好かない顔(あくまでアナスタシアの視点で)をした男に言われるがまま、なすがままにされたということは彼女にとって屈辱でしかない。


「赤の他人に自分の命運を握られてるようで嫌だわ……」

「焼け石に水かもしれないが、字名あざながあった方が良いかもな」

字名あざなって、なんだっけ?」

「表向きに名乗る名――要は呼び名だ。俺なら悠雅、お嬢なら瑞乃。気軽に呼び会えて、且つ初対面の人間に名乗れる名前があれば、少なくとも必要以上に真名が知れ渡ることはないと思う」

「最初に出会った時みたいにアンナ・アンダーソンって名乗った方が良いってこと?」

「お前がそれでいいなら――」


 ――そう呼んだほうがいいだろう。そう悠雅が続けようとしたところ、何やらアナスタシアが複雑な顔付きで唸る。


「その名前って、借り物なのよね」

「借り物? 他の誰かの名前ということか?」

「ええ、以前私の影武者をしてくれていた娘の名前なのよ。いざと言う時はそう名乗れってね。でも、大好きな人たちにはちゃんと私の名前を呼んで欲しいって思うわけ」


 さらり。極々自然に言ってのけるアナスタシアに悠雅は思わず片手で顔を覆い、瑞乃はそっとそっぽを向く。アナスタシアは何事にもまっすぐだ。信念や行動、愛情表現すらも。


「何、アンタたち照れてるの? やだ、

 かーわい」

「うるさいですよ」

「喧しい」


 声を揃えてアナスタシア咎める悠雅と瑞乃は、わざとらしく、ゴホンと咳払いを挟む。


「アンナ・アンダーソンと呼ぶ案は却下として、なんとお呼びしましょうか?」

「アナスタシアと呼ばずに、それでいてアナスタシアの名前を呼ぶ方法か」

「いっそ教授や璃菜さんのように御姫様おひいさま、って呼びます?」

「……アンタたちがそう呼びやすいならそれでも良いわよ」


 肯定しながらも口を尖らせて、いじけた様に。


「お嬢」

「……わかってますよ、言ってみただけです。でも、他に案ありますか?」

「ねえ、それなんだけど、あだ名とか愛称でもいいの?」


 悩む悠雅と瑞乃に、アナスタシアがおずおずと問いかける。それも今度は彼女の方が照れくさそうに。

 アナスタシアの妙な様子に戸惑いつつ、二人が頷けば、彼女は白い頬を熟した林檎のように紅潮させて小さく、か細い声で。


「……それなら、“アーシャ”って呼んで欲しい、かな」


 視線を合わせず、落としたまま。


「家族が呼んでくれた愛称なの」

「お前――アーシャがそう望むなら」

「ぷぎっ!?」


 不意打ちのように早速愛称で呼ぶ悠雅に、アナスタシアの心臓が跳ねる。家族が呼んでくれた名前を、他人に呼ばれたのが初めてだったからだ。

 心の距離がさらにグッと近付いた気がして、アナスタシアはさらに頬を赤らめる。


「いいんじゃないですか? 適度に可愛らしくて」


 切れ長の独眼を細め、朗らかに笑う悠雅のその傍らで瑞乃も頬を緩める。ただし、意地悪そうな含み笑いだが。


「な、何よ!! 文句があるの!?」

「いえ、ただアーシャさんが恥じらうのが珍しくて」

「うぎっ!?」

「あ、また赤くなった」

「うるっさああああい!! さっき、父親の前で情けなく固まってたアンタを庇ってあげたって言うのに!!」

「んな!?」

「やーい、臆病者〜。陰湿な虐めしかできない日陰女〜」

「日陰女ですって!? 意味わかって使ってるんだったら切り捨てますよ?」

「わかってなきゃ使わないわよ」

「ほう、つまり自分が日向の女だと?」

「むしろ私こそが太陽よね」


 窓から差し込む陽光を照らされ、美しく煌めく蜂蜜色の御髪をこれ見よがしにかきあげるアナスタシアに瑞乃、遂に怒髪が天を穿つ。


「太陽だなんて烏滸がましい。貴女はダイナマイト女で十分です!! おしりにダイナマイト挿して真っ黒焦げになってしまえばいいんです!!」

「それ死んでるじゃない!?」


 きいきいと罵り合うアナスタシアと瑞乃。昼餉を前にしていつもの調子を取り戻せたことを喜びつつ、悠雅はそっと溜め息を吐く。


「元気で何よりだ。本当に」

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