第2話

 九曜紋と呼ばれる辰宮家の家紋が彫り込まれた扉の前で、瑞乃の思考は固まった。その時間が数秒だったのか、数十秒に及ぶものだったのか、認識できないまま、彼女は我に返る。


(この感情はなんだろう……?)


 怒りと悲しみが綯い交ぜになって、それでいてそのどちらの感情からも掛け離れている感情。筆舌に尽くし難い、曖昧な悪感情。わかるのは昏い感情だということだけ。


 いつもそうだった。実の父親と対面する時は。


 瑞乃はそっと舌を噛み、気持ちを落ち着ける。そうしている間に花鈴が戸をこつこつと叩いた。


「失礼します。瑞乃お嬢様と御友人方をお連れ致しました」

「――ああ、入れなさい」


 扉の奥から低い声が返って来ると、花鈴が静かに、且つ速やかに扉を開ける。しかし、瑞乃の足は動かなかった。いや、動かなくなってしまった。

 扉が開かれると同時に流れ出した薔薇バラの甘い香りが、瑞乃の体を凍らせた。

 瑞乃はその匂いが苦手だった。どうしようもなく。抗いようなく。


 八咫烏ヤタガラスという闇の組織の手に堕ちた時、瑞乃はまだ四つだった。

 日露戦争が終戦し、露西亜ロシアから賠償金を請求することが出来なかった日本政府への抗議活動が盛んだった頃のこと。彼女は辰宮家と対立していた派閥の人間の手で誘拐され、八咫烏ヤタガラスに売り渡された。

 当時から高い霊的能力を見出されていた彼女は、八咫烏ヤタガラスが運営する第八実験場に放り込まれ、地獄のような日々を送った。


 禁厭まじないによる暗示。

 得体の知れぬ薬物の投薬。

 何度も聞かされる経や祝詞のような言葉の羅列。


 赤の他人に自分の体を弄り回される感覚は奥深くまで浸透して、肉体的にも精神的にも陵辱された。

 実験場に放り込まれ、永倉新八ながくらしんぱちという皇国の英雄に救い出されるまでの六年間。それは瑞乃にとって、本当に悪夢としか言いようのないものであった。


 二度と家族に会えないと思っていた。だからこそ尊いと思った。


 母の胸に顔を埋め、

 兄に頭を撫でられた。


 本当に幸せに感じ、奇跡に感謝した。


 だが、


『――なんだ、生きていたのか』


 まるで、死んでくれていても良かった、とでも言いたげな口ぶりでその男は瑞乃の目を見ることなく執務を続けた。薔薇の香りのする部屋で、ぶつぶつぶつぶつと何か呟きながら。

 底冷えするようなちちの態度を、瑞乃は生涯忘れることは無い。


「――お嬢」


 小さく震える瑞乃の頭の上から優しい声が落ちてくる。大きな手が差し出されて、彼は薄く微笑む。


(ああ、あの地獄のような日々の中でも唯一と言っていい。彼と出会えたことだけは本当に良かったと断言できる)


 深凪悠雅みなぎゆうがと名乗る少年と出会えたことだけが、彼女の幸福だった。

 瑞乃は青年へと成長した彼の手を、ゆっくりと握る。


 ごつごつとした硬い手のひら。何度も血豆を潰して、それでもなお剣を降り続けてきた剣士の手。

 自分のものとは明確に違う筋肉質な手。女の細腕とは比べ物にならないほど太く長い男の手。


 自分には彼がいる。瑞乃は自分にそう言い聞かせて踏み出す。


「――ようやく顔を出したか、愚か者」


 また、低い声が飛んできた。扉越しではなく、直接鼓膜に響き、瑞乃は目眩をこらえる。奥歯を噛み締めながら。


 部屋の中はふかふかとした赤い絨毯が敷き詰められている。壁には書棚が並び、経済や政治、地理について書かれた書籍が並んでいる。

 部屋の奥には大きな窓を覆う天鵞絨ビロード窓帷カーテンと執務机。その机の前で、灰色の羽織りを着た着物姿の男が腰を下ろしている。

 辰宮蓮十郎たつみやれんじゅうろう。瑞乃の父親であり、辰宮家の現当主だ。


「正月早々済まないな、鳴滝。契約通り、三倍の依頼料を払おう」

「ハッハッハ、お得意様の辰宮の御当主からの依頼ともなれば寝正月など過ごせんよ」

「依頼料は鷺澤に渡してある。後ほど受け取るといい」

「了解だ、御当主」

「では鳴滝様、こちらに」


 軽快に仕事の話を終えると、花鈴が克成を連れて退室する。その背中を見送った蓮十郎は一段落着いたのか、万年筆を置いた。


「こうして顔を合わせるのは三年ぶりになるか」

「……ええ、そうですわね。お父様」

「何故男と手など繋いでいる? 未婚の女が気安く男に肌を許すな。恥を知れ」

「御当主、これは俺から――」

「悠雅、お前は黙っていろ。それから、余りを甘やかすな」

ですって?」


 びりびりと皮膚が小さく弾ける感覚があった。蜂蜜色の御髪が迸る霊力に煽られて、炎のように天を衝く。

 アナスタシアは瑞乃の脇を通り抜けると執務机を殴りつけた。


「想像以上にお転婆な方らしいな、御身は」

「自分の娘にって、本気で言ってるの?」

「何故御身が怒る?」

「あの娘が私の友達だからに決まってるでしょう?」

「友……それのか?」


 蓮十郎は何やら目を丸くして、少しばかり驚いた様子だ。


「他に意味があるとでも? 後、私の友達をだなんて呼ばないで。私、自分が大切にしているものを自分で遊び倒すは好きだけど、赤の他人にそれをされるのは凄く腹立つの」

「傲慢に過ぎる物言いだ。その論理は最早通じぬものと理解した方がいい。亡国の没落姫よ」

「言ってくれるわね。そのスカした顔に平手を叩き込みたくなってきたわ」

――アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ」


 蓮十郎がアナスタシアの名を口にした瞬間、手足が一気に弛緩し、彼女は床に座り込んだ。訳の分からぬ事態に混乱するアナスタシアが言葉を失っていると、その背後で大きく床を蹴る音。


「御当主!!」


 堪らず大声で怒鳴り、駆け出す悠雅。すると今度は蓮十郎の視線が悠雅に向けられ、「橘朝臣深凪悠雅鍵時たちばなのあそんみなぎゆうがかねとき――」命ずるように悠雅の真名が響く。彼の体は走り出した格好のまま彫像のごとく固まり、そのまま彼は顔面から床に激突した。


命縛めいばく。真名を縛ることで、その者を意のままに操ることができる禁厭まじないだ。御身も一度見たことがあると聞いていたが?」

「う、る、さい……わ、です……!!」


 蓮十郎を睨みながら、アナスタシアは内心驚愕していた。名前を呼ばれた途端、突然体が言うことを利かなくなり、そのうえ口を開く度、話したくもない敬語を口走ってしまいそうになるのだから無理もない。


 対する蓮十郎の方は思案顔だった。眉をひそめ、不思議そうにアナスタシアを見下ろしている。


「ふむ、と言っただけにも関わらず座り込んでしまうとは。効果が中途半端に現れているようだ。同じ名前ばかり使う、西洋の文化とは相性が悪いという研究結果が出ていたが、どうやら本当らしい。しかし殿下、御身は少し危機感が足りないのではないか? この国で真名を握られている意味をよく考えた方がいい」

「よ、けいな、お、せ、わ……よ…………です」

「それでもなお言い返すか。その気骨は好ましいものがある――が、少々愚かだ」

「お父様、どうしてこのようなことをするのですか!?」


 瑞乃からの悲鳴のような問い掛けに、蓮十郎は色味を感じさせぬ表情を向ける。


「それを聞いてどうする?」

「無礼が過ぎると言っているのです!! アナスタシアさんにも、悠雅さんにも!!」

「その程度の理由しか吐けないのなら黙っていろ」

「黙りませんよ!! 貴方の好きにはさせません!!」


 許し難い。燃え上がる激墳が瑞乃を突き動かす。彼女は禁厭まじないを発動させるべく手印しゅいんを結び始める。しかし、それよりも早く蓮十郎はその名を口にする――


平朝臣辰宮瑞乃皐月たいらのあそんたつみやみずのさつき――


 ――瑞乃を縛る、真名を。


 うじかばね、苗字、字名あざないみな。五種類の名で構成される本当の名前――真名。名を以て身を縛る術に対する予防策として考案された、長文複雑化された名前。

 されど、生まれた時より己を知る親が相手ではそれも無意味になる。


「あ、なた、じぶんの、むすめ、に……!!」

「そのようなことはどうでも良い。殿下には聞きたいことがある。何故この国にやって来られた?」

「家族を蘇生させるため……!?」


 アナスタシアは再び驚愕する。明かすつもりのない自身の秘密が滑り落ちたからだ。


「家族の蘇生? 父ではなく? 処刑されたのは露西亜皇帝ツァーリだけだという声明があったが?」

「私は見たわ。お父様とお母様が処刑された、その瞬間を」


 胸の内を勝手に吐露する己の口を憎悪しながら、人権という概念を粉微塵に粉砕する恐るべき術にアナスタシアは戦慄する。


「……そうだったか。この様子だと、どうやら特務機関の予想は大方当たっていそうだな」

「どういうことよ?」

「御身が知る必要はない。今後、穏やかに暮らして行きたいのなら、世界の闇に首を突っ込まない方が懸命だ」

「そこまで言われて引き下がることなんてできないわよ!!」

「世の中には知らない方がいいこともある。真実を知った瞬間、己の知る常識が跡形もなく崩れ落ちることもあるものだ」


 平坦に、さりとてどこか憐憫を帯びた声音で諭す蓮十郎は一拍手。すると、アナスタシアは不自然に脱力していた自身の四肢に力が入る感覚を覚える。

 その瞬間、彼女は思い切り蓮十郎の頬を引っぱたいた。


「解呪した途端平手打ちか」

「当たり前よ無礼者」

「……そうだな、そこについてだけは謝罪しておくとしよう」


 含み笑いを零す蓮十郎は踵を返すと、執務机へ戻った。


「――詫びに昼餉を用意した。存分に寛いで行かれるが良かろうよ」

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