第一幕『辰宮家』

第1話

 赤村地区は数多の華族、富豪が居を構える帝都の一等地だ。その中でも一際大きな邸宅が地区の北部を占領している。

 二十町(町=ヘクタールとほぼ同じ広さ)という広大な敷地の中に建てられた歌特式ゴシック建築の白亜の御殿。辰宮という政財界の怪物が住まう伏魔殿である。


「中々立派な御屋敷ね」

「貴女に言われると嫌味にしか聞こえませんが?」

「そりゃあサンクトペテルブルクにあった宮殿と比べたら流石にね。でも革命の後、幽閉されてたイパチェフ館よりかは大きいと思うわ」

「サラッと幽閉されてた、とか重い発言しないで貰えません?」

「ええ、今更でしょ」

「反応に困るんですよ」


 アナスタシアを軽くたしなめる瑞乃を先頭に、アナスタシア、悠雅、克成の順に辰宮邸へと足を踏み入れる。


 彼らをまず出迎えたのは二階へと続く大きな階段と、階段まで広げられた真っ赤な絨毯。そして、絨毯を挟むように整列する英国風のお仕着せを纏う女給たち。清潔感のある白い前掛けをかけており、皆一様に目を伏せて頭を垂れる。


「お帰りなさいませ瑞乃お嬢様」


 女給たちが声を揃えると瑞乃は心底嫌そうに顔を歪めた。常に家を空けている娘一人にかしずく意味があるとは、どうしても思えなかったためだ。


「……一々出迎えなくてもいいのに」

「そういうこと言うもんじゃないわよ。彼女たちだって仕事でやってるんだから。私たちは堂々と笑顔振り巻けばいいの」


 そう言って、アナスタシアは先陣を切って歩き出す。その後を慌てて瑞乃が追い、さらにその後を悠雅と克成がいそいそと追う。

 すると、女給たちの列から一人、若い女給が瑞乃に声をかける。能面のように表情が見えない彼女は恭しく頭をたれた。


「あけましておめでとうございますお嬢様。今年はお嬢様の御顔を拝見できて嬉しゅうございます」

「ありがとうございます花鈴さん。それより、いきなり客人を連れて来て迷惑ではありませんでしたか?」

「滅相もございません。お嬢様が同性の御友人をお連れになられたのは初めてだったので、少し驚いていてしまいましたが、わたくしとても嬉しく思っております」


 などと、女給は嬉しさが少しも伝わらない表情で口にする。


「申し遅れました。わたくし、瑞乃お嬢様付きの近侍をしております鷺澤花鈴さぎさわかりんと申します。お嬢様がこんなにも御美しい方をお連れになられるとは思いませんでした」

「あら、貴女良い目をしているわね。まあ、私が美少女だってことは事実だから仕方ないけど!」

「あーはいはい、良かったですね」

「素っ気ないわね。何? ひょっとして瑞乃ってば、ひがんでるの?」

「心の底からどうでもいいので流してるだけですよ」

「私の美貌を前にして、どうでもいいとかアンタの頭おかしいんじゃないの?」

「どういう頭の構造してたらそんな科白セリフが真顔で吐けるんですかねえ?」

「元気なお嬢様ですね」

「ほら、花鈴さんに笑われてますよ」

「え、この娘、笑ってるの? 表情筋が全く動いてるように見えないんだけど……?」

「笑っていますよ。表情筋は硬いですが」


 瑞乃は花鈴の頬をぐにぐにと揉みほぐすように手のひらで捏ねては、細指で頬肉を摘む。しかし、当の花鈴は意に介する様子も無く給仕服の霓裳スカートを翻す。


「御当主様がお待ちですので、皆様どうぞこちらへ」

「あら、私も?」


 小首を傾げるアナスタシアに花鈴が頷く。


「御当主様は瑞乃お嬢様がお作りになられた御友達にも是非御会いしたいと」

「ふぅん……ひょっとして、その御当主とやらにも私の素性について話が通っているのかしら?」


 疑問の言葉が放たれる。その矛先は言わずもがな、後ろに控える克成にだ。


「さてなあ? 会ってみればわかるのではないかな?」

「……今回の件、単に瑞乃の父親が自分の娘に会いたいから呼んだってわけじゃなさそうね」

「それこそ会ってみればわかるだろう」

「アンタそればっかね」


 苛立ち混じりに克成を睨むアナスタシアに向かって、珍しく瑞乃が頭を下げる。


「申し訳ありません。私の父が」

「瑞乃が悪いんじゃないでしょ。そうやって悪くもないのにすぐに謝るところ、日本人の良くないところよ。ただ、この私を顎で呼ぶなんて、舐められているようで気分悪いわ」

「気分が悪いのはわかるが拳を握り締めるな。相手は辰宮家の当主。政財界にも顔の利く重鎮だ」

「はんっ、こっちはいくつもの大貴族を束ねてた男の娘よ?」

「枕詞に元が付くけどな」

「悠雅の正論うるさーい」

「事実じゃないか」

「あーはいはい、そーですよーっだ」


 アナスタシアは口を尖らせ、ズカズカと屋敷の奥へと進み始めた。


「とっとと案内しなさいよ。その御当主様がいる場所に」

「かしこまりました」


 恭しく頭を垂れる花鈴は早足でアナスタシアを先導し始める。そんな彼女らを追うように悠雅たちも屋敷の奥へと進んでいく。


 玄関口エントランスの大階段から向かって右。睥睨する龍が彫り込まれた樫の木の扉を開くと、どこまでも続いているようにさえ感じられる回廊があった。

 宙に浮かぶ塵が差し込む午前の陽の光を乱反射して、どこか幻想的で神聖ささえ感じられる。見慣れぬ者が見れば言葉を失う光景であろう。

 だが、そんな光景でありながらアナスタシアはどこか不満げだった。


「日本の貴族なのになんで洋館なんかに住んでるのよ、もったいない。武家屋敷に住みなさいよね」

「それは住んでる人間の自由だろう。強要するな」

「だって、洋館は見飽きててつまんないんだもん」



 変なところ我儘なやつだなあ、なんて悠雅は口の中でボヤく。


「そういえば悠雅って昔ここで働いてたんだっけ? 瑞乃の護衛と厨房の手伝いだっけ?」

「急に話が逸れたな。……護衛と言ってもほとんど遊び相手みたいなものだったけどな」

「じゃあ、花鈴とも面識あるの?」

「あるぞ」

「ありますよ」


 悠雅と先導する花鈴が同時に首肯する。


「当時はわたくしも瑞乃お嬢様の遊び相手を仰せつかっていて、その時にお世話になりました」

「世話と言えるようなことをした記憶はないんだけどなあ」

「書棚の整理や瑞乃お嬢様のお部屋のお掃除をよく手伝ってくれたではありませんか」

「一人でやるよりも二人でやった方が早い。効率の問題だ」

「それでも大変助かりました。給仕長も厨房から引き抜きたいとよく零していたくらいなんですよ?」

「なんだか気恥ずかしいな」

「ですけど、そのおかげでお嬢様からやっかみを受けて大変だったんですがね」

「その話までしますか!?」


 ギョッと反応した瑞乃は途端、青ざめ始める。その様子にアナスタシアのいたずらごころが一気に牙を剥く。


「へえ、どんなやっかみを受けたの?」

わたくしの食事からわたくしの好きなものを盗っていったり、自分の嫌いな人参をわたくしに押し付けたり、わたくしが整理した棚を荒らしたり、ですかね?」

「靴を隠されていたことあったな」

「ああ、ありましたね」

「……悠雅さんまで私をいじめるんですか!?」

「お嬢もよくいじめてくるじゃないですか」

「酷いです。外道です。鬼畜です!!」


 過去の悪行を赤裸々に明かす悠雅と花鈴に瑞乃は既に涙目だ。が、花鈴は手を緩めない。


「そう怒らないでください瑞乃お嬢様。ああでも、わたくしが大切にしていた贈り物の人形を隠したのが悠雅にバレて叱られた時は流石に、ざまあみろって思いました」

「ざ、ざまあ!? 私一応貴女の雇い主何ですけど!? わかってますか!?」

「ありがとうございます。大変感謝しております」

「うう、皮肉られてるとしか思えません……」

「花鈴、アンタ結構良い性格してるわね」

「お褒めにあずかり光栄ですわ」

「うん、ほんっと良い性格してるわ。それにしても、瑞乃も案外可愛い悪戯をするのね? アンタのことだからもっと陰湿な嫌がらせをすると思っていたわ」

「私のことをなんだと思ってるんですか!?」

「性悪なちんちくりん?」

「ぶふぉっ」

「しょ、性悪!? ちんちく……!? 謝罪を要求します!! 後、花鈴さん今貴女、盛大に吹き出しましたね!?」

「いえ、そのようなことは決してございません」

「もう、もうもうもーう!! みんな寄って集って私をいじめて楽しいんですか!!」


 いじけたようにそっぽ向く瑞乃に、アナスタシアもまた堪えきれず吹き出してしまう。


「だってアンタの反応面白いんだもの」

「だからってそうやって虐めるんですか? 最低です!! 貴女の方が陰湿です!! 性悪なたぷんたぷんです!!」

「そうよ性悪よ? それも過激派なね」


 振り袖に締め付けられて尚、存在を主張する胸を瑞乃に向けてこれ見よがしに見せつけるアナスタシアは、少年が誇るように武勇伝を語り出す。


「私の悪戯はもっと過激だったわ。メイドの服の中に大きな蛙を忍ばせたり、お姉様の大切にしていたオルゴールを盗んだり、お父様が集めてたカメラを持ち出したりしてたもの。極めつけはそう――」

「――遊び相手だった侍医の息子の尻の穴にダイナマイトを突っ込んだり、か」

「そうそう――って、なんでアンタが知ってるのよ!?」

「鳴滝さんはなんでも知っているのだ」


 何やらしたり顔で胸を張る克成にアナスタシアは驚いているようだが、つい今しがた彼が口走った言葉が衝撃的過ぎて悠雅たちはそれどころではなかった。


「お、同じ女性としてどうかと思います!! 殿方の……そ、そそその、お、おおおおしり……に」


 瑞乃は尻すぼみに罵倒し、花鈴に至っては聞かなかったことにしたらしく両耳を抑えている。


「……お前それ、火をつけて無いだろうな?」

「つけてないわよ!? 流石に危ないと思って火気にはすごい気を遣って、庭の池の前でやったんだから!!」

「危ないと思ったんならそこでやめろよ……。というか、そいつは外でそんな惨いことされたのか……」


 悠雅は思わず目頭を抑えた。

 男が歳頃の女に無理矢理浣腸させられる。自分だったら一生物の傷になっていたに違いない、と会ったこともない男に同情の念を禁じ得なかった。


 凄まじく下品な話に花を咲かせていると、先導していた花鈴が立ち止まった。


「皆様、そろそろ切り替えて下さいませ。ここが御当主様のお部屋になります」

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