金魚鉢 4


 放心しかけの宴を現実に引き戻し、栞を訪ねた目的である白い物体について翔が尋ねると、栞は神妙な面持ちで頷いた。


「なるほどですわ。眠りから覚めない少年少女。夜に漂う白い物体……。時間帯は夜限定ですの?」


「僕が見たのは夜だったけど、どうだろう。昼間もいるのかな。宴さんは日中に見たことある?」


「ううん。私も夜にしか見たことない。でも、私があの公園の近くを通るのは習い事がある日の夜だけだから、もしかしたらお昼にもいるのかも」


「場所はその公園付近だけですの?」


「それも夜かどうかと同じで、少なくとも僕が見たのは公園付近だけど他の場所にもいた可能性はある」


 うーん、と栞はますます眉根に力が入る。

 翔と宴は 調査不足を悔いた。


「その……白い物。ふよふよした物って言ってましたけど、もっと情報はないんですの? どのようなものに見えました? 私が栞であるように、芥楽のモチーフになったものと関連付けられれば、もしかしたら」


「花?」

「金魚?」


 翔と宴が同時に答える。

 わずかに栞が考え込むような仕草をする。「花、金魚、……眠り、」とぶつぶつ呟き、それから何かに気付いたような顔になり、次にその表情が曇った。


「……ひとつ、可能性があるものがありますわ。でも、これは……」


「何? どうしたの?」


「お二人とも、よく聞いてくださいまし。それは金魚鉢・花冠(はなかんむり)と呼ばれるもので、本来の使用方法ではないーー禁忌とされる使い方をされている可能性がございます」


「……えっ?」


 翔も宴も、栞の言葉に耳を疑った。禁忌って? と翔が尋ねる。


「金魚鉢は、お見舞いの花に願いを込めたことから生まれたものです。花が病人や怪我人の心の癒しになるだけでなく、実際に少しでも治癒の助けになってほしい。その願いを受け、見舞いの花は金魚となって夜の街を泳ぎ、眠る人々から少しずつ生気を集めて回る。普通に使う分には、生気を取られてしまった人にたいした影響はありません。せいぜい、半刻ほど睡眠時間が減った程度の影響です」


「間違った使い方の場合は……?」


 尋ねる宴の声が震えていた。


「むりやりにでも使用をやめさせないと……。強制的に眠らせたまま、生気を奪い続けます。今の医療技術でどうかはわかりませんが、昔は―—命を奪うと、言われていました。でも一方で、使用を止めさせれば治癒の対象者が……危険な状態に陥るかも知れません」


――とゅるるるるるるるるるるるるるるるる


 突然鳴り響いた電子音は、電話の着信音だった。翔のスマホのものではない。


 宴がごめんねと断りを入れて、慌てた様子で鞄からスマホを取り出し、扉の向こうに消えていく。「もしもし、お母さん? ごめんいまちょっとーー」と応答する声が聞こえた。


 翔は扉が閉まってから、栞に尋ねた。


「……間違った使い方ってどんな?」


「普通は赤い花を金魚鉢に生けますが、禁忌とされるのは白い花を用いることです」


「白い花を使って、白い金魚ってことね……。金魚から金魚鉢の場所って辿れるのかな?」


「さあ、どうでしょう? 金魚が帰るところを追いかければもしかしたら……。それか、人形ならわかるかもしれませんわね。ミカゴの主さまの学校にいますでしょう?」


 翔は呻く。確かに翔の高校には、芥楽のひとつである人形が生徒に扮して通っている。


「うーん。いるねけど、頼みにくいなぁ」


「顎で使えばよろしいのですよ、人形なんて」


 栞はさも当然という言い草である。

 と、そこへ通話を終えた宴が戻ってきた。ごめんね、と謝りながらイスに座る。


「……お母さんにご近所ネットワークで聞いてもらってたんだけど、昨日、やっぱりひとり目が覚めない子が増えてたんだって。小学生の子で、あの、白いふよふよが消えた場所とだいたい同じ辺りの子みたい」


 宴は、「あ、白いふよふよを見たことは言ってないよ」と付け足した。


 翔は、

「ご近所ネットワーク、すごいね」

 と驚き、同時に白い物体が事態を引き起こしていることに確信をもった。


「……籠倉くん、私ちょっとお母さんに頼まれごとをされちゃって。申し訳ないんだけど、今日は先に帰るね」


「あ、うん。わかった」


 宴がイスに置いていた荷物を持って立ち上がる。

 扉を出て行く宴の背に、翔は尋ねた。


「宴さん。今日の夜、また八時に公園で待ち合わせできる?」


 振り返った宴が困った顔をする。


「……ごめん。今日は……行けないと思う」


「そっか。じゃあ、またね」


「うん。ごめんね。さよなら」


「さよなら」


「ごきげんよう」


 立ち去る宴を見送って、翔は栞に尋ねる。


「ねぇ栞ちゃん。もういっこ教えて。その禁忌とされる使い方をしてる人がもし――協力的で、むりやりじゃなく使用をやめさせることができるとしたら、どうすればいいの?」



     *



 その日の夕方、金魚鉢の持ち主は憔悴しきっていた。窓の向こう、レースカーテン越しに陽が山に沈んでいくのが分かる。


――また、夜が来る。


 夜が来るとはつまり、金魚鉢に生けた白い花がその姿を金魚に変え、夜の町へ泳ぎ出すことを意味していた。今夜もまた、金魚たちは眠らせ続けている人間から生気を回収し、生きの良い次の獲物を探すのだろう。


 ある人物から金魚鉢を譲り受けたときの言葉を、現在の持ち主は思い出す。


「――何があっても、この花瓶から白い花を取り出してはダメだよ。取り出したら、君の弟は無事ではいられない。弟さんは意識不明の重体なんでしょ? 助けたいなら、何があっても、絶対にこの花瓶に白い花を生け続けるんだよ。いいね?」


 不思議と、金魚鉢を譲ってくれたその人自身――年齢や容姿――に関する記憶はあいまいでぼんやりとした印象しか残っていないが、言葉だけは、はっきりと耳に残っていた。


――あの人は、これを金魚鉢ではなく花瓶と言っていた。金魚鉢だと知らなかった? それともわざと?


 今となってはどちらでもよいことだと、金魚鉢の持ち主は思う。金魚鉢だと知らずに見れば、どちらかと言えば花瓶の方が見た目は近いだろう。うすい青緑色のガラス製で縦に細長く、口の部分だけが強いて言えば金魚鉢っぽく――一旦すぼまり、縁がひらひらと波打っている。


 ともかく自分は事故にあった弟を助ける為にこれを使用し、無関係の人間を命の危険に晒している。


 止めなければならない、と思った。

 止められるわけがなかった。


 弟はまだ、意識も戻らないまま入院中で、わけのわからないチューブをいくつも付けられ、今日見舞いに行った際も、どこか儚げな、いつ終わるとも分からない命をか細い糸で繋いでいるような、そんな姿をしていたのだ。


 けれど、だからといって、無関係の人間を命の危険に晒しても平気でいられる程、冷徹になれるわけでもなかった。


――止めなければならない。止められるはずがない。日が沈む。もうすぐ夜が来る。止めなければ、


 こつん。


 唐突に、目を向けていた窓に何かがぶつかって落ちた。正しくは、投げられたというべきか――。いたずら? と疑う。ここは二階だから、誰かが物を投げたりしなければ、何かがぶつかることは考えにくい。


 こつん。


 また、何かが投げられて、音を立て、落ちて行った。レースカーテン越しでは、はっきりとは見えなかった。


 金魚鉢の持ち主の心に、恐怖心が湧く。警察か、何か似たようなものが自分を捕まえに来たのではないか?


 何かごそごそと物音がする。


 とにかく逃げよう、持ち主がと金魚鉢を手に取ったとき、窓ガラスに人影が現れた。


「……!!」


 人影が窓をノックし、金魚鉢の持ち主の名を呼んだ。


「うーたーげーさん? いる? あーけーてー!」


 呼ばれた宴が恐る恐るレースカーテンを引くと、


「か、籠倉くん……」


 そこに居たのは籠倉翔だった。


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