未踏破エリア編
第19話 船上の閑談・存在の強さ
そもそも、ゼヴェス王国の背後、未踏破エリア近辺において、港と呼ばれるものは存在していない。せいぜい、釣り場としての堤防があるだけで、そこも随分とさびれている。それもそうだ、魔物が多い海とわかっている傍で遊ぶ馬鹿はいない。
どういうわけか、彼らが到着した時には既に、船舶が泊まっていた。二つに見えるが、後部のは曳航用か。
「来たぞ」
純一郎が声をかければ、船舶からひょいと顔を見せる女性が一人。
「はいはい――あれ? なに、
「似たようなもんだ」
「あ、そう。私はシュリ・エレア・フォウジィールよ」
袴装束、腰には小太刀が二振り。小柄な体躯だが、しかし。
「名前を呼ぶなら気をつけろ、縁ができる。名乗りは――まあ、シュリが相手なら大丈夫だ」
「縁ができると、どうなるんだい?」
「〝次〟ができる。この場限りじゃなく、これから出会う相手は全部そうだ。簡単に言うと、海を渡ろうと思うたびに、シュリが迎えに出てくる」
「はいはい、とりあえず乗りなさい。後ろね」
出港は早かった。ぐんぐんと離れていく陸地が見えなくなった頃、少しだけ怖さが浮かんだけれど、諦めもついて。
「到着までは、二日くらいかかりそうよ」
「あ、そう」
「――失礼、僕はそもそも聞いたことすらないんだけど、この仕事は長いんですか?」
「そりゃ長い分類に入るけど、なに原茂、何も話してないわけ?」
後部に跳躍して移ってきたシュリは、そのまま帆を半分だけ上げた。
「話す? これから幽霊船に乗って、あっち側に行くって?」
「え? これ幽霊船なの!? あたしらが途中で落ちたりしないよね?」
「船が消えることはねえよ。蹴って落とされることはあってもな。勘違いするな、シュリは妖魔じゃない」
「人間でもないけどね。何年生きてるか、はっきりとわからない。こうやって縁が合えば、私はいつの間にか船の用意をしてる。それ以外の時間はまったく覚えがないくらいに」
「覚えがない……あなたは、いや、シュリさんは、心当たりが?」
「あるよ。あるけど、どちらかというと、運が悪かった。旦那はいないし、娘の方が特異性が高かったけど、こうしてるのは私だけ。でもね魔術師、過去のことを私に聞かない方が良い」
「何故?」
「私が生きていた頃、■■は■■に■■■ていた」
その言葉が放たれた時、純一郎は顔を歪めた。
だがほかの三人は、躰を抱え込むよう腕を回して、文字通り震えあがる。
全ての言葉を凝縮したような異音。百人いたら百人が認めるほど、生理的嫌悪を本能が示すような不快な音により、言葉が耳に届かない。
「おえ……」
雪花は気持ち悪さに、思わず船のふちに手を当てて、海面を覗きこむよう上半身を外へ出す。なぎさも吐きそうになって、なかなか呼吸が再開できない。
「い、今の、は……?」
「世界が禁止してるから、こうなる。といっても、ストレートに言わずに迂遠な方法で教えることも、まあ、可能なんだけど、私はやらない。そういうことを専門にしてる〝
「――世界か」
「二時間後くらいに嵐が来る。それまでに、海に慣れておきなさい。原茂も、肩の力を抜いたら?」
「そうだな」
「ん、何かあったら対応なさい」
ひょいと、また前の船へ移動した。
「前に移動はするなよ。あいつを怒らせると、後が怖い。小太刀二刀じゃ、俺に匹敵する――いや」
客室の壁に背中を預けた純一郎は苦笑して。
「たぶん俺じゃ敵わない。本来、俺が雨天ならば、間違っても口にしちゃいけないんだけどな……」
「そういえば聞いてなかったけど、純一郎の武術っていうのは?」
「雨天とは、あらゆる武術の原型であり、頂点だ。対武術の戦闘において、敗北の許されない流派だな。俺はそこを目指してる」
「その純一郎でも、彼女は厄介だと?」
「かつて、源流の雨天に師事したことがある、気分屋だ。そりゃ厄介にもなるさ。そろそろ落ち着いたか?」
「まあね」
「じゃ、俺も肩の力を抜くぜ」
今度こそ。
三人はその場に立っていられず、腰を落としてしまった。
――威圧だ。
いや、存在の強さと呼ぶべきか。
学校の教室で、たとえば工作をしていた時、ふいに目に留まる人物がいる。楽しそうだったり、上手かったり、理由はそれぞれだが、目を引く――それが、存在の強さだ。時の英雄などは、そういう資質を持っている。
誰もが、通り過ぎる前に顔を向けてしまうような、存在感。
気配の強さでもある。
「――それが、普段の純一郎なのね?」
「おう」
人間は、気配を消すことはできない。何故ならば、そこに存在しているからだ。
だから隠密行動をする場合は、気配を隠す。呼吸制御、心音制御、行動制御、視線制御、その精度が高ければ高いほど、見つかりにくい。
純一郎は、ずっと気配を隠していた。
何故ならば、あまりにも目立ちすぎるから。
そこに存在するだけで、周囲に威圧を与えてしまうほどに。
「最初の課題だ。このくらいじゃねえと、あっちじゃ何もできないからな」
なぎさは大きく、深呼吸をした。
躰の内側から出てくる震えが止まらない。人間一人が見せる威圧が怖いからだ。
――こういう時の対処は、とっくの昔に教わっている。
「恐怖は一番最後に訪れるものです。あなたをそう育てました。手持ちの武器はない。弾丸は尽き、銃は壊れ、ナイフは折れ、周囲を見ても何もなく、残ったのは己のみ。しかし躰が震えて何もできそうにない――典型的な〝最悪〟です。視野狭窄が始まり、できることもできなくなる。だから、原点に戻りなさい」
訓練教官でもあった母親の言葉は、一言一句、聞き逃せない。
今までの訓練を思い出せ。経験を、知識を、その少しの自信を取っ掛かりにしてもっと深く、もっと最初、もっと原初――それは、なぎさ自身を構成する要素。
血肉だ。
己を構成する最も重要で、見逃せない要素。
陰陽混じりの自分。
人間と、妖魔。
オモテとウラ。
「違うな、そいつは
「――」
裏と、表ではなく、螺旋。
結果的にそれは、表裏になるだけであって、入り混じってぐるぐるとそれは回る――ああ、なるほど、しっくりきた。
二つの線が絡み合ったドリルのようなものだ――。
いつしか瞑っていた目を開けば、先ほどのような怖さはなくなっていて。
「なんとかなるものね」
立ち上がれば、躰の軽さも感じられる。
「思った通り、コクロウの血か」
「あら、それは母さんの?」
「妖魔は現象だが、魔物から発展する場合もある」
「見た目に変化でも?」
腰に手を当てて振り向けば、
「……なによ?」
「俺の気配を感じないなら、お前も同じ気配が出てるってことだろ。それと目が赤くなってる、コクロウの典型的な目の色だ」
「身体感覚は変化ないけれど……」
「現状は人間寄りだから、問題はない。ないから、しばらくそのまま馴染ませろ」
「ぬう……」
「簡単にやられると、僕も多少は焦るね」
「一足飛びをしたようなものだ、馴染むのには時間がかかる。逆に積み重ねれば、それはもう馴染んだものだ。焦る必要はない、とにかくこっちの気配に慣れろ。あと、船の上にもな」
「三半規管は丈夫なんだけどねー」
ナイフを戻したエルシアも、吐息を落とすようにして小さく笑った。
「なによう」
「いいや。雪花、水平を保とうとするのは悪くないけど、足元よりも地面を意識した方が良いよ。
「地面に立っていて転ぶことはないだろう?」
「そりゃそうでしょ、水みたいに沈まないし」
「船の上は足場があるけどね。波で揺れても、海の底にある地面が揺れるわけじゃない。そこを意識してれば、とりあえずは大丈夫だ。あとは海に落ちた時の心配だね」
「そりゃいい、ちゃんと心配しとけエルシア。転んで落ちるならまだしも、尻を蹴り飛ばされて落ちることもある。――気まぐれに、な」
「諒解、シュリさんには逆らわないようにしておくよ。ところで、海の妖魔への対策は?」
「出現してから、早く片付けろと言われるぜ」
「やれやれだ……」
ぐるりと周囲を見渡しても、陸地は見えない。
「楽観視はしていなかったけど、暗雲が立ち込めたような気分だ」
「釣りでもするか?」
「それもいいけどね、そっちの一挙手一投足が、どうしたって気になる。今は警戒しないよう、あえて抑制している感じだね。慣れるには時間がかかりそうだ」
「安心しろ。――この程度じゃ、済まない」
「笑えないね」
「……でも確かに」
呆れたように、雪花は言う。
「今のあんたは、エイレアさんより怖いね」
「あいつが小者だったってことだ」
「なんか泣きそう」
「それはいいね!」
「あんたが喜ぶな! エルシアあんたサディストでしょ!?」
「そうだよ、その通り。女の子の泣き顔は大好物だ。自分で泣かせると余計に良い、慰めるのも僕だけどね」
「こいつ最低なんだけど!?」
「あら、せつとの相性は良さそうよ?」
「うっさいばーか! ――あれ? 眼が黒に戻ってるよ」
「あらそう。気配は?」
「強いまま」
「魔力がちょっと安定しないのよね。安定するまで術式の使用は避けた方が良さそう。エルシア、どう見る?」
「人間の気配は、基本的には無意識に
「供給に対する需要?」
「あるいは、需要に応じる消費だね。けれど、術式の使用を避けるのには賛成だ。何が起こるかわからない」
「そう」
果たして。
何が起こるかわからないのは、今なのか。
それとも、これからの話か。
まだ大陸は見えず、帰る場所も行く場所も見えない海の上。
小さな船上にて、広すぎる海の実感を得るのが、目の前に訪れようとしている問題だ。
気付くのはもう少し先のことである。
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