第18話 月見酒の閑談・今までとこれから

 真月しんげつと呼ばれる黄色の月は、下弦かげんの形を作っていた。

 空を見上げれば黒、つまりは夜空。そこに浮かんでいる月はそこに在るだけなのに、あえて真の月などという表現をするのは、かつてこの空の上に、紅月こうげつう紅色の月が浮かんでいた名残りである。

 それがいつ消えて。

 果たして、いつ見えるようになったのかを知る人間はいないし、であるのならば真月などという呼び方をする者もほとんどいない。玖珠くす純一郎じゅんいちろうだとて、そんな頃もあったと、そんな昔話を聞いているに過ぎなかった。

 手元の小さな器に映りこむ月から、眼下に広がる水場に映った月を見比べ、ゼヴェスの地酒と称された、度数が高くて辛い酒を僅かに喉へと通す。

 高い位置にある岩場。

 純一郎と背中合わせに座る女性は、前合わせの着物、和装、和服。だが着崩し、いや服が乱れ、むしろ乱雑な、明らかにはだけて、酔ってはいないのに肩も出ているし、胸元すら危ういほどの露出を、さして気にした様子もなく、あぐらを組んで嬉しそうに酒を飲む。

 月光に照らされた白い肌、かわいらしさは見当たらず、肩にもかからない短い髪はしかし、正面からその顔を見れば。

 前髪が両目を隠している。

 風に揺らされれば、間違いなくその瞳は存在して、酒を楽しんでいると一見してわかるのに、隠すことこそ本義だと言わんばかりの姿。


 彼女の名を、隻眼せきがんう。

 純一郎の中に存在する妖魔だ。


 現存する雨天流の武術家は、いない。

 それは純一郎が雨天を名乗らない理由でもあるし、源流が断たれた今、あとは途切れた川の水をすくうよう、拾い上げるしか、雨天を目指すことは不可能だ。

 そして、雨天の技術を知る妖魔は、――二人しか残っていない。


 どこにも所属せず、かつては狐と世界を二分したと謳われる百眼ひゃくがん。その影響力は今でもなお強く――雨天の源流、いや、原型である人物の傍にずっといたそうだ。とても、とても長い時間を。

 その眼の一つであり、雨天の家系において鬼才と謳われた者の傍にいたのが、この女――〝隻眼せきがん〟だ。


「おい、飲み過ぎるなよ」

「何を言う。一本くらいで酔いはせん」

「俺が酔うだろうが」

 契約が結ばれているわけではない。

 屈服させて、服従させたわけでもない。

 ただ。

 純一郎の中の空白を、隻眼が埋めているだけ。

 彼女の存在もまた、純一郎そのものだ。

「良い夜だから、多少はいいけどな」

「うむ。しかしまあ――賑やかになったではないか」

「予想外か?」

「いずれこうなるだろうと、私は考えていたがな。こちら側も、おおよそ一年か、原茂はらしげ

「だな。あっちこっち行って回って、最後に闘技場の舞台に立って、まあそこそこだろ」

「そこそこ、なんだ?」

「楽しめたってことだ」

「見聞を広めるのは悪いことではあるまいよ。お主は鍛錬ばかりだったからなあ」

「見聞を広めたって、見えてくるのは己の身熟ばかりだ」

 だから、こんなキツい酒が身に染みる。

「何故、連れていく?」

「不満か?」

「いいや、疑問だとも」

「面白いと思ったからだな……ま、世話になった部分もある。それに、お前らからしたら、人間の侵攻を待ちわびてるところだろ?」

「私ではなく、あやつらだろうに」

「現状はともかく、どの程度の可能性があるのか、それを知りたいのは俺もだ。だったら伸びしろがあった方が良い。――ただ」

「うむ。お主はまだ、自分のことで手一杯だろう」

「俺は俺が雨天であることを目指す。まだまだ足りないところだらけだ」

「それは私が一番よく知っておる」

「だろうよ」

 常に、そんなことを考えているわけではない。

 どうであれ、純一郎はその道から外れることがないだけだ。

「プランは? 多少は考えておろう?」

「船乗りがどこに下ろすのかにもるな。運が良ければ、もみじのところ」

「ほう、あやつならば、まあ、比較的安全か」

「馴染むまでは時間を要するだろうが、俺は俺でやりたいこともある」

「しばらくは状態維持の鍛錬ばかりだったからなあ……む、おい」

「追加はねえよ」

「ちっ……」

 こちらは小さな器なのに、隻眼は皿で飲んでいる。ペースも違うし、一本くらいすぐ終わるだろうに、我慢を知らないからすぐなくなるのだ。

 これでも。

 ほかの妖魔と比べれば、隻眼は我慢する方だが。

「さてはお主、とっておきは残しておくつもりだな? こんな良い月夜なのに?」

「うるせえな、蛇さんへの土産まで飲むつもりかよ」

「お主はあやつに甘すぎる」

「妬くなよ、世話になってるからしょうがねえし、文字通りの蟒蛇うわばみだからな」

「私で我慢せんか」

「俺じゃねえか」

 空いていた左腕を掴まれ、そのまま胸元にずぼりと入れられるが、純一郎は反応しない。だって文字通り、彼女は自分そのものだから。

「詰まらん!」

「楽しんでどうする……」

 すぐ手を引き抜く。

 口にはしないが――純一郎にとって、背中合わせで充分なほど、存在を感じていられるのだ。

 それこそ、安心してしまうくらいに。

「おっぱいの小さい小娘は、似たような道だな」

「まだ武だ、あれは術じゃない」

「だが徹底のされ方が上手い。ひとたび術に踏み込めば、あれは化けるぞ」

「乱暴なところがどうにかなりゃな」

「そして、おっぱいの大きめの小娘は、妖魔の血が混ざっておる。あちら側での影響力は未知数だが、馴染んだ先はわからん」

「そうだな」

 わからない。

 不明であること。

 それが一番恐ろしいものだと、純一郎はよく知っている。

「その点、あの小僧はわかりやすい。アレは魔術師だ」

 一言で尽きる。

 もちろん、その言葉に含まれる厄介さも凝縮して。

「三人揃えたところで、まだお主には届かんが」

「俺と比較してどうする。そもそも、が違う」

「であるのならば、妖魔わたしと比較するのもおかしな話だ」


 そもそも、生きてきた時間が違うのだから。


「月が綺麗だな……」

「納得したわけではないと、そう顔に書いてある。だが、ようやくお主も私を口説く気になったか」

「あ?」

「ん――ああ、そうか、知らんか。昔は、愛しているという意味合いで、そんな言葉を使った」

「へえ……気持ちの入ってない言葉じゃ、お前には届かないだろ」

「私はこれでも女だ、嬉しく思うこともある」

「そりゃ配慮が足りてなくて悪かったな」

「ははは、お主に配慮なんぞ期待しておらん。女が苦手になったのは、狐や猫が原因だからな」

「特に猫目ねこめだ、あれはよくわからん。覗くなと言うから行かなかったのに、何故来ないのかと怒られて、じゃあと行けば行ったで殴られる。俺が湯につかってる時には、平気で入ってくるくせに、なんなんだあれは……」

「それが女だ」

「抱いても奪われるだけだしな」

「それは妖魔だからな。人間の女と比べるのは酷だろうて」

「じゃあなぎさには黙っておく」

「なんだ、あの女が好みか」

「月が綺麗だと言うほどじゃないさ。妖魔の血に惹かれてる可能性もあるからな」

「冷静であるうちは、まだまだ」

「感情を揺らさないのが対妖魔の鉄則なら、人間に対しては逆か?」

「そうでもない」

「だろうな」

「くく、少しは悩んでやれよ、原茂はらしげ。そういう態度が好ましくもある」

「共通してんのは、どうであれ女ってのは面倒だってことだ」

 手元の器にある酒を飲み干して。


「抱きかかえりゃ柔らかいのもわかるが、そんな隙のある女じゃない――」

 いつしか、背中にあった気配も消えていて。

「――追加はあるのか?」

「ああ、うん」

 代わりに、エルシア・シルヴィエーラがそこにいた。


「術式か」

「さすがに、普通に登ったら気付かれるだろうから……と、思ったんだけど、どっちにせよ同じか。まだ飲むのか?」

「いや、ストックしておく。今日も一本空けただけだ」

 厳密には、純一郎は小さな器で一杯だが。

「一人で?」

「俺だけだ。今日は月見酒、そういう気分でな……」

「ああ、確かに今日は、明るいね。これからのことを思うと、落ち着きはしないよ」

「お前は来るのか」

「僕だけじゃない、なぎさもだ。目的は違うんだろうけどね」

「その〝目的〟とやらを、一年で忘れちまわないようにな」

「脅すねえ」

「一年もすれば、常識を覚えることもできるだろうって話だ」

「――生きていれば?」

 差し出された二本の酒瓶を受け取れば、その顔は苦笑になっていて。

「まあな」

 純一郎は酒をそのまま、内側に取り込むようにして消した。

「僕が使ってる〝格納倉庫ガレージ〟の術式とは違うみたいだ」

「効果は似たようなもんだろ。じゃ、どうするか聞いておいてくれ。このまま向かうか、それとも一ヶ月の期間まで待つか」

「諒解だ」

 けれど。

「誰かいたように感じたんだけどね」

「そうか?」

「いや、まあいいよ。ただ、一つ教えて欲しいことはある」

「ん?」

「おそらく、純一郎は僕たちに合わせることになるだろう。その期間が長いか短いかは、まだわからないけれど――それでいいのかい?」

「面倒を見ることは嫌ってねえよ。じゃなきゃ誘わない。それに……」

「それに?」

「嫌になるのは、俺じゃなくてお前らの方だ。行けばわかる。手を貸すし、安全な方法を考慮しているが、それでもと思える何かがあるなら、それに越したことはないさ」

「……やれやれ、怖いねえ」

「世の中に、怖くねえ場所があるってのは、こっちに来て知ったよ」

 言えば、ひらひらと手を振って、エルシアは下へ降りて行く。

 空いた酒瓶と、器を片付けた純一郎は、軽く酔った心地よさを感じながら、改めて月を見上げた。

「毎日、陽光があって、月が見える。俺も初めて、こっち側に来て知ったよ。お前らにとっては常識だってこともな……」

 こんなにも、世界が明るかったのだと。

 純一郎はそれを知って――明る過ぎると、そう思ってしまったのだから。

 やはり、あちら側の人間なのかもしれない。



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