でもじゃなくて、だからと言って。

樹一和宏

でもじゃなくて、だからと言って。

 トンボが煌めく川に心奪われて、水面に近づいては離れてを繰り返す。人間のように互いの距離を測っているようだった。夕日に白く反射する川に心惹かれるトンボの気持ちは分からなくもない。


「ねぇ、また跡付けていい?」


 は今日も猫みたいな声で僕の耳元で囁いた。


「やめてよ。学校で誤魔化すの大変なんだから」


 僕の背中に覆い被さるようにしていた美沙がもぞもぞと動き出す。制服が乱れることも気にしないで、太股が、胸が、学ラン越しに自身の柔らかさを主張してくる。


「本当にやめてほしいなら本気で抵抗すればいいじゃん」


 そうして美沙は僕の首に唇を押し付けてきた。匂いをかがれて、舐められて、吸われて。僕は目をつぶって、襲いかかってくる快感を拒絶しようとした。でもそんな微々たる抵抗は僕の中のあらゆる壁をいともたやすく突破して、頭を麻痺させていく。やったことはないけど、アブナイ薬というのもこんな感覚なのだろうか。

 僕の口から息が漏れてしまうと、美沙は調子に乗ってしまう。僕を押し倒して、勢いを増していく。薄めで目を開けると、高架下の無粋なコンクリートが見えた。電車が通って、体を揺さぶるような大きな音が響いた。でも美沙はそんなことも気にせず、いやそんな音も聞こえていないようで、夢中で僕の首を吸い続けた。僕の息が乱れ出すと、ようやく美沙は顔を上げた。


「やめてほしい?」

「うん」

「やだ」


 美沙は優越に満ちた笑い方をすると、今度は僕の耳を舐め始めた。頭に直接響く艶めかしい水の音。僕の体が強張ると美沙は薄く笑い、頬を舐め、再び首を吸い始めた。


 ※


 美沙に解放されたのは、日が沈んでからだった。


「またね」と美沙が手を振って去って行く後ろ姿に、僕は何も声を掛けなかった。


 家に帰ると僕は真っ先に洗面所に向かい、鏡で首を確認した。あの野郎、と一人ごちてしまうほど、紫色の斑点が幾つもできていた。

 居間に電気は点いていなかった。壁のスイッチを押して照明を点ける。テーブルの上には冷めた料理が並んでいた。母さんは今日、夜勤のようだ。

 食欲の欠片も湧かない僕は、ラップの掛けられた晩ご飯をそのまま冷蔵庫にしまうと、部屋へと戻った。

 玄関の時点で既に分かっていたことだが、こうはまだ帰ってきてはいなかった。

 バックを放り投げ、学ランを適当に椅子の背もたれに掛けると、二段ベッドの下に倒れ込んだ。外の街灯が磨りガラス越しに部屋に差し込み、ぼんやりと部屋を照らしていた。

 目をつぶると脳裏に浮かんでくるのは、夕方に美沙と会っていた時のことだった。半分溶けた目。制御を失いかけてる呼吸。寝ようと思っても無意識に再生される出来事。

 最近、名状しがたい黒い感情が僕の中で渦巻いている。焦燥に似ていてるが、嫉妬にも似ている。やり切れなさにも近い、黒い渦だ。いくら溜息を吐いても、それは僕の中から抜けていくフリだけをして、ずっと留まっていた。


 ※


 航太の周りにはいつもいろんな人がいた。

 僕たち双子はどちらかがスポーツが得意で、もう片方が勉強が得意というフィクションでありがちなことはなかった。航太はスポーツも勉強も出来て、僕はスポーツが苦手で勉強が少し出来た。

 呼ばれるのは僕じゃなくて、いつも航太の方だった。中学の野球のレギュラー発表の時も、カラオケの誘いも、美沙がウチに遊びに来た時も、僕は隣にいたのに、いつも視界の端にいて、添え物扱いだった。


「四番、がみ航太」「航太カラオケ行くっしょ? 晴太せいたはどうする?」「あ、晴太、航太いる?」


 でもそれはしょうがないことだった。僕のせいではないし、誰のせいでもなかった。強いて言うなら航太のせいだ。航太は何でも出来た。廊下にテストの順位が張り出されれば必ず上から三つ以内にいたし、体育の授業で球技があれば皆頼りにしていた。スポーツ万能、成績優秀という奴だった。性格だって気さくで面白い奴と人気があった。だから正反対の僕からしてみたら航太は別次元の人間だった。とは言っても特別仲が悪いってことはなかった。どちらかと言えば良かったはずだ。二人で出掛けることだってあった。僕だって嫌いではなかった。でも100%好きかと訊かれれば、頷くことは出来なかった。

 日陰者の僕としては脚光を浴びる航太が妬ましく思うことは何十、何百、何千、何万回とあった。比較されて嫌味を言われることだってごまんとあった。


「えー晴太の方かよ」「航太なら出来んのになー」「双子のくせに差があり過ぎね?」


 脳裏に過る言われた台詞の数々。誰も僕のことを見てくれていなかった。航太越しに僕を見ていた。

 やめてよ。航太と比べないでよ。僕は僕なんだ。僕と航太は違う人間なんだ。ねぇ、やめてよ。

 クラスメイトが航太の名前を呼ぶ。好きな人が航太の名前を呼ぶ。美沙が航太の名前を呼ぶ。次々と呼ばれる名前の中から、僕は僕の名前を探す。誰か、僕の名前を呼んでよ。誰か、誰か、誰か、誰か。


「晴太!」


 突然声を掛けられてハッとした。部屋の入り口に母さんが立っていた。


「あんたまた遅刻するよ。昨日の晩ご飯も食べないで、朝はそれ食べてってよ」


 僕の気のない返事に、母さんは不機嫌に部屋を出て行った。部屋を見渡すと、あの気怠さを含んでいた薄暗さは、朝の日差しに浄化されて塵になってしまっていた。

 上のベッドを覗いてみたが、やっぱり航太の姿はなかった。もしかしたら先に学校に行ったのかもしれない。僕はシャワーを浴びて、昨日の夕飯を食べると、学校へと向かった。

 教室に入ると、クラス中の視線が一斉に僕に向いたが、それはすぐに見慣れた光景と処理されて、皆の視線はすぐに正面へと戻った。担任の山岡も「晴太、またか」とだけ言って、帳簿に印を点けるだけで、それ以上は何も言わなかった。

 航太の席を見ると期待してはいなかったが、やっぱり空席だった。僕は席に着くと、すぐに顔を伏せた。


 ※

 

「聞いたよー、また遅刻したんだってー?」

「美沙には関係ないでしょ」

「冷たいなー、これでも心配してるんだよー?」


 昼休みの屋上は開放されている。他の高校に行った奴らに話すと皆口を揃えて羨ましがったが、うちの学校では当たり前のことで有り難みも面白みも消え失せてしまっていた。だから態々階段を上って風の強い屋上来て昼飯を食べる人も、遊ぶ人もいないに等しかった。

 僕達がこうして屋上に上がっていく姿を見られても誰も不思議がらなかったし、逆に僕達二人しかいないことも不思議ではなかった。

 美沙は当たりを見渡すと「ねぇ、いい?」と植物の蔓のように腕に絡んできた。


「よくない」僕の答えなど、美沙には関係ないことは分かっていた。


 美沙が慣れた手つきで指を絡めてくる。


「だから駄目だって」

「いいじゃん。ホントは嬉しいくせに」


 美沙が蜜のような甘い声を耳の穴の中に垂らしてくる。

 嬉しくないわけじゃない。ただ美沙が僕に甘えてくる度に、性欲と一緒に虚しさや切なさが去来してくるのだ。

 いつものように僕の首を甘噛みしてくる。しばらく美沙の好きにさせていると、学ランの第二、第三ボタンを外され、中に手を突っ込んできた。やがて熱に浮かされたように、乱れた呼吸をし始める。

 今すぐ抱きしめたい。そんな欲求に駆られ始める。だけど、僕はその度に航太の姿を思い描いた。そうすることでたがが外れそうになる理性を嫌悪感で律した。

 美沙は航太の彼女なのだ。美沙と航太はこんなことを何度もやっていたと想像して、吐き気にも似た気持ち悪さに襲われる。

 美沙が首に口づけし、僕の中から理性を吸い出そうとした。


 ※

 

 美沙は幼馴染みだった。幼稚園から小、中、高とずっと一緒だった。でも僕と美沙の関係が壊れたのは、つい数ヶ月前のことだった。

 小さい頃から僕と美沙はいつも航太の後ろをついて回っていた。それが当たり前だった。でも小学校高学年当たりになった頃だろうか。その当たり前に僕は違和感を覚え始めた。航太の隣に僕と美沙がいる。でも僕の隣には美沙はいないのだ。

 中学になって、僕は航太の後ろも隣も歩かなくなった。でも美沙は航太の隣に居続けた。周りにとっても、それが当たり前だった。中二になって、二人が付き合い始めたことに誰も驚かなかったし、寧ろ「ようやくか」みたいな反応が多かった。僕も二人から報告された時、概ね同じ反応をしたが、それでもやっぱり、そこに劣等感を覚えずにはいられなかった。

 それがきっかけとは言わないが、その頃から僕は二人との間に溝を感じるようになった。

 そして数ヶ月前、まだ半袖のワイシャツに夏の日差しが突き刺さっている頃だった。

 航太が家に帰って来なくなった。

 家出をするような奴じゃなかった。友達の家に泊まって帰って来ないことはたまにあったが、三日間も音信不通で、学校にも行かず、帰って来なかったことはなかった。

 親が警察の捜索届を出したのはその翌日のことだった。

 僕は大してショックじゃなかった。生まれてからずっと一緒だったとはいえ、僕と航太は既にかけ離れてしまっていたのだ。僕が一人で勉強して、本を読んで、ご飯を食べている時、航太は誰かと青春を謳歌し、恋に乱舞していたのだ。僕よりもクラスメイトや美沙の方がショックが大きかったようだった。

 それからしばらくしてからだった。僕は美沙と一緒に帰り道の途中にある河川敷に座っていた。偶然昇降口で遭遇して、久しぶりに一緒に帰ろうということになったのだ。

 僕達の間に会話はほとんどなかった。喋っている時間より、川のせせらぎや夏の虫の声に当てられている時間の方が多かった。別に航太と付き合っているから距離を態と取っていたわけじゃないけど、こうして二人だけの時間を過ごすのは思い出せないぐらい久しぶりなことで、以前はどうやって話していたのか、どんな話題で喋っていたのか思い出せなかった。きっとそれは美沙も同じで、時折僕を見ては川に視線を戻すことだけを繰り返していた。

 夕色に変色した太陽が水面に落ちそうになった頃、美沙の方が口を開いた。


「最近、溢れそうになるの」


「……何が?」涙だと思った。航太がいなくなって、悲しくて、哀しくて、泣きそうなんだと思った。でも違った。

 僕が顔を向けたその瞬間、美沙の顔が目の前にあって、目を見開いた直後、美沙の顔は僕の焦点距離の内側へと入り込み、僕は初めて女性と唇と唇をくっつけた。

 少し湿った柔らかな感触と美沙の匂い。視界いっぱいを占領する肌色。現実味を失っていく感覚に、反射的に突き出してた両腕の力が抜けていく。

 無抵抗の僕に許された気になったのか、美沙はそのまま僕を押し倒して、縋り付くように僕のことを求めた。

 その瞬間に悟った。溢れ出しそうってそっちかよ、って。

 性欲を満たすものじゃない。その証拠に美沙は僕の性器には全く興味を示さなかったし、自分の性器にもあれこれすることもなかった。

 ただ寂しさが溢れ出しそうだったのだ。きっと寂しさが溢れたら、どうにかなってしまいそうだったのだ。

 そして航太の代わりが僕だったのだ。

 僕はそれに気付いて、傷付いて、傷付いている美沙が可愛そうで、僕は何も出来なかった。その小さな体に突然無理矢理詰め込まれた寂しさに藻掻き苦しむ美沙の姿はあまりに不憫だった。でも僕にはそれを救うことは出来ない。だって僕は航太じゃないのだから。

 そうこうと惰性を重ねて、僕と美沙の関係は数ヶ月経ち、今に至る。


 ※


 今日の放課後も美沙に付き合っていた。鉛のような雲を腹の中に抱えて、フラフラと家に帰る。家には珍しく電気が点いていた。襖を開けて居間を覗くと母さんがいた。座卓に両肘をついて、うな垂れていた。異様な状況にドライな関係になりつつあるが、流石に声を掛けざるおえなかった。


「どうしたの?」


 僕が声を掛けると、そこでようやく僕の存在に気付いたように母さんは気怠げに顔を上げ、ポツリと語り出した。


「今日、警察の人から連絡があったの」


 母さんの話は一時間にも及んだ。結論だけ述べよう。

 航太は死んでいた。

 心のどこかでは分かっていた。分かっていたつもりだったが、実際にその現実を突きつけられ、それを否定しようもない詳細な情報を提示され、僕も母さんのようにうな垂れるしか出来なかった。夜、改めて空になったベッドを見ると、込み上げてくるものがあった。


 ※

 

 翌日は雨だった。憂鬱な空模様が地上まで降りてきているようで、灰色を帯びた空気は否応にも僕の気分を下げてきた。

 重たい足を引きずって学校へ行くと、どこから広まったか分からないが、既に学年中が航太が死んだ話で持ちきりだった。航太が行方不明になった以降、腫れ物みたいな扱いされていたが、この件のせいでより一層、僕はクラスで浮いた存在になってしまった。

 移動教室の際、チラリと美沙の教室を覗くと、クラスの隅で机に伏せたままの美沙の姿があった。

 その日僕はいちよいつも通りに、昼飯を持って屋上へ向かった。当然は雨は止んでなくて、屋上の扉の前で昼食をとることになったのだが、やっぱり美沙はやってこなかった。教室に戻る時に少し遠回りをして美沙の様子を見に行くと、美沙の席から荷物がなくなっていた。

 放課後になっても雨は勢いを変えず、以前として降り続いていた。

 アスファルトに貯まる雨水。水を割いていく車。傘に打ちつける雨。町の喧騒が一枚の薄い布越しのように、ぼんやりと遠くに聞こえた。

 美沙とよく落ち合っていた高架下に行くと、人影があった。行ってみると、案の定美沙だった。体育座りをして、膝に顔を埋めていた。まるで自分の殻に籠もったカタツムリだった。

 隣に座って「大丈夫?」と声を掛けた。美沙は小さく顔を横に振って、また動かなくなった。黙って横に座る。高架下に反響してくる雨の音に、僕はしばらく耳を傾けた。

 どれぐらい経っただろう。美沙が傾いて、僕の肩にもたれ掛かってきた。

 僕は美沙の肩を抱いた。抵抗はなかった。それは初めて、僕から美沙の体に触れた行動だった。そのまま頭を撫でても美沙は嫌がる素振りを見せなかった。嬉しかった。自分が受け入れられたような気がした。決心して抱き寄せると、美沙はあたかも元からここが自分の居場所だったかのように、スッポリと僕の胸の中に収まった。

 今日ぐらいはいいかなって、僕はより強く抱きしめた。

 航太がいなくなった事実が、航太がいない寂しさが、例え傷の舐め合いだと誰かに言われようとも、今だけはこうして紛らわしたかった。

 雨のベールが音も外界も遮って、僕たちだけの世界を作っていた。

 それから僕らはいつも以上に糸を引くような粘りのある絡みをした。最後の指先が離れる一瞬さえも名残惜しむようにして、余韻に浸って、今日は別れることにした。

 航太じゃなくて、僕が求められた気がしたのは初めてだった。満たされたような高揚感。浮ついた足取りで帰宅する。しかし、家の中は葬式会場のように静まりかえっていた。一気に冷める胸の熱。

 食器の数や物の配置、航太の私物など、航太を連想させるものが目に入る度に、僕は罪悪感に襲われた。

 航太が死んでいたのに浮かれていたこと、しかもその相手が航太の彼女であること。自覚するほど


 「ホント、クズだな」って自分への嫌悪が増した。


 作り置きされていた晩ご飯もそこそこに、僕はベッドへと逃げ込んだ。でも暗闇の中であればあるほど、逃げ出したいものは明瞭になって、頭に浮かんだ。航太との思い出。美沙との思い出。

 どっちつかずで、曖昧で、何がしたいのか自分でも分からなくて、漠然した感情が去来する。気付けば今日もカーテンの向こうで明るくなっていた。

 どうすればこの気持ちが晴れるのか、根本的な解決法も見出せない。どうやらそれも空も同じようで、今日もどんよりとした重苦しい雲が、見渡す限りにぶら下がっていた。


 ※

 

 今日も僕と美沙は指を絡めた。屋上の扉の前で、高架下で、誰もいない教室で。互いの穴を埋めるみたいに、必死に。何回か僕は美沙を部屋に呼んだが、美沙は決して僕の部屋には来なかった。いや正確には航太の部屋には入らなかった。どうしてかは分からない。もしかしたら溢れてしまうからかもしれない。何にせよ僕らの健全ではない関係は、健全ではない故にダラダラと続いた。

 僕と美沙の謎の関係が続く中、航太の葬式が行われた。航太の人望がよく反映された涙に溢れた葬式だった。それから母さんの提案で航太の私物が片付けられた。勉強机も、バッグも、部活の道具もほとんど捨てて、思い出の品だけがダンボール一つにまとめられた。

 僕だけになった部屋。この部屋ってこんな広かったんだって、隙間風に吹かれているみたいだった。この部屋にはもう、二段ベッドの上段だけが、航太がいた名残だった。


「ねぇ晴太、こっち来て」珍しく母さんに呼ばれた。

「何?」と母さんがいる寝室に行くと、母さんの周りには大量の衣服が散乱していた。

「今さ、昔の服整理してたら凄い懐かしいもの出てきたよ」

 そう言って母さんが僕の前で広げたのは、水色の子供服で中央には船の絵が描かれたものだった。


 ※


『えーまた同じ服ー』

『いいじゃない可愛くて』

『別々のカッコいいのがいい』


 僕が母さんに文句を言うと航太は決まって笑っているだけだった。

 僕と航太は小さい頃から同じ扱いを受けてきた。お揃いの服、お揃いのズボン、お揃いの靴。端から見たら僕達の違いを誰が見抜けるだろうか。そんなの当時の僕でさえできなかったし、両親だって僕達を間違えることはしょっちゅうだった。でも両親はそんなことは些細な問題として粗末に扱っていた。僕はそれがたまらなく嫌だった。僕と航太は別の人間なのだ。だから僕は昔、僕と航太を絶対に間違えない美沙が好きだった。


『航太くんはフワフワーってしてるんだけど、晴太くんはフニャフニャンってしてるの』


 そんな雲を掴むみたいな例えで、美沙は僕達をハッキリと区別していた。

 馴れ初めは覚えていない。気が付いたら美沙はいつも僕達の間にいて、いつの間にか一緒におもちゃの取り合いをしていた。

 そんな風に仲の良い僕らに、母さんは少し意地悪な質問をした。


『大きくなったら美沙ちゃんとは、どっちが結婚するの?』


 まだ羞恥心もない僕と航太は『僕がする』『俺がする』と言い合いになった。決着が着かなくなって、最終的に


『美沙ちゃんはどっちがいい?』と僕と航太は詰め寄った。


 美沙は眉を寄せて、うーん、とたっぷり唸ると


『航太くんは航太くんだし、晴太くんは晴太くんだからなー』


 と降参したみたいに笑って誤魔化した。

 航太は納得いかないみたいで「なんだよそれー」と尚も美沙に詰め寄っていたが、僕はその台詞が嬉しくて、十年以上経った今でもずっと心に刺さっていた。


 ※


 季節の移り変わりに敏感じゃないから、気付けば町は、春夏とあったはずの鮮やかさが失って、死んだみたいな色をしていた。生命の温かさが消えて、冷たい風が肌を突き刺していく。町を歩けばそれだけで、秋の風が人恋しさの焦燥感を煽り立てた。

 人恋しさを感じる度に僕は美沙のことを思い出さずにはいられなかった。

 今何しているだろう。通学路を歩きながら、僕は何度も気になり、携帯を取り出しては文面を打ち、消すことを繰り返した。衝動的な行動を美沙に見透かされるのが嫌だった。

 その日は珍しく学校が終わると美沙は「家行っていい?」と聞いてきた。その真意を図り切れないまま、僕はとりあえず母さんが中番でいないことを思い出してから「うん、いいよ」と頷いた。

 美沙は部屋に入るなり懐かしいなどと当たり障りのない言葉を並べた。

 これまで来ようともしなかったのに、どういう心境の変化なのか。カレンダーを見ると、もうすぐで航太の死が分かってから、一ヶ月が経とうとしていた。


「ベッドだけは残してるんだね」

「僕も使ってるからね。上だけ解体して捨てるのも面倒だし残してるんだよ」

「そっか」


 美沙が素っ気ない返事をすると、会話がなくなった。浮ついた空気。

 いつものするの? と僕から話しを振るのもおかしい気がして、手持ち無沙汰に僕は棚に置いてある普段は触らない小さなフィギュアを手に取ったりした。

 すると美沙はおもむろにベッドの上段に上がった。


「ねぇこっち来て」


 言われたままに上がると、美沙が枕を抱えて体育座りをしていた。隣に座ると


「よくここで作戦会議したよね」と美沙が笑った。

「そうだね」と僕は気のないフリをした。狭い空間で女子と二人。この距離でベッドの上にいるというのは、既に息が出来なくなりそうだった。


 無言で見つめ合うと、ツタが這ってくるように指を絡め取られ、僕達は吸い寄せられるように肩をくっつけた。

 静寂を埋める雨の音。窓から差し込む薄暗い光。そういえば、僕の方から美沙を求め始めたのも、こんな天気だったな。

 美沙から掛けられる体重が次第に大きくなる。耐えきれなくなった僕は倒れ、美沙が覆い被さってくる。そしてどこかで期待していたことを美沙はやり始めた。

 水の音。息遣い。擦れる音。些細な音だけが部屋に充満する。求められていることに僕は満たされていた。押し寄せてくる多幸感に意識が遠のいていく。

 このまま、このまま、ずっと……


「……航太」


 ハッとした。遠くなっていた意識が一気に連れ戻される。


 今……何て、言った……?


「……航太……航太……航太……」


 甘えるような声で、息づきをするように美沙は航太の名前を連呼していた。僕の首をもさぼって、熱に浮かされたみたいに、我を忘れて。

 腹の底からあの黒い渦が込み上げてきていた。今まで見て見ぬフリをし続けたものが溢れそうになって、目頭が熱くなってくる。本当は気付いていた。分かっていた。美沙は最初から僕の名前を一度として呼んだことがなかった。美沙は僕を見ていなかった。僕に感じる航太の面影だけを見ていた。分かっていたはずのことなのに。

 悔しさが、行き場のなかった憤りが、僕の理性を追い越していく。


「……航太ぁ」


 次の瞬間、僕はめいっぱいに美沙を突き飛ばしていた。


「いい加減にしろよ!」


 頭の中が沸騰して、驚く美沙なんて眼中にはなかった。


「僕は航太じゃない! 航太はもう、死んだんだよ!」


 航太は死んだ。口にした瞬間、突然それが現実味を帯びて僕の胸に突き刺さった。美沙を見ると、白黒させていた目から涙が滲み出していた。次第に耐えるように下唇を噛み出し、やがて耐えきれなくなり、大粒の涙を流し始める。

 直後、あれだけ沸騰していた熱が一気に冷め、僕は美沙を酷く傷つけたことに気が付いた。


「あ、ごめ」


 体裁を取り繕うように、僕は反射的に謝ろうとした。でも美沙はそんなのいらないと言わんばかりに頭を激しく横に振り、ベッドから飛び降りて、部屋を出て行った。


「美沙!」


 呼び止めようにも、美沙が足を止めることはなかった。馳せる鼓動と美沙の足音。追い掛けるが、角を曲がった先には美沙の姿はもうなく、玄関のドアが閉まる瞬間だった。壁に肩をぶつけ、足に古紙の山をぶつけ、痛みを無視してぶつかるようにドアを開ける。

 目に飛び込んできたのは、勢いを増していた雨だった。それすらも気にしないで靴下のまま車道に飛び出し、左右の道を見た。どっちの道を幾ら見ても、美沙の姿は既になかった。


「何してんだよ……僕は……」


 胸を食い漁る罪悪感はこれまでに感じたことがないぐらいに痛くて、全身を打ち付ける激しい雨は罰のようだった。許されたい罪人の僕は、しばらくその場から動くことが出来なかった。この雨が何もかも流してくれるような、そんな気がしたから。


 ※

 

 僕は自分のことばかりを考え過ぎていた。僕は航太とは違う。そのことに拘りを持ち過ぎていて、美沙のことをほとんど考えていなかった。ずっと昔から一緒にいた恋人が急にいなくなって、ようやく詳細が分かったと思ったら既に死んでいたんだ。傷ついていないはずがない。悲しんでいないはずがない。

 僕はあの日、美沙が机で伏せているのを見たはずだ。それに耐えかねて早退したのを知っていたはずだ。誰もいない高架下で、一人でうずくまっていたのを知っていたはずだ。なのに、僕は美沙が悲しんでいることを上辺だけで捉えて、心の底から美沙の傷について考えたことがなかった。結局いつものように航太の代わりだって、まるで自分が被害者みたいに考え続けていた。

 他人を傷つけて、ようやく自分の愚かさを知るなんて、どこまで愚かなんだろうって、底知れない自分の人間としての不備に、吐き気すら覚えた。

 ごめん、と携帯で連絡を入れたが、何時間経っても既読すら付かなかった。ベッドに横たわる僕は、腹の中を動き回る罪悪感に気分を悪くしながら、溜息を吐くことしか出来なかった。

 翌日、既読すら付かないまま、僕達は学校の廊下ですれ違った。一瞬だけ目が合うが、すぐに目を逸らされる。その逸らし方は自然なものじゃなくて、分かりやすいぐらい僕を意識した逸らし方で、話し掛けようにもあからさまな拒絶の姿勢に、僕は振り上げた手で痒くもない頭を掻いた。

 僕は途端に一人になった。航太がいなくなって、クラスで浮いて、隣にいた美沙もいなくなって。そこで僕はもう一度、普段の自分の行いの愚かさを思い知った。

 何とか許されたくて、美沙に何度も連絡を入れた。それが傍から見たら気持ち悪い行動だってことは十分に理解している。でも、みっともなくても、現状を変えようとしないのは、それはそれで、今までの自分と同じような気がした。

 既読が付いた。その瞬間をたまたま目撃した僕はベッドから飛び起きた。返事が来る。その期待に胸を躍らせて、僕は落ち着けなくなって部屋の中を意味もなく歩き回った。

 時計の針が一周、二周と回る。そして太陽が昇る。結局、その期待が叶えられることはなかった。

 日に日に沈んでいく気持ち。朝から晩まで、美沙のことを考えない時間が一秒とないことに気が付いた。美沙のことばかりを考えるようになったのは、いつからだっただろう。そんなことも思い出せない。

 そろそろ観念しよう。僕は美沙が好きだった。きっと、小さい時からずっと。


 美沙を傷つけた日から二週間が経過した。

 その日も僕は当たり前ように学校を遅刻した。口うるさい母さんも何も言わなくなって、担任の山岡も嫌味の一つも言わなくなった。学校にいる間はずっと机に伏せ続けた。

 四限目に体育があった。皆が体操着に着替える間も僕は机から一歩も動かず、誰も僕に声を掛けることもなかった。始業のチャイムが鳴って、誰もいなくなった教室。僕は誰の視線もなくなったのを機に、荷物を持って学校の裏口から抜け出した。

 昼過ぎ。太陽はまだ昇っている。この時間はまだ家に母さんがいる。家にはまだ帰れない。

 僕の足は自然と高架下に向かった。

 誰もいない高架下に着くと、僕はうずくまって、自分の殻に閉じ籠もった。


 それから何時間経っただろう。急に横から物音がした。膝から顔を上げると、目の前の川が夕日の光を白く反射していた。どうせ猫かなんかだろう。横を見て、僕は目を見開いた。

 そこには美沙が座っていた。

「何で」ここにいるの、という僕の台詞を遮って美沙が言う。

「その、私もごめんね……」

 意を決して言った一言のようだった。美沙が呼吸を整える。僕は何も言わず、美沙の台詞を待った。

「急に航太がいなくなって、毎日泣いても、幾ら泣いても、航太は帰ってこなくて、それで久しぶりに晴太の顔をまともに見たら、居ても立っても居られなくなっちゃって、自分でもそれが悪いことだって分かってても、晴太が本気で拒絶しないから、どんどん依存しちゃって、でもそれが晴太を傷つけてることも気付けなくて…… だから本気で晴太に拒絶された時、航太が死んだことも思い知らされて、晴太を傷つけてたこともようやく気が付いて、私って何なんだろうって、全部分かんなくなっちゃって…… 謝らないといけないのは私なのに、でも何て言ったら分かんなくて……」

 僕は膝の中に顔を埋めて、泣き顔を必死に隠していた。

 どうして涙が溢れてくるのか説明はつかなかった。胸の中で蠢いていた罪悪感が消えて、救われた感覚があった。

 美沙は本音を話してくれた。だから僕も本音を話そう。そして、僕が美沙の行為で傷ついていたというのを訂正しないといけない。僕も一度呼吸を整える。

「僕はさ……晴太でもいいじゃなくて、晴太だからいいって言ってほしかったんだよ」

 美沙がハッとした。そして僕達はまた視線を逸らす。

 僕達の沈黙を川のせせらぎが和ませていく。指先に温度を感じた。目を落とすと、僕がだらりと垂らした腕の指先に、触れるか触れないかの絶妙な距離に美沙の指が伸びていた。偶然出来た距離感じゃない。意識しないと手を置けない場所だ。

 一度拒絶し合ったからこそ、またもう一度拒絶されるのが怖い。だけど、その一歩は怯えているわけにはいかない。

 僕は指を少し動かして、美沙の指先に重ねた。ピクリと動いた美沙の指が、ぎこちなく、ゆっくり、僕の指と絡み合う。

 少しずつ、ゆっくり、僕と美沙だけの関係が始まっていくのを、僕は確かに感じた。

 

 トンボが水面に近づいては離れてを繰り返す。人間のように。互いの距離を測るように。

  

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でもじゃなくて、だからと言って。 樹一和宏 @hitobasira1129

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