ビジンハクメイな夏

樹一和宏

ビジンハクメイな夏

 夏休みに入ると同時に、僕は転校することになった。お父さんが死んで、今のマンションに住み続けるのが難しくなったってお母さんは言っていた。

 引っ越しの日にわざわざ見送りに来てくれるような暇人は一人もいなかった。でも僕にとってはそれが当たり前で、頭をうな垂れることも地団駄を踏むようなこともしなかった。

 僕はリュックサックいっぱいの自分の荷物を背負って、重そうなケースを引きずるお母さんと手を繋いで、おばあちゃん家に引っ越すことになった。旅行みたいでワクワクした。

 電車の車窓から見える景色が灰色から緑に次第に変わっていく。「楽しいね」ってお母さんに言うと「そうだね」ってお母さんは抑揚もなく返事をした。きっと僕が「つまらないね」って言っても、お母さんは同じ返事をしただろう。僕は足をブラブラさせるのをやめた。

 お母さんに起こされて電車を降りると、そこはもう僕の知らない世界だった。見渡す限りの田園風景。空を見上げれば視界を埋め尽くしていたビルはなく、気味の悪さすら感じる真っ青な空が眼前に迫ってきているようだった。

 所謂いわゆる田舎と呼ばれるそこは、若者よりお年寄りが多い場所だった。田舎から脱出しようにも未だに使われているのか分からないサビだらけのバス停が一つと、一日に両手で足りるほどの本数しかない電車しかなかった。車道を走るのは優等生の顔をした乗用車ではなく、麦わら帽子のトラクターだった。

 お母さんは「ほんと何にもないところ」って溜息を吐いていた。テレビの電波でさえ、ここに来るのは嫌みたいだった。でも僕からしてみたら、大きく息を吸って叫んで駆け出したくなりたくなるほどの魅力的な場所だった。カエルに蛇、バッタにオケラ、夜になればホタルも見られたし、はずれにある山に入れば蝉やカブトムシが取り放題。お父さんと行った一つのアトラクションに乗るのに一時間並ぶ必要がある遊園地より全然良かった。

 意味のない宿題も、自分勝手な同級生も、口うるさい老人も、縛りのいっさいがっさい存在しない。自由な夏休み。ただの唯一、太陽だけは沈んだら家に帰るように僕を縛ったが、そんなことは微々たるもの。僕を駆り立てる好奇心と世界一面遊び場と化した未踏の地は、毎日野山を走り回るには十分過ぎる理由だった。



 その診療所を見つけたのは偶然だった。

 前日の雨でぬかるんだ山道を走っていると、足を滑らせて斜面を滑り落ちてしまった。尻もちをついて着地した林の向こうに、その診療所はあった。

 古民家ばかりが並ぶ中に一つだけある白い外壁のそれは、まるでそこだけ別の空間みたいで異彩を放っていた。興味本位で壁の小窓から中を覗いたが、太陽の眩しい逆光で何も見えなかった。僕は姿勢を低くし正面のガラス戸から中をうかがった。どうやらそれは自動ドアだったみたいで、招き入れるように勝手に開いたドアに僕は少し飛び退いてしまった。

 薬品の匂いがした。見た限り人気はなく、僕は恐る恐る中へと足を踏み入れた。窓口には〈受付終了〉と書かれてた札が掛かっていたが、何て書いてあるか読めなかった。

 無機質な内装。薄暗い室内。締め切られたカーテンの隙間から漏れ入る光が、背筋を指でなぞった。幽霊もオバケも怖い。でも、好奇心が僕の背中を押した。

〈診察室〉と書かれた部屋を覗く。途端、ガイコツと目が合った。


「ヒッ」


 黒く陥没した両目が肉のある僕を恨めしそうに睨んできていた。すぐに視線を逸らすと、そこには体の皮膚を半分剥がされた人間が立っていた。生きることを諦めたように、虚空を虚ろな目で見続けている。

 それが何だかは知っている。学校の保健室で何度か見たことがある。でも、だからと言って怖くないわけではない。

 僕はすぐに廊下へと戻り、更に奥へと進んだ。リノリウムの廊下に一歩一歩が反響する。突き当たりは二手に分かれていた。片方はトイレで、もう片方には引き戸があった。僕は引き戸の方へと行き、ドアを開けた。


「誰?」


 ドアを開けるや否や、透き通る声が飛んできた。反射的に目を向けるとベッドの上の女の子と目が重なった。白い壁紙、白いベッド、白いカーテン、白い患者服、白い女の子。幽霊かと思った。こんな所にいる女の子なんて、普通なはずがない。

 言葉を失って後ずさってしまう。そんな僕を凝視してくる女の子は、「あっ」何かを思い出したように両手を叩いた。


「君、いつも山走ってる子でしょ!」

「……何で知ってるの?」

「だって、ほら、ここから見えるもん」


 女の子が指をさす。指先の延長線を辿っていくと、そこは僕が毎日通いつめている小さな山が見えていた。目を凝らせば、僕がいつも潜っている倒れ木が見えた。


「君は幽霊じゃないの?」


 僕の質問に女の子は一瞬眉を「へ?」と曲げたが、すぐに口を押さえるように笑い出した。


「そんな、幽霊なわけないじゃん」

「でも、だって」と反論しようとすると、女の子はベッドを降り、僕の元までやってきて、何をするかと思えば、「これでどうだー!」と頭を乱暴にぐしゃぐしゃとしてきた。

「何すんだよ」とほぼ同時に「うわ汗すごっ」と女の子が僕から離れた。目線を合わせるには少し上を見ないといけなかった。

「ね、幽霊じゃないでしょ? 触れるし、足だって透けてない」


 別に本気で幽霊だと思っていたわけじゃないけど、「確かに」と僕は相槌を打った。だったら、と僕は更に疑問に思ったことを訊いた。


「君はここで何してるの?」

「にゅ」と女の子は口にして、何を思い留まったのか、続きを飲み込んだ。


 ……にゅ?


 少し目線を泳がせてから再び僕を見ると「なーいしょっ」とイタズラに笑った。


「なんだよそれ、教えてよ」


 僕がせっついても、女の子は「やーだ」と笑い返してきた。あんまりに楽しそうに笑うものだから、僕も強くは言えなかった。


「それよりも君こそどうしてここに来たの? 病気? 今日はもう閉院してるはずだけど」

「滑」り落ちた。と言おうとして、僕だけ素直に言うのも癪に障った。何て返そうか一瞬考えてすぐにニヤリと思いついた。

「なーいしょっ」

「あー! それ言われると結構腹立つー!」とか言いながら女の子は楽しそうに笑っていて、しょうがなく僕も笑った。しょうがなくだ。


 女の子はわかというらしかった。ケホケホとよく乾いた咳をしていた。暇を持て余していたみたいで、冬より夏の空の方が青いのは何でだろうねとか、カブトムシとクワガタってどうして似てるんだろうねとか、言われてみれば「確かに」って思える素朴な疑問を色々口にした。僕はベッドの端に腰掛けて「きっと空が日焼けしたせいだよ」とか「元々は同じ生き物で角が一本だったらカブトムシ、二本だったらクワガタになるんじゃない」と僕達はそれらについて真剣に議論をした。

 僕らが議論している間、邪魔しないようにか、窓から忍び込んでくる風はあさなぎのようにカーテンを揺らしていた。

 明るかった日の光がこんがり焼けたオレンジ色になる頃、僕はそろそろ帰ろうかなと立ち上がった。すると若葉は僕を帰らせないようにするためか、より饒舌になった。


「ごめん、話の途中で悪いんだけど僕そろそろ帰らなきゃ。お母さんが心配しちゃう」

「……そーだよね、ごめんね」


 若葉の声にこもっていた夏みたいな熱が冷めていくのが分かった。けど若葉はそれを隠そうとするように目を細めた。悪いことをしたような罪悪感に息がし辛くなる。

 女の子には優しくするんだぞ。不意にお父さんに言われたことを思い出した。


「じゃあこの続きは明日しようよ」

 そう言うと若葉はハッとして「うん」と、気持ちいいぐらいに頬を吊り上げた。



 二日目。僕は昨日と同じ時間に同じ場所から斜面を下って、診療所へと向かった。診療所は今日も薄暗く誰もいなかった。診察室の前を小走りで駆け抜け、若葉のいる病室のドアを開けた。


「そろそろ来ると思ってた。さっき山ん中走ってるの見えたよ」


 若葉は声を跳ね上がらせて、ベッドの端をポンポンと叩いた。促されるままベッドの端に腰を掛ける。


「今日も暑いね」と若葉の方から話し出した。

「雨降る気配もないしね」と僕は反射的に返事をし、僕らは昨日の続きを始めた。


 波のように今日も満ち引きを繰り返すカーテン。大きく膨れ上がる度に、目を細めたくなるほどの眩しい青空と緑の山が見えた。どこかから風鈴の音が聞こえて、時折訪れる僕達の沈黙を何でもないことのように縫っていく。

 その日、若葉はこの診療所について教えてくれた。午前中は普通に診察があって、午後は先生が往診に行ってしまうとか何とか。田舎で泥棒なんていないからずっと鍵を掛けていないとのことだった。


「鍵を掛けないなんて信じられない」

「家の鍵なんて持ったことない」


 僕と若葉は都会と田舎の間違い探しをするように、日が暮れるまで飽きることなく話し続けた。

 途中「ところで君はここで何をしているの?」と僕は尋ねたが、やっぱり「にゅ」と言い掛けてすぐに「あっぶなーい言っちゃう所だった」と若葉はケラケラと笑った。



 三日目。僕が蛍の話をすると、若葉は「見たい!」と興奮気味に食いついてきた。


「見たことないの? 生まれた時からここに住んでるのに?」

「うん、ない。夜は外に出ちゃ駄目って言われてるから」

「じゃあ見に行く?」

「いいの!? あ、でも、お父さんがきっと駄目って……」

「バレないように抜け出せばいいよ」


 その日の夜、ご飯を食べ終わった後、僕は飛び出すように若葉を迎えにいった。お母さんは少し心配そうにしていたが、おばあちゃんが「大丈夫だべ」と言うとお母さんは「母さん」とぼやいて何も言わなくなった。


「大丈夫だよ、心配しないで。車には気をつけるし」


 懐中電灯を自転車のカゴに投げ入れる。山を通らず普通の道で来られるようにと若葉に教えてもらった道をかっ飛ばす。風もなく、ジメジメした夜だった。自転車で夜風を浴びても、胸元と背中にじんわりと汗をかいた。

 診療所に着くと、丁度窓から顔を出していた若葉と目が合った。すぐにニカッと笑って、顔を引っ込めると裏口からサンダルの若葉が現れた。患者服のままの若葉を荷台に乗せると、僕は再び自転車のペダルに力を込めた。自転車が微かに軋んで車輪が回り出す。


「夜に抜け出すなんて何か面白い!」


 後ろでは若葉が相変わらずケラケラ笑っていて、なんだかこっちまで楽しくなってきてしまう。外灯もないのに明るくて、澄んだ夜だった。

 向かった先はこの前おばあちゃんが『ここさ知るにはここが一番だべ』と連れてってくれた小さな橋だった。山の入口から入ってすぐの場所で、橋の下を小川が流れている。

 若葉を驚かしてやりたいと思った僕は目的地近くで自転車を止めると、「目をつぶって」と若葉の手を引いて、橋へと向かった。


「怖いのやだよ?」と少し不安そうする若葉。手を強く握ると、若葉はそれに答えるように強く握り返してきた。僕らはしっかりと手を繋いで、山道をゆっくりと登り始めた。

「ねぇ、まだー?」

「もうちょっとー」


 若葉の反応が楽しみで既に僕はほころんだ頬を元に戻せなくなっていた。橋の中腹に来た所で足を止める。手を離して、一呼吸。


「目を開けて」


 直後、若葉は歓喜にも似た息を漏らした。それもそのはずだった。綺麗とか美しいとか宝石とか妖精とか、そんな月並みの言葉ではこれは言い表せないからだ。

 儚さと表裏一体となっているからこそ惹き付けられる妖美な光。力強く光ったかと思えば、その存在が消えてしまうのではないかと不安を煽るように切なく消える明かり。この世のものとは思えない幻想的な光景は、何度見ても夢中になってしまう。

 気付けば僕達は言葉を失っていた。夜の深い闇に言葉を見失ってしまったのかもしれない。目の前で一匹の蛍が光った時、明かりに照らされた言葉を僕は口にする。


「蛍の光って、プロポーズの意味があるらしいよ」


 他意はなかった。大人がするような遠回しのロマンティックな告白なつもりじゃなくて、純粋に若葉に教えてあげたかっただけだ。

 しばらく待ったが、返事はなかった。どうしたんだろう? と思い、盗み見ると若葉は蛍をじっと仰ぎ見ていた。一匹の蛍が若葉の顔を掠める。その一瞬、若葉の頬が濡れている気がした。


「美人薄命」若葉が突然言った。

「え? ビジンハクメイ? どういう意味?」

「蛍の寿命は一週間って意味だよ」

「へー、蝉と一緒なんだね」

「……蝉と一緒にはされたくないかも……」

「何で?」


 そう訊いた途端、若葉が急に咳き込みだした。蛍が散り散りになっていく。

 若葉の咳は中々収まらず、僕はどうすればいいのか分からなくて途方に暮れてしまった。若葉は咳の合間に「帰ろ」と小さく呟いた。僕はそれに従って若葉をまた自転車の荷台に乗せて帰ることにした。診療所に着いても若葉の咳は治まらず、僕はバイバイと手を振った後も、窓から聞こえる咳の音に、いつまでも後ろ髪を引かれた。



 四日目。若葉は大丈夫だろうか?

 僕は診療所の前に到着すると、咳の音が聞こえないかを確認するために音を出さないように自転車を止めた。つま先だけで慎重に歩いて、診療所の中に侵入する。抜き足、差し足、忍び足。廊下を渡り、病室の前に到着する。ここまで来る間に咳の音は聞こえなかった。音を立てないようにゆっくりドアをスライドさせ、隙間から病室を覗き込んだ。

 若葉はいつもと同じようにベッドに座り込んでいた。僕に気付く様子もなく、窓の向こうをじっと見て、まるで何かを待っているみたいだった。その光景を僕はいつまでも見てられる気がした。焚き火の揺れる炎とか、白波が押し寄せる波打ち際と一緒だ。若葉の秘密を垣間見ているような優越感に浸りながら、しばらく僕はその光景を見続けた。やがて若葉が苦しそうな咳をするものだから僕は思わず飛び出した。


「わっ! ……ビックリしたー。驚かさないでよ」


 若葉はそう言うなりまた癖になりそうなあの笑い方をした。いつもの笑顔に安心したけど、それでもやっぱり少しの不安が付きまとう。


「大丈夫なの?」

「うん、この通り」と若葉は華奢な腕をグイと曲げて筋肉を自慢するかのようなポーズを取った。

「どこがだよ」って僕は笑ってしまい、僕達はいつもみたいに取り留めのない会話を始めた。


 会話を始めてしまえば、僕らはいつだって同じ時間を共有することができた。僕は家にいるといつも一人な気がしていた。一人っ子だからという意味じゃない。時間が止まってしまったお母さんとも、ゆっくりと時間が流れているおばあちゃんとも、僕はかけ離れていて、三人で食卓を囲んでいても僕は孤立しているような寂しさを感じていた。でも若葉といると、そういうのを感じなくて済んだ。一緒にいると気が楽っていうのとは違う。もっと根本的に、単純に、一緒にいたいと、そう思えた。

 蝉が鳴いていて、風が髪を揺らして、穏やかな夏だった。

 夏休みが終わるまで、まだまだ時間はあった。晴れた日の午前の空を見上げると、いつまでもそれがあり続けるような錯覚におちいる。時間が止まって、世界には僕達しかいない。疑う余地がなんか全くなくて僕の小さな世界は完結する。翌日、若葉と会えなくなるまで、僕はその錯覚を信じ切っていた。


 

 五日目。診療所の自動ドアに張り紙が貼ってあった。

先日せんじつわたしむすめ誘拐ゆうかいした非行ひこう少年しょうねんくんへ

若葉わかば体調たいちょうすぐれないから今日きょうわるいがかえってくれないかな】


 書いてあることが信じられなくて、僕は自動ドアに手を触れた。いつもは近づくだけで開くのに、その日は手を触れても一ミリ足りとも動くことはなかった。

 通り雨に打たれて、僕は逃げ出すように診療所を後にした。


 

 六日目。張り紙は張ったままだった。試しに自動ドアの前で背伸びしたり、飛び跳ねてみたりしたが、ドアが開くことはなかった。

 裏手に回り、若葉のいる病室の窓を見たが、いつも開いているはずの窓は閉め切られていてカーテンの向こうの様子は分からなかった。山に虫を捕まえにいく気力も湧かず、仕方なく今日も家に帰ることにした。

 額の汗をぬぐう。大きな影が差し、空を見ると巨大な雲が太陽の前を通過している最中だった。山を見れば、日向が迫ってきているのが見えた。

 今のうちに帰ろう。

 自転車に跨がろうとすると、足元で蝉がひっくり返っていることに気が付いた。木に帰してあげようと拾ってみると、うんともすんとも言わなくて、発泡スチロールみたいな軽さはまるで、中身がなくなっているようだった。


 あの日、お母さんは泣いていた。お母さんが泣いているところなんて初めて見た。お父さんが死んだっておばあちゃんに聞かされても、僕は涙の一滴も流れなかった。お葬式で色んな人が来て、その内の誰かに「君は泣かないのかい? 強いんだね」って言われたけど、本当は現実感が湧かなくて、ちっとも悲しくなかっただけだった。

 その後テレビか何かで薄情者って言葉を知って、僕は薄情者なんだってことを知った。


『蝉が死んだ時は誰が泣くのかな?』不意に僕は若葉に訊いた。

『そりゃ蝉なんじゃないの?』何を当たり前なことを言っているの、と言いたげに若葉は小首を傾げた。

『じゃあ蝉がいつも鳴いているのは、誰かが死んで悲しくて泣いているから、なのかな?』

『……言われてみればそうなのかも。蝉ってすぐに死んじゃうらしいし』

『え、そうなの?』

『知らないの? 蝉っていうのはね……』


 僕が初めて蝉の寿命を知ったのは、ひぐらしが泣き始めた頃だった。



 七日目。張り紙は以前として張ったままで、自動ドアはやっぱり開かなかった。きっと窓も閉まっている。諦め半分で裏手へと回る。角を曲がると、白い何かが横切った。顔を上げる。白いカーテンが大きな弧を描いて窓から飛び出していた。心臓が飛び跳ねるのが分かった。思わず駆け出して、窓枠から身を乗り出す。


「わぁっ! ビックリした!」


 以前と何ら変わっていない若葉が、いつも通りにベッドに座っていた。僕は思わずへへっと声を漏らしてしまう。相変わらず病的に白いけど若葉らしい大袈裟な表情に、風船みたいにずっと浮ついていた焦燥感が、ようやく地に足を着けた。


「そんなに私に会いたかったの?」


 中に入る僕に、試すみたいに訊いてくる。素直に答えられるはずもなく「馬鹿じゃないの」って僕は答えた。若葉は可笑しそうに笑っていて、僕は居心地の悪さを感じた。でもたったこれだけで、僕達のブランクは埋まってしまった。


「体調悪いの?」

「うーん……まぁ、ちょっとね」と若葉は隠し事をするみたいに笑った。


 僕はこれまで通りにベッドの端に座った。何が悪いか何て訊いても、きっと若葉は誤魔化すだろう。だから僕はそれ以上何も訊かなかったし、若葉の愛想笑いにはそれ以上訊かないでほしいという意味が込められていた気がした。

 その日、僕達が話したのはまたしても蝉の話だった。若葉がお父さんから聞いたんだけどさ、と話し始め、僕は「何なに?」と前のめりになった。


「蝉が鳴くのは、求愛行動のためでもあるらしいよ」

「キュウアイ?」

「プロポーズみたいな感じ?」語尾をねじ曲げ若葉本人もハッキリとしないみたいだった。

「え、じゃあミンミンって日本語にしたら『結婚結婚』って騒いでるの?」

「そうなんじゃない」若葉がクスリと笑う。

「やかましい奴らだなー」

「確かにっ。でも一週間しかないんだよ。そりゃ結婚に焦りもするよ」

「……だからお父さんも結婚したのかな」

「え?」

「もしかしたらお父さんは自分が死ぬのを分かっていてお母さんと結婚したのかな?」

「うーん…… そうかもね。誰だっていつかは死んじゃうわけだし」

「お母さんも?」

「うん。それに君も私もだよ」


 お母さんが死ぬ。僕が死ぬ。若葉が死ぬ。考えてみても悲しくはならなかった。実感が湧かないからか、それとも僕が薄情者だからなのか。そういうことを考える若葉は悲しくなったりしないのだろうか。


「ねぇ、若葉は結婚したい?」

「私? んー……ミンミン」

「何で蝉のマネしたの?」


 僕の問いに若葉は「ミンミン」とだけ答えた。


「……ミンミン」僕もマネをしてみたけど、やっぱり何も分からない。

「ミンミン」


 若葉は執拗に蝉のマネをした。対抗して僕も蝉のマネをすると、更に対抗して若葉はマネをした。僕達はじゃれつくみたいに蝉のマネをし合った。

 帰り道、坂道を下りながら僕は思った。結局結婚したいのか、したくないのか、どっちだったんだろう。一人ミンミンと口にしても、やっぱり分からないものは分からなかった。


 いろんなことが僕の頭の中で回っていた。

 蛍と蝉の寿命、キュウアイ行動とプロポーズ、お父さんが死んだこと、お母さんも僕も若葉もいつか死んでしまうこと、皆時間の流れが違うように感じること、僕が薄情者ということ、空っぽになっていた蝉のこと、ビジンハクメイ、若葉の咳のこと、若葉がずっと病室にいること、体調が悪いこと、蛍を見たとき若葉が泣いた気がしたこと、ミンミンの意味。

 若葉と出会ってから一週間で僕はいろんなことを聞いて、知って、感じた。でもそれらはパズルみたいに一つなることはなくて、一つ一つが自由に意思を持ってるみたいに僕の頭の中を飛び回った。一つにまとめられないのは僕がまだ小学三年生なのが関係あるのかもしれない。

 縁側でスイカを食べていた僕が振り向くと、お母さんがいつもみたいにテレビを点けっぱなしにしてテレビの向こう側をじっと見ていた。


「お母さんも食べない?」って訊いてもやっぱり返事はなかった。まるであの時拾った蝉と一緒だった。そうこうしているとおばあちゃんが「よっこらしょ」と隣に腰を下ろした。

「おばあちゃんも一ついいかい?」と訊かれて、僕は頷いた。

「ねぇおばあちゃん、どうして生き物っていつかは死んじゃうのにキュウアイ行動ってのをするの?」


 スイカを食べていたおばあちゃんが何度かせた。


「ずいぶん難しいことを訊くねぇ」と口元を拭いた。それからおばあちゃんは「うーん」と唸ってから言った。

「あんまり難しいこと考えると、爺ちゃんみたいにハゲちまうよ」

「えっ」


 仏壇を見ると、ハゲ爺が満面の笑みをしていた。


「ハゲたくない!」


 おばあちゃんはカッカッと笑って続けた。


「哲学も科学も何も知らんくても誰かを好きになれるし、いつかは死ぬんだ。考えてもしょうがないことを考えてもハゲるだけだよ」


 おばあちゃんの言うことには何故か説得力があって、僕は簡単に説得されてしまう。それはきっと僕とおばあちゃんでは途方にもなく追いつけないほどの経験の差があるからなのかもしれない。


「ありがとう、おばあちゃん」と僕はスイカの皮を片付けようと立ち上がった。すると、おばあちゃんは「ああ、そうだ」と人差し指を上げた。


 

 八日目。昨日の夜、おばあちゃんに聞いたことをどうしても若葉に教えたかった僕は、朝食を食べ終えるとすぐに診療所へと向かった。

 今日は会えるかな? 今日は元気かな? 若葉が聞いたらどんな顔をするだろう。田園を駆け抜け、打ち水されたアスファルトを通ると自転車が尾を引いた。

 診療所の前に到着すると、僕は鍵を掛けることも忘れて自動ドアに駆け寄った。張り紙は貼ってなく、ドアは勝手に開いた。僕はその意味を良い意味で考えて、廊下を駆けて、病室のドアを開けた。


「若」


若葉はそこにはいなかった。少しだけ席を外しているとか、そんなんじゃなかった。皺だらけだったシーツはぴっちりと整えられて、あったはずのサンダルも、中身のあったゴミ箱も、そこにあったはずの生活感も、全てが綺麗さっぱりに消えてなくなっていた。

 窓の閉め切られた部屋にはあの心地良い風も、やかましいはずの蝉の声も何もなくなって、ただ無機質な白だけが部屋を埋め尽くしていた。

 僕は部屋に入り、若葉の痕跡を探したが音も匂いもそこには塵一つなかった。



 九日目も十日目も僕は若葉の病室を訪れたが、昨日と同じ今日は何一つ変化はなかった。

 外に出る度に僕の目は若葉の姿を探した。デパートで、墓参りで、人混みの中に、あの角の向こうに。僕の体は勝手に動いてしまった。でも体とは正反対に、薄情者の僕は何となく頭では理解していた。もう二度と会うことはないんだろうなって、涙もなく蝉みたいに叫ぶこともなく。

 あの子は僕の妄想の産物だったのかもしれない。最近はそんなことを考えるようになった。楽しかったあの議論も、握り返された手の感触も、窓から差し込むあの風も。夏休みの終わりと共に、夏の青色と共に、思い出は少しずつ輪郭を失っていった。



 稲穂の海の上を、トンボがカモメのように飛んでいた。長かった夕方が短くなって、大きな夏の雲が熱に溶けて、空の青さを白く薄めていく。

 九月に入った。おばあちゃんはもうとっくに秋だよって言っていたけど、やっぱり八月の終わりが夏の終わりを感じてしまう。でも夏が終わったからと言っても、残暑が肌に張り付いて、まだ秋とも感じない空白の期間に僕はいた。

 その日は新しい小学校に転入する日だった。まだ見慣れない校舎は異世界みたいで自分が異物のように感じられた。

 職員室で担任となる真面目そうな眼鏡の先生と挨拶して、僕は自分の教室へと向かった。


「はい。皆さん静かに。気付いている人もいると思いますが、今日は転入生がいます。それじゃあ入って」


 教室の中に一歩踏み出すと、見知らぬ顔達が遠慮なしに僕の方を見つめてきた。カラカラになる喉。唾を飲み込んで僕は最初の挨拶をする。まばらな返事が僕の不安を煽り立てた。


「それじゃあ君の席はあそこね」


 先生が指さしたのは一番後ろの窓際の一個隣だった。いろんな視線に体中を刺されながら、僕は席と席の間の細い通路を歩いて行く。右を向いても左を向いて不思議そうな面持ちが、僕に穴を開ける勢いで凝視してくる。そして最後に僕は隣の席となる子と目を合わせた。


「あっ」


 若葉だった。病的に白いくせに、そこら辺の人よりも人一倍楽しそうな笑顔を見せてくる。僕は呆気にとられて頭が真っ白になってしまった。


「久しぶり」と若葉は言った。でも僕は何も返事が出来なかった。

「どうしました? 早く席に着いてください」


 先生に催促されて、僕は急いで若葉の隣に座った。先生が話を始めると、僕に集まっていた目線が霧散する。するとそれを見計らったように若葉は僕の耳元に口を寄せてきた。


「ねぇ、死んだかと思った?」


 話を聞けば全部単純な話だった。夏風邪を引いた若葉は診療所を営むお父さんに入院してみたいとねだり、少し間だけ空きの病室に寝泊まりしていただけだったのだ。体調を崩したというのも、薬を飲むをサボって風邪がぶり返しただけのこと。

 僕は溜息を吐いた。隣を見ればイタズラが成功したみたいに笑う若葉。まんまと騙された僕は腹いせに、前にやられたみたいに若葉の頭をぐしゃぐしゃにしてやった。


「わっ、何、何っ!」と若葉は抵抗したが、僕は構わず続けた。

「ハゲちまえ」


 騙されたことの怒りとか悲しみとか、そんなものは微塵もなかった。若葉がいた安心感と嬉しさで胸がいっぱい、いや体中が満たされていた。それが溢れ出して、目に涙が滲んでいたのはここだけの話だ。

 ニヤニヤする僕と嫌がりつつも笑う若葉に、クラス中はキョトンとしていた。その後で当然、僕達二人は怒られたわけだけど、怒られている最中もふざけあって、更に怒られることになった。



 

「そうだ若葉、言い忘れてたことがあった」

「何?」

「蝉って一週間じゃ死なないらしいよ」


 若葉は笑った。


「知ってた」


 ひぐらしの声は、まだ聞こえていた。

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ビジンハクメイな夏 樹一和宏 @hitobasira1129

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