大失敗だったのかもしれない②

「ちょっと」

「?」


 一色玲香さんの声はとても冷たく、金森くんの前で出すあの耳障りな声に比べて、2オクターブほど低音に聞こえた。顔を上げるが目は合わさず、お味噌汁のお椀をテーブルに置き、私はご飯茶碗をその手に取った。


「……なんすか?」


 お箸で取ったご飯を口に運ぶ前に、私は彼女にここに座った理由を聞いてみることにした。……まぁ、理由は大体分かるけど。


「……あなた、名前なんだったっけ?」

「あなたこそ、どちらさまでしたっけ?」

「なんであなたに私の名前教えなきゃなんないの」

「んじゃ私の名前も教える必要ないでしょ」


 んー……のっけから喧嘩腰か……これはめんどくさそうだ。売られた喧嘩は買う主義だが、よりにもよって今日だとは……


 奥さんがこちらにやって来て、一色さんの前にお冷のグラスを選んだのは置いた。『ごゆっくりー』といつもの通りピラッと右手を上げて去っていく。奥さんは結構度胸が据わった人らしい。この場にお冷を平然と持ってくることが出来るとは。


 しかし、そんな奥さんには申し訳ないが、今日この店を選んだのは失敗だった。普段行かない店に行けば、この一色さんと遭遇する可能性は低かっただろうに。ここのランチが美味しいのが悔やまれる。


「……あーそうだった。小塚さん、でしたっけ。金森さんの同僚の」


 一色さんは顎を上げ、私を見下すように見下ろした。わざわざ同僚の部分にアクセントをつけなくてもいいだろうに……分かりやすいなぁこの人。ご飯を口に運び、カキフライにタルタルソースをたっぷりつける。


「そうですが。何か用ですか? 金森くん担当の一色さん?」


 カキフライを口に運ぶが、あまり美味しく感じない……きっと目の前に一色さんがいるからだ……そのことが、私の不快感にさらに拍車をかけていく。


 目の前の一色さんもまた中々にイライラを溜めているらしく、左手で頬杖をつき、右手でカツカツとテーブルを叩いている。それやりたいの私なんだけど。せっかく一人で静かに考え事が出来る時間なのに、アンタのせいで台無しだよ。今しがた口に入れたカキフライだって、アンタのせいで余計に不味くなった。


「……あなた、金森さんの何なの?」

「何なの……とは?」

「あなた、いつも金森さんと一緒にいるよね?」

「いますね」

「……なんで一緒にいるの?」

「逆に聞くけど友達と一緒にいちゃいけない理由は何すか?」

「なんでもないなら一緒にいるのやめてよ」

「なんで」

「私が金森さんとランチ出来ない」

「なんで私がアンタに遠慮しなきゃいかんの」

「いやだって何でもないんでしょ? だったらそこは引いてよ」

「少なくともアンタに遠慮するくらいなら永遠に金森くんとランチ食べ続けるわ」


 一度舌戦が始まってしまえば、私は一歩も引かない。一色さんからギリギリという歯ぎしりの音が聞こえる。わざと鳴らしているのか? だったら声と同じくとても耳障りだからやめてほしいんだけど。


 一色さんはお冷に一口、口をつけた。テーブルに置く時の『ガシャン』という音からも、こちらに敵意むき出しなのがよく分かる。


 私もここで舐められる訳にはいかないから応戦はするが、お昼休みには限りがある。いい加減、この不毛なやり取りも終わりにしたいんだけど……でも一色さんは聞かないだろうなぁ……まだまだ言い足りない顔してるし。


「あんたさ。金森さん狙ってんの?」


 彼女は顎をくいっとあげて、そのきれいな顔(薫お姉さまの足元にも及ばないが)を歪ませてそうのたまうが、その瞬間『そりゃあんただろ』という言葉が喉まで出かかった。危うく今口にしている味噌汁を吹きそうになったほどだ。


 だけど。


「まぁでも、金森さんはあんたなんか選ばないだろうけど」


 一色さんのこのセリフ。普段の私なら聞き流せるものだったが……今日の私は聞き流せなかった。


「……アンタさ。自分が選ばれると思ってるかもしれないけど」

「ん?」

「アンタ知らないみたいだけどさ。彼には好きな人がいるんだよ」

「……」

「ほら。アンタ、金森くんのこと何も分かってない」


 一色さんの顔から、少しだけ余裕がなくなった。彼女の知らない金森くんのことを私が知っていたという事実は、彼女の余裕に少しばかりのダメージを与えたようだ。握りしめる右手に、力が籠もっている。


 ……でも、『彼には好きな人がいる』という一言は、私の心にも、少なからず重く鈍い衝撃をもたらしていた。理由は……今は、考えたくない……。


 ドアを開く音が聞こえ、カランカランとベルが鳴った。奥さんが入り口に向かい、声を掛ける。新しいお客さんが来たみたい。


 新しいお客さんは……


「おっ。いらっしゃい。風邪はいいの?」

「あれ? 僕が風邪ひいたの知ってるんですか?」

「アンタの連れから聞いた。あっちにいるよ?」

「ありがとうございます。小塚さんかな?」


 コツコツと足音を立て、彼がこちらにやってくる。スーツの上からいつものチェスターコート。朝、彼の家で見た時のくたびれきった姿とは似ても似つかない整った身だしなみ。でも少しだけ目がとろんとして気だるそうな、その人は……


「金森くん?」

「やっ。ちょっと良くなったし、午後から出勤することにしたよ」

「なんで……? だって、風邪……」

「それより……一色さん?」

「ご無沙汰してます。金森さん」


 今日はここに姿を見せるはずのなかった男、金森くんだった。


「それより……一色さん?」

「ご無沙汰してます。金森さん」


 少しとろんとした眼差しで、金森くんは立ったまま一色さんの方を見た。一見して金森くんはいつもと変わらないように見えるけど……私には分かる。いつもに比べて、息が浅い。やはり体力はまだあまり戻ってないようだ。


 一方で一色さんは、最初こそ戸惑ったものの、目当ての金森くんの出現にテンションが上ったみたいだ。ほっぺたを少し赤く染め、さっきまで私に向けていたイライラ顔をスッと消し、金森くんをキラキラ輝く眼差しで見つめていた。この人、さっきまで私にすごんでいた人と本当に同じ人なのか? そう疑ってしまうほどの変わり身だ。私も女なのだが、戦闘態勢に入った女というのは恐ろしい……。


 呼吸が浅い金森くんは、暫くの間私と一色さんを交互に見比べたあと、カキフライ定食が乗ったテーブルを凝視し、それを指さした。


「このカキフライ定食、どなたのですか?」

「は?」


 途端に一色さんが疑問の声を上げる。私の耳にフィルターがかかっているからかもしれないが、その声色には、ほんのりと悪意が籠もっているように聞こえた。


 金森くんは、そんな一色さんに顔を向けた。私からは、金森くんの表情が見えない。ただ、金森くんの顔を見た一色さんからは、笑顔が消えた。


「このカキフライ定食は、一色さんのものですか?」

「違いますよ? それよりもね金森さん……」

「では二人で一緒に食べていたわけではない?」

「いや、私は遅れてきたから……」


 金森くんの質問は要領を得ない。それは一色さんも同じようで、金森くんの質問に答える彼女の頭の上には、大きなはてなマークが見えている。


 金森くんが私の方を向いた。


 ……一色さんから笑顔が消えた理由がわかった。私を見下ろす金森くんの表情は穏やかだが、笑顔ではなかった。


「小塚さんが食べてるところに一色さんが来たの?」

「うん、そう」

「突然?」

「うん」

「ちょっと!」


 唐突に一色さんが声を上げ、私達の会話に乱入しようとするけれど、金森くんはそれを左手で制止した。そのまま顎に手を当て考える素振りをしたが、やがて一色さんにキッと向き直り、普段よりも厳しい口調で口を開いた。


「一色さん」

「はい?」

「申し訳ありません。僕たちは二人でランチを食べる約束をしていたんです。相席はまた後日ということで」

「はあ!? 私よりも後から来て!?」

「僕らの約束はあなたが突然ここに座るよりも早い、昨日の段階です」

「……ッ」


 一色さんの歯ぎしりの音が、再び私の耳に届いた。この人の噛む力はすごいなぁとのんびりと考え、顛末を見守る。金森くんはどうやら、一色さんをこの椅子から立ち去らせたいみたい。


 再びお冷に一口だけ口をつけた一色さん。お冷のグラスには、彼女のリップの跡が残っている。


「金森さん」

「なんですか」

「あなた、いつも彼女とランチしてますよね」

「それが何か」

「彼女、あなたの何なんですか?」

「……」

「付き合ってるんですか?」


 金森くんに向ける彼女の声色が、少しずつ怒りを帯びてきた。顔にも余裕がなくなり、少しずつ表情がゆがみ始めている。彼女は金森くんを狙っているはずなのにそんな顔をしていいのかと思えるほど、私の頭が冷静さを取り戻し始めていることに気付いた。私はそのまま、静かにお味噌汁をすする。


「……いえ。僕にはお付き合いしている人はいません」

「はンッ……だったら……」

「特定の人と付き合うつもりもありません」

「は?」

「僕には、想いを寄せている人がいますから」


 一色さんが目を見開いた。金森くんのこの返答は予想外だったのか、はたまた予想はしていたがいざ面と向かって言われてショックを受けているのか、それは私からはわからない。でも、怒りをにじませるその眼差しとは裏腹に、彼女の顔から血の気が引いたのは、一発で分かった。


 そして金森くんのその言葉は、予想外なところへも、ほんの少しの痛みをもたらした。……私の胸だ。


「誰なんですか!?」

「それをあなたに言う必要はないと思いますけど」

「私だってあなたが好きなんです! 教えてくれてもいいじゃないですか!!」

「……同じ会社の人ですが」


 金森くんは金森くんなりの誠意を見せたつもりなのだろう。でもその言葉を聞いて、何も知らない人の一体何人が、『同じ会社の人イコール渡部正嗣という男性』ということに気がつくだろうか。きっと、そんな人はまだまだいやしない。


 この一色さんもしかりだ。おそらくは金森くんの勇気ある告白を聞いた彼女は、その相手が、自分の目の前にいる私だと勘違いを起こしたようだ。彼女は突然立ち上がり、静かに座る私の右手首を左手で勢いよく掴んで、そのまま上へと引っ張り上げた。


「いッ……!?」

「ッ……!!!」

「いた……いッ……!!」


 一色さんの壮絶な握力に思わず私は悲鳴をあげたが、それが彼女の耳に届くことはない。むしろより強く私の手首を握りしめ、上へと引っ張り上げて私を無理矢理に立たせた。


「アンタか……ッ!!!」

「……!?」

「アンタがそうか!!!」

「ち、ちが……ッ」

「ガキのくせに……ッ!!!」


 私は一色さんの誤解を必死に否定するけれど、その言葉すら、彼女の耳には届かない。彼女は今、猛烈に怒っている。表情は醜く歪み、普段の薫お姉さまに匹敵するほどの、キレイな顔の面影はない。


 そのあまりの恐ろしさに、私は声を発することができなくなった。さっきまでなら、私は彼女の攻撃をさばく自信もあったし、舐められないためにも彼女には絶対に負けるつもりはなかった。


 だけど今は事情が違う。金森くんの言葉に意味がわからないダメージを受け、自分でもわからない動揺に戸惑っているところを一色さんに突かれた。おまけに彼女は、同じ人とは思えないほど顔を醜く歪ませ、ダイレクトに私に黒い怒りをぶつけて来る。私はこの時、一色さんに対し、抵抗する術を失っていた。


 一色さんによって、私が完全にその場に立たされてしまった、その時だ。


「……ッ!」

「!?」

「……」


 バシッという音とともに、私の手首を一色さんが離した。支えを失った私の身体は、椅子にストンと落ち、私は呆気にとられて二人を見た。


「なッ……」

「……」


 私の手首を掴んでいた一色さんの左手を、金森くんが掴んでいた。病み上がりの身体を小刻みに震わせ、猛烈な力を込めた右手で、一色さんの左手を掴んでいた。


 彼の顔を見た。彼の顔から、いつもの穏やかさが無くなっていた。トロンとしていた眼差しは大きく鋭く見開かれ、一色さんへの怒りをにじませていた。


 その時の金森くんの言葉は、私の耳に、しっかりと届いた。


「一色さん……ッ」

「痛い……ッ……金森さん、痛い……ッ!」

「大切な人を目の前で嬲られて、黙っていられる僕じゃない……ッ!!」

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