大失敗だったのかもしれない③
「大切な人を目の前で嬲られて、黙っていられる僕じゃない……ッ!!」
一色さんの手首を握る彼の言葉は、私の耳に、しっかりと届いた。
「離して……ッ。離してって……!!」
一色さんは勢いよく左手を振り払い、金森くんの右手を払う。その後ストンと席に座り、乱れた息を整えていた。
一方の金森くんも、今のやり取りで結構な体力を使ったらしい。肩で息をし、眼差しこそするどいが、表情は怠そうだ。
「あなたはずっとそうだった」
「は?」
「僕が気付いてないとでも思っていたんですか」
「……?」
「ここで会う度、彼女をジッと睨みつけていたでしょう……だから僕は、あなたとの相席をずっと避けてた。席だって、あなたから離れたところにせざるを得なかった」
「え……」
「大切な人にそんなことをされたら、誰だって不快感を抱くでしょう」
呼吸の浅い金森くんが、必死に言葉を紡ぎ出す。その言葉の一つ一つが、私の耳に、静かに届いてきた。
声色に感じる感情は怒り。だけどその言葉は、私の胸に、じんわりと温かい。
……彼の言葉を聞いて、私はやっと気付いた。私は気付かないうちに、ずっと彼に守られていた。私が一色さんに悪意を向けられていたことに、彼は気付いていた。そして、彼女を私から遠ざけて、ずっと守ってくれていた。いや、きっとそれだけではない。クリスマスの夜も初詣の日も、東京出張の時も。……そしてきっと、私が覚えてない、毎日の中でも。
――……同じ会社の人です
彼が発したこの言葉。これは、真意が分かっている私の胸にブスリと突き刺さり、その痛みは、ジグジグと私の中でうずき続けていた。
でも今、金森くんは言った。
――大切な人を目の前で嬲られて、黙っていられる僕じゃない
彼が発した、『大切な人』という言葉の真意はわからない。
だけど、『守られていた』という事実と共に、その言葉は私の胸を、優しく暖かく、ふんわりと包み込んでくれた。まるであの日彼から借りた、赤と紺のマフラーのように。
金森くんに守られていたという事実と『大切な人』という言葉は、私の心に安堵をもたらした。ホッとしたら私の目から涙がにじみ出た。一色さんに見られないよう、私はうつむき、指でこっそりと涙を拭いた。先程彼女に握られていた手首の痛みは、いつの間にか消えていた。
「……彼女に謝って下さい」
未だにその場に立ったままで、しかし声が少しだるそうな金森くん。彼は私への謝罪を一色さんに促すのだが……彼女もまだ、引く気はない様だ。私はうつむいているから顔は分からないけれど、その舌打ちは、私の耳にも確実に届いていた。
「は!? なんで私が!?」
「謝るのが大人ではないのですか」
「あんたら、やっぱり付き合ってるの?」
「……付き合ってません」
「は? ウソつかないでくださいよ。ここまで必死になって、付き合ってないわけないでしょ」
「違います」
もうきっと彼女は聞く耳を持たない。これ以上何を言っても……誠実に対応しても無駄だと、私は金森くんに言いたかった。私が金森くんに声をかけようと顔を上げ、彼の顔を見た時。
「僕が慕っているのは……」
彼は、自分なりの誠意を、彼女に見せた。
「……彼女の指導社員で僕の先輩。渡部正嗣さんです」
でもその誠実さは、通じる人と通じない人が世の中にいることを、私は知っている。
彼女は……一色玲香という人は、後者にあたる。『渡部正嗣』という男の名前は、彼女にとっては、質の悪い冗談としか聞こえなかったようだった。彼女は再び怒りで顔を歪ませ、今度は金森くんに、その矛先を向けた。
「意味わかんない。それ男でしょ?」
「男性です」
「嘘つくならさ。もっとマシな嘘ついてくださいよ」
「嘘では……」
「キッツいわ……アンタ……」
その瞬間、私の頭が真っ赤に染まり、頭の中で血管が切れる音が聞こえた。
「アンタねぇ!!!」
私は今度は自分の足で立ち上がった。誰かによって無理矢理にではない。自分の意志で立ち上がり、そして未だ涙が枯れない両目で彼女を睨んで、腹に力を入れ、大声を張り上げた。
「今!!! 金森くんがアンタごときに誠実に答えてくれたの、分かんないの!?」
「は? つーかうるさいんだけど」
「知るか! アンタがここからいなくなってくれるなら、いくらでもデカい声出すわ!!!」
「……」
「アンタ、仕事中の金森くんしか知らないでしょ!!! 好きな人の前でしか見せない姿知らないでしょ!!!」
「なにそれ」
「金森くんはね……いつもいつも周囲に気を配って微笑んでるけど、ホントに好きな人を前にしたら、めちゃくちゃはしゃぐんだよ!? ペンギンみたいにキモい動きして!! 子犬みたいにその人の周りでキャッキャいいながら、めちゃくちゃ楽しそうにはしゃぐんだよ!?」
「知らんわ」
「それはアンタがそんな金森くんを見たことないからでしょ!?」
私は、喫茶店の中に響くほどの大声で、一色さんに対しまくしたてた。金森くんが、本当に好きな人の前ではどんな様子なのかを、彼女に説明するために。
だけどそれは、叫んでいる私自身の胸にも、ザクザクと刺さって傷を残していく。
なぜなら、私の前では、金森くんはけっしてそんな姿を見せないから。
彼がそんな姿を見せるのは、渡部先輩の前でだけだから……。
そのザクザクと刺さっていく痛みが、私の目に再び涙を溢れさせた。気がついた時、私はボロボロと涙をこぼしながら、一色さんに金森くんのことをまくしたてていた。
「カイロを貸してくれたのだって!!! マフラーをかけてくれたのだって!!! 確かにうれしかったけど!! ……でも、それは……ッ」
「……」
「それが私だから……だって、私じゃ、ないから……ッ」
そして、そんな私を、金森くんは私の横で、ジッと見つめていた。相変わらず呼吸が浅くて、息苦しそうに肩で息をしながら。
一方の一色さんはというと……やはりというか何というか、眉間にシワを寄せ、不快感丸出しの顔で、私の言葉を聞いていた。私から顔をそらしてめんどくさそうに、お冷に度々口をつけながら、私の言葉を聞いていた。
大声に張り上げ続けた私の気持ちも次第に落ち着いてきた頃、一色さんはお冷をすべて飲み干した。テーブルにグラスを置く音がタンと耳に響き、その音は私をハッとさせた。
「……なんだ」
「なにが!?」
「アンタ、やっぱり好きなんじゃん」
「……?」
「アンタだって好きなんでしょ? 金森さんのこと」
「違う! 私は!!」
「私は?」
「か……ッ」
その答えを、私はすぐに口に出すことが出来なかった。私は『薫お姉さま』と言いたかったが……
――大切な人を目の前で嬲られて、黙っていられる僕じゃない……ッ!!
――大切な人にそんなことをされたら、誰だって不快感を抱くでしょう
その名前が出なかった。口に出そうとすると、大晦日の日に見た金森くんの横顔が……クリスマスの日に見た金森くんの力ない微笑みが……恵比寿駅で見せてくれた金森くんの頼もしい顔が、私の頭にちらついた。
違う。これは勘違いだと自分に言い聞かせるが、それでも頭の中の金森くんは消えてくれない。昨日撫でた彼の髪の感触が、昨日触れた彼の汗ばんだ肌の感触が、私の指先に蘇った。
ねえ金森くん。
昨日の夜、鍋焼きうどんを食べる時に、私達こんなやりとりをしたよね?
『美味しそう』
『美味しいと思うよ。料理上手な私の友達のレシピで、渡部先輩のアレンジも入ってるから』
『んーん。そうじゃなくて……』
『うん?』
『……なんでもない。いただきます』
『はいどうぞ』
あの時、キミは何を言おうとしたの?
『どうしてこんなに面倒見てくれるの?』と聞かれて私が『マフラーを私が借りたせいで体調崩したと思ったから』って答えた時、『……そっか』て寂しそうに答えたよね?
キミは、私に何て答えて欲しかったのかな……?
私はこの気持ちを、勘違いだと思い込むことが出来なくなってしまいそうだよ。
『私が好きな人は、薫お姉さまだ』と、胸を張って答えられなくなってしまうよ……。
私が言葉に詰まって何も言えなくなっているのを、一色さんは侮蔑の眼差しでジッと見ていた。やがて私達の耳に届くぐらいの舌打ちをした後、
「チッ……バカみたいじゃん私が……」
「何が……ッ!?」
「……アンタらキモいわ」
そう吐き捨て、立ち上がって店を出ていった。金森くんにわざとぶつかりそれを謝りもせず、最後まで不快な表情を変えないまま、ドアを開いて出ていった。私はうつむいているから、彼女が出ていった瞬間は見ていない。だけどドアが乱暴に開き、そして閉じられた音は、私の耳に届いていた。
「……金森くん」
「……ん?」
「……一色さん、行った?」
「行ったよ」
一色さんが、店から出ていった。その事実は、私の身体から緊張を取り去り、立っている力を失わせた。私は再びストンと腰をおろして、カキフライ定食が並べられているテーブルの上に突っ伏した。
「緊張したぁ〜……!!」
震える喉からやっと絞り出した第一声がそれ。さっきは気が張ってたから大丈夫だったけれど……なんのことはない。私はずっと怖かったのだ。
「……小塚さん」
「ん? なに?」
一方の金森くんも、顔から緊張が抜けているのが分かった。病み上がりだから息が浅いと思っていたのだが、そうではなかったようだ。いつもの穏やかさを取り戻していた彼は、息が整っていた。
「ここ、空いてる?」
「空いてるも何も、そのつもりで来たんでしょ!?」
「う、うん……一緒に食べようと思って……」
「だったら座る! ほらさっさと!!」
「……わかった」
私は今、全身から力が抜けてへろへろの状態だ。手だって震えてる。このままちゃんとカキフライ定食を食べ続けられるか怪しい。だからそれをごまかすために、金森くんに大声を張り上げ、わざと大騒ぎしてやった。
金森くんはすべてを察したのか、それともこんな私が滑稽に見えたのかは分からないけど……穏やかに微笑むと、さっきまで一色さんが座っていた私の向かいの席に座ってくれた。
「はーい。ちょっとごめんよ〜」
金森くんがメニューを開き、ランチの物色を始めるのと、ウェイトレスの奥さんが私たちのテーブルにやってきたのは、ほぼ同じタイミングだった。さっきまであれだけ大騒ぎしていたにもかかわらず、今の店内は静かだ。奥さんの声もいつもより穏やかで、その声を聞いているととても落ち着く。
「オーダー決まった?」
「えーと……病み上がりですから、ちょっと軽めで……」
「んじゃコーンスープにパンでもつける?」
「はい。それでお願いします」
「あと、アンタ」
「は、はい!?」
「あんた、ドリンクっていつもオレンジジュース頼んでたよね」
「え、ええ。覚えてくれたんですか?」
「まぁねー。彼氏の方も病み上がりだし、二人ともオレンジジュース……と」
そう言ってオーダーに勝手にオレンジジュースを追加する奥さんを私は慌てて制止する。今日はオレンジジュースはいらない。そう伝えたのだが……
奥さんはそんな私の手を指差した。私の両手は、さきほどの興奮でカタカタと震えていて、箸を持つことも出来ない有様だ。
「そんなんじゃ食べれないでしょ? あたしらのおごりだから、食べる前にちょっと気持ちを落ち着けな」
「え……」
「カッコよかったよ~? 必死に彼氏を守ってさ。いい彼氏じゃん。アンタのこともずっと大切にしてきてたんだし」
「いや、あの……」
「ちょぉぉおおおっと、賑やかだったけどね……タハハ……」
そう言って、奥さんは苦笑いで店内を見回す。私が入店した時にはお客さんが幾人かいたはずだが、店内はいつの間にかお客さんは私達だけになってしまっていた。
あとで奥さんから聞いたところによると、私達が喧々囂々と言い争いをしているうちに、面倒事を嫌った他のお客さんは、次々と退店していったそうだ。『しばらくはお客さんも減るかもしれないけど、まぁそのうち戻るでしょ』と、奥さんは私達が店を出る時に笑って許してくれた。
奥さんがいつものようにピラッと右手を上げ、テーブルから離れていく。少々……いや、盛大な大騒ぎをしてしまったが、この喫茶店での金森くんとのいつものランチが、やっと今、始まった。
「……あの、小塚さん」
「……ん?」
「ありがと」
「私だって。ずっと金森くんに守られてた……」
「いや……そんなの……」
こうして私達は、いつものようにカキフライとコーンスープを互いにシェアし、いつものように楽しいランチを堪能することが出来た。
この店に入った時は、『一人で考えたい』と思っていた。そしてその答えは、一色さんが乱入してきたせいで、今も答えは出ていない。
でも、まぁいい。金森くんと、いつものようにランチを食べる……そのことが、こんなにも嬉しいことだと気付いたから。彼と同じ空間にいるというとてもありふれたことが、私にはとてもうれしいことなんだと、気付いたから。
食べ終わり、二人で店を出て、会社へと戻る。
「ねー金森くん」
「んー?」
「ホントに体調は大丈夫?」
「小塚さんのおかげでだいぶ。まだ本調子ではないけれど、これなら仕事は出来るから」
「お姉さまたちは知ってる?」
「知ってるよ。喫茶店に入る前に係長と正嗣さんに会った」
「へー……」
「そこで小塚さんがランチに出たって聞いて、きっとあの店だろうって思って」
「そっか……」
こんな他愛ない会話を金森くんと交わせることが、こんなにも嬉しい。金森くんの顔も、いつもより少しだけ明るい。私と話が出来ることが嬉しいのか、それとも他に理由があるのかは分からないが……。
私達の間の距離も、心持ち普段よりも近い気がする。歩いている間、時々私の左手と彼の右手がコツンと当たるから、これは気のせいではないのかも。
そうして、心にポカポカと心地よい暖かさを感じたまま、私達は会社に戻ってきた。入り口ドアを開き、事務所に入ろうとしたのだが……
「……」
「あれ……薫お姉さま?」
「係長……正嗣先輩も……?」
ドアの向こう側には、薫お姉さまと渡部先輩の二人が立っていた。
「お前ら……」
渡部先輩は、私達の顔を見るなり眉をへの字に曲げて、困り果てた様子で私たちを見つめていた。
一方で、薫お姉さまの顔は、いつもの無愛想な顔だったのだが……
「……二人とも」
「は、はい」
「係長……あの……」
「第三会議室に来なさい」
「えっと……お姉さま?」
「なんですか」
「お姉さま……今すぐ、ですか……?」
「今すぐです」
腕を組んで仁王立ちしていた薫お姉さまの眼差しと全身は、私に怒りの感情を伝えていた。
私たちに背を向け、第三会議室に向かう薫お姉さまの背中は、ギスギスとして、刺々しかった。
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