大失敗だったのかもしれない①
いつも通りに出勤し、会社の前の大通りに差し掛かった。周囲をキョロキョロと見回し、私は昨日お世話になった渡部夫妻の姿を探す。スマホの時計で確認したところ、そろそろご夫妻はここを通るはずなのだが……
「うーす。小娘おはよー」
「おはようございます」
いた。いつも通りに渡部ご夫妻の姿が見えた。渡部先輩はいつものようにぐーたらでだらしない顔をぶら下げ、薫お姉さまは美しい御尊顔を見せてくれている。
「おはようございます薫お姉さま!」
私は走ってご夫妻の元に駆け寄り、そして薫お姉さまの手を取った。
「金森くんの様子はどうでした?」
「はい。もう熱は下がりました。でも今日は大事を取って休むように言ってあります」
「分かりました。では金森くんは今日まで有給という形にしておきますね」
「はい。よろしくです」
朝、私が一度家に戻る時の玄関でのやり取りを思い出す。金森くん、最後までごねてたもんな……出勤するほど体力が戻っているわけではないと思うから、今日は素直に休むと思うけれど……。
「おい小娘」
渡部先輩が、妙に神妙な顔で私の顔を見ていた。……思い出した。昨日は渡部先輩にものすごくお世話になった。お礼を言っておかないと。私は渡部先輩にお礼を言おうと先輩に顔を向けたのだが……
「渡部先輩、昨日は……」
「お前、昨晩はちゃんと寝たか?」
「はい?」
「寝たのか?」
えらく神妙な顔で、渡部先輩が私を問い詰める。その顔はいつになく引き締まっていて、見ている私に緊張が走った。
「……大丈夫です。ちゃんと寝ました」
「徹夜じゃないんだな?」
「はい。気がついたらソファで寝ちゃってて……」
「ならいい」
別にウソを言ったわけではなく、昨晩は本当にソファで眠ったのだが……それを聞いた渡部先輩はホッとため息をついていた。私が徹夜すると何かマズいのか?
「……じゃあそろそろ行きましょ。お姉さま!」
「はい?」
「手、つなぎましょ!」
私は再び薫お姉さまに向き直り、その麗しき御手を取る。お姉さまの手は今日も変わらず美しい。肌はきめ細かく、爪の形もキレイで理想的だ。
とここでいつもなら、薫お姉さまのお隣あたりに佇む渡部先輩から『やめろ!』という怒号が飛び交ってくるのだが……今日の渡部先輩は、私と薫お姉さまが手を繋いでも気にする素振りを見せず、眠そうにあくびをしてとことこ先に歩いていった。
「ふぁ〜……」
「……あれ」
「んお? どうかしたか小娘?」
「いや……いつもだったら、ここで渡部先輩からお叱りの声が飛んでくるのになぁと身構えてました」
「昨日、お前がんばったろ? 今日ぐらいは見逃してやる」
「ホントですか!?」
「そのかわり、明日からまた禁止だけどな」
やった! 渡部先輩から許可が降りた!
「ありがとうございます渡部先輩!」
「私はトロフィーですか……」
「いきましょ! お姉さま!!」
「……はい」
私はお姉さまの御手を強く握り、そしてぐいぐいと引っ張って、会社への道を元気よく歩いた。つないだ手から伝わるお姉さまの暖かさは、金森くんに負けないぐらい、とても温かい。
でもこの時、私は、ほんの少し寂しさを感じていた。
――大丈夫。離さないから
首を振り、私は前を向いて会社までの道のりを歩く。
正直なところ、この場に金森くんがいないのは、とてもありがたい。
私は今、とても混乱しているから。彼から離れ、冷静になる時間が欲しかった。じゃないとこの勘違いは、すぐには冷めなそうだったから。
会社につき、自分の席につく。隣では渡部先輩が、いつものぬぼーとした顔で席に付き、パソコンの電源を立ち上げていた。セットアップ画面が表示される最中、先輩は死んだ眼差しでマウスをぐるぐると回し、手持ち無沙汰を解消しているようだ。なんだかもうそのまま死後の世界に旅立っていきそうなほど、目に覇気がない。
そういえば、金森くんから先輩に伝言があったことを思い出した。
「ねぇ渡部先輩」
「なんだ小娘。ぬぼー……」
「金森くんから伝言です」
「なんだ」
「えーっと……」
私はここで、普段の金森くんの身振りを交え、彼の言葉を渡部先輩に伝えようとチャレンジしたのだが……肝心の渡部先輩が死んだ眼差しで私を見つめているため、少々気恥ずかしかったというのは秘密だ。
――うどんのしょうがアレンジ……正嗣さんの愛を感じました
「とのことで」
私は一言一句、彼の言葉を間違いなく伝えたのだが……その途端渡部先輩は、ただでさえ覇気のない表情からさらに生気を抜いた、もはや死体としか思えない顔を私に向けた。
「……お前、しょうが入れるの俺の入れ知恵だって言ったのか」
「その方が彼も素直に食べてくれるかなと思いまして」
「余計なことを……ったく」
渡部先輩はそう呆れながら、自分の画面を眺める。先輩のパソコンは無事に立ち上がったらしい。マウスのカチカチというダブルクリックの音が、先輩の手元から聞こえてきた。
「……なぁ小娘」
「はい?」
「お前の金森くんのマネ、怖いくらい似てたぞ」
「そうですか?」
「お前に金森くんの姿がダブって見えるぐらい似てたな」
「ひぇぇ……うれしくない……」
「よかったじゃないか小娘。社内一のイケメンと同類のアホだぞ」
「髪型トンスラにされたいですか」
その後は昨日のやり残しのエクセルでのデータ整理を進める。私は雑念を払うように、目の前のデータ整理に打ち込み続けていく。
今日は渡部先輩、あまり私にガミガミ言わない。そのため、時々薫お姉さまの様子をチラと伺い、そのお姿を拝見させていただいていたが……やはり金森くん不在は薫お姉さまにとってはけっこうキツいようで、お姉さまは終始忙しそうに立ち回っていた。
そうして午前中は何事もなく過ぎ、時刻は12時少し前。
「うーい。飯だ飯だー」
いつもの渡部先輩のお昼休みコールが入った。それと同時に薫お姉さまをはじめとした社内の全員が、やれランチだお昼ご飯だと動き始め、社内にお昼休みの空気が広がり始める。
私も仕事を中断し、これからお昼だ。財布とスマホが入ったバッグを手に取り……
――今日も一緒にあの店行かない?
いつものあの店に行くことにした。今日は一人で。
「小塚ちゃん」
「おい小娘」
「はい?」
私が一人で喫茶店にランチに行くことに気付いたのだろうか。いつも二人で食べている薫お姉さまと渡部先輩が、私に対してちょいちょいと手招きをしている。
二人の元に行くと、相変わらず二人のお弁当は美味しそう。とてもキレイな玉子焼きに美味しそうな春巻きが入っている。なんだか横から失敬したくなる。この見事なお弁当を作っているのが渡部先輩だという事実が腹立たしい。この女子力おばけめ。
「よかったら、今日は三人で食べませんか?」
「へ? でも私……」
「昼飯はコンビニで弁当か何かを買えばいいだろ? 金森くんもいないし、よかったら一緒にどうだ?」
んー……とても嬉しい申し出だし、私に対して妙に優しい渡部先輩も珍しい……これがいつもなら、私も二つ返事でご夫妻との昼食を楽しむことにするんだけど……。
「すみません。今日はちょっと、一人で食べたいんです」
「……そっか。分かった」
「すみません薫お姉さま……」
「それは気にしないでいいですよ。また今度、一緒に食べましょ」
「はい!」
「俺は無視か小娘」
「いえ、渡部先輩もありがとうございました」
「おう。気にすんな」
私は渡部ご夫妻にぺこりと頭を下げた後、バッグを持ったまま会社を出て、いつもの喫茶店ちょもらんまへと向かった。
今日、私は一人で静かにランチを食べながら、一人で頭を整理したかった。寝込む金森くんの頭を撫でながら、胸に抱いてしまった勘違い。頭を冷やして、その勘違いと向き合いたかったのだ。
喫茶・ちょもらんまの入り口ドアを開き、入店する。ひょっとして、あの金森くん狙いの一色玲香さんが今日も張ってるかもと思い、身構えて店内を見回すけれど……よかった。彼女は今日はいないみたい。
「いらっしゃ……あらめずらし。今日は一人?」
「はい。彼はちょっと風邪ひいちゃって……」
「あららお大事に。んじゃ空いてる席に勝手に座りなー」
「はい。ありがとうございます」
いつものウェイトレスの奥さんにそう言われ、私は空いている席を探す。最初に目についたのは、いつか金森くんと座った、窓際の席。奥さんの昔の写真が何枚か飾られている場所だ。そのテーブルに、私は腰を下ろした。
一人でメニューを開き、ランチを何にするか考える。今日パッと見で気になったのは、カキフライ定食とオムライス。どちらも以前に金森くんが食べていたもので、とても美味しかったものだ。
――違う逆だって 私から見て左
――あ、そっか……
しばらく考えた後、カキフライ定食を注文することに決めた。オムライスも食べたいのだが、あの日の金森くんのケチャップの惨劇を思い出してしまい、オムライスを頼むのに二の足を踏んでしまったからだ。口の周りにケチャップつけたまま会社に帰りたくないし……私はウェイトレスの奥さんを呼び、カキフライ定食を注文した。
程なくして、注文したカキフライ定食が私の元へと届けられた。テーブルの上に、カキフライが5個とサラダが乗ったプレートとご飯、そしてお味噌汁が奥さんの手によってテキパキと並べられた。
「んじゃ寂しいだろうけど、ごゆっくりー」
奥さんはそう言って振り返り、右手をぴらっと上げて去っていく。相変わらず、奥さんの髪は美しく、揺れるたびにキラキラと輝く粒が落ちてるように見える。
「……んじゃ、いただきます」
一人で両手を合わせて挨拶したあと、カキフライに箸を伸ばした。カキフライは揚げたてでまだ油のジュージュー音が聞こえている。タルタルソースをたっぷりつけて口に入れると、フライの中からはアツアツでジューシーなカキの身が飛び出してきた。
「おいしい。もぐ……」
反射的に出てきた言葉に反して、以前に金森くんからもらった時のように、眼の前のカキフライを美味しいとは思えなかった。
一人で静かに、もくもくと食べる。今日はおかずを分け合う金森くんはいない。今日は一人で胸に漂う勘違いの気持ちと向き合いたいから、一人でうれしいんだけど……だけど、やはり一人は寂しい。
「やっぱ一緒にごはん食べたかったかなぁ……」
ぽつりと口をついて出た。一人でご飯を食べるのは寂しい。では私は誰とランチを食べたかったのだろう。さっき私を誘ってくれた薫お姉さま? それとも……。
――気になるんでしょ? お一つどうぞ
一人で黙々とご飯を口に運ぶ最中、思い出すのは金森くんとのランチ。彼と他愛ない話で盛り上がり、美味しいランチを食べ、互いのメニューを分け合う……そんな、毎日何気なく過ごしていた、なんでもないはずの時間。
お味噌汁をすすったあと、2つ目のカキフライを口に運んだ。普段であれば、そろそろ金森くんからおかずを一つ催促され、そのかわり私も一つ何かをもらう頃合いなわけだが……一人ではそんな事が起こるはずもなく、ただ静かに、一人だけの時間が過ぎていく。
ご飯を口に運び、もくもくと食べる。今日、もしこの場に金森くんがいたら、彼は何を頼んだだろうか……オムライスはこの前食べていたし、カキフライ定食でもないはず……ひょっとしたら、クリームコロッケ定食か? はたまた珍しくカレーライスとか……でも客先に出る必要がある場合は、彼は匂いが強いものは食べないし……
……ダメだ。すぐに彼のことを考えてしまう。
違う。これは勘違いなんだと自分に言い聞かせ、私は再び、お味噌汁のお椀を口に運んだ。
「いらっしゃーい。一人?」
「はい」
「席は……」
「いえ相席します」
私がさして美味しく感じないお味噌汁をすすっていたら、来客を告げるドアの音とともに、やけに耳に刺さる女性の声が響いた。この声は聞き覚えがある声だ。だけど私は気にせず、そのままお味噌汁をすすり、その味を味わっていた。
かつかつと硬質な足音がこちらに近づいてきた。この足音はハイヒールの音。私は足音で誰のことかを見破る特技なんて無いけれど、この特徴的な足音はなんとなく誰か分かる。その女性が、私の向かいの席にドカリと座る。私は顔を上げた。
「ちょっと」
「?」
思ったとおりの人物だった。『座っていいよ』とは言ってないのに、向かいに座って私と相席した女性……それは、いつもランチ時に私を睨みつけてくる女性、一色玲香さんだった。
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