私のせいかもしれない②

 朝。いつものように出勤し、いつもの通勤路を歩く。会社が近づくにつれ、少しずつ弾んでくる胸にどことない違和感を感じつつも、私の足はそれに従い、少しずつ早く、大股で歩き始める。のだが、不思議と今日は、どこまで行っても見慣れたチェスターコートの背中が私の視界に映らない。


「あれ……?」


 いつもであれば、この大通りの道に入れば、あの見慣れた背中が歩いているはず。それなのに、今日はその姿は見当たらない。


 しばらく足を止め、私は周囲をキョロキョロと見回すが、それでも金森くんが姿を見せる様子はない。バッグからスマホを取り出して時計を見るが、別段いつもと時間は変わらない。それなのに、彼の姿は見当たらない。


 さっきまであれだけ弾んでいた私の胸が、少しだけ沈んだ。『こんな日もあるよね』と自分に必死に言い聞かせるが、その言葉などどこ吹く風で、私の意識はしょぼくれていく。自分でも意味がわからない。金森くんと会えなくて、なぜここまで意気消沈するのか。


「うーす小娘ーおはよー」

「おはようございます小塚ちゃん」


 ふと背後からそんな声が聞こえた。振り向くと、そこにいたのは渡部ご夫妻。渡部先輩は相変わらず朝からぬぼーとうっとおしいし、薫お姉さまは朝からとても美しくて、私の心に光を差す。


 だけど。


「ぁあ、おはようございますお姉さま」

「はい」

「俺は無視か小娘」

「おはようございます渡部せんぱーい」

「事務的挨拶をどうもありがとう。……つーか金森くんは一緒じゃないのか」


 渡部先輩のこの一言が、私の胸に妙に刺さる。


「一緒じゃないです。いつもここで会うんですけどねー」

「珍しいですね。この時間に金森くんがここにいないって」

「ですよねぇお姉さま……」

「会社に早く着いちゃったかちょっと遅れてるかどっちかだろ。よくあることだ」

「まぁ……そうですが」


 そこまで言うと渡部先輩はひときわ眠そうな欠伸をしたあと、私達を置いててくてくと会社へと歩いていった。


「お姉さま。手を繋いでいいですか?」

「まぁ今なら先輩も背中向けてるし、いいですよ」

「やった!」


 私は自分の気持ちを奮い立たせたくて、薫お姉さまの御手を取る。相変わらずお姉さまの手は美しい。色白で指はしなやか。爪の形もキレイで、まるで女性のお手本のような手だ。手を握っているだけで、心がぽかぽかと温かい。


 だけど。


「……」

「なんか元気が無いですが?」

「いや! そんなことないですよお姉さま!!」

「はぁ……?」


 一度沈み込んだ私の気持ちは、中々急浮上してこなかった。



 会社に到着して仕事をし始める時刻になっても、金森くんは姿を見せなかった。この会社は出社時間はある程度自由になっていて、始業時刻が過ぎた頃に出社してくる社員もいる。


 だが、金森くんはどちらかというと時間にはルーズではない方だ。入社してからこっち、始業時刻を過ぎてから出社してきたことなどほとんどない。時には客先に直行するときもあるけれど、今日の金森くんにそんな予定はなかったはず。


 私は他の部署から頼まれたエクセルでのデータ整理をこなしながら、薫お姉さまの様子を探る。薫お姉さまはいつもの仕事をこなしながら、時々電話で金森くんへ連絡をしているようだが……中々繋がらないみたい。


「……おい小娘」

「はい」

「人の妻に見とれてる暇があるなら、早く今月の社内新聞仕上げろ」

「今日はデータ整理頼まれてるからムリです」

「んじゃ、俺の仕事になっちゃうだろ」

「たまには3時間でテキスト10文字のワースト記録を気にしたらどうですか?」

「仕事での成功と人生の充実の二択なら、俺は人生の充実を取る」

「社会人としてサイテーですね」

「なんとでも言え。これが俺の人生哲学だ」


 横槍を入れてくる渡部先輩は適当にさばき、引き続きデータ整理を進めることにする。半分ぐらいが終了したところで、薫お姉さまの方に動きがあったようだ。お姉さまは受話器をがしゃりと置くと、いつもの様子で私たちのシマへとやってきた。


「……先輩。小塚ちゃんも」

「おう? 珍しいなこっちに来るなんて」

「お姉さま! ようこそ!!」

「はい。金森くんと連絡が取れました。風邪で熱が下がらないそうです」

「……マジか」


 私の胸が、一拍だけドキンと強く鳴った。


「え……金森くん、大丈夫なんですか?」


 少しだけ口が震える……ただ友達の風邪の具合を聞いているだけなのに。


「ムリをすれば大丈夫だそうですが、季節が季節ですから。今日は休ませました」


 お姉さまの口調は、なんだか淡々としていて事務的だ。仕事仲間で部下の一人が風邪で倒れているというのに……そのきれいな声が、なんだかとても冷淡に聞こえた。


「そっか。教えてくれてありがと。気になってたから」

「はい。では私は業務に戻ります」

「ありがとうございますお姉さま……」

「いえ。小塚ちゃんも気になってたみたいですから」


 そう言ったあと、踵を返して自分のデスクに戻る薫お姉さまの背中が、なんだかとても冷たく見える。こんなことは初めてだ。


 確かに薫お姉さまはいつもとても冷静だけど、その外見に反して、お姉さまはとても仲間思いで優しく、温かい。そのことは、私自身よく分かっている。


 なのに、今のお姉さまはとても冷淡に見える。金森くんという仕事仲間が風邪で休んでいるのに、あの冷静な様子は……少しぐらい、心配してあげてもいいんじゃないか……私は今、大好きなはずの薫お姉さまに対して、はじめて不快感を抱いた。


 お姉さまへの不快感を持ったまま、私は引き続きエクセルでのデータ整理に入るのだが……なんだか気が散っているのが自分でも分かる。どうしても、金森くんと薫お姉さまのこと、そしてなぜ私自身がここまで動揺してしまっているのかを考えてしまう。


 私がなぜ金森くんが寝込んでいることを聞いてこんなに動揺しているのか……それはおそらく、東京出張の時に私が彼からマフラーを借りてしまったからだ。


「おい」


 彼はあの寒空の元、マフラーを巻かずにいた。途中彼は何度か『さむっ』と言っていたから、彼はその時、体を冷やしてしまったのかもしれない。私が彼のマフラーを借りてしまったせいで。


「おい小娘」


 となると、金森くんの体調不良は私のせいになる……だから私は自分の罪悪感を誤魔化したくて、薫お姉さまに不快感を抱いて八つ当たりしているのかもしれない……だとしたら、私は最低だ……


「小娘!」


 考え事をしていたせいで、ずっと渡部先輩から声をかけられていた事に気が付かなかった。渡部先輩が張り上げたひときわ大きな声は、私の気持ちを正気に戻すには充分なインパクトを私の耳に届けた。


「は、はい!?」

「はいじゃないだろ。画面よく見ろ。セルの位置が1マスずつズレてるだろうが」

「へ!?」


 慌てて画面を見る。確かに途中から、セルへの入力が1マスずつズレていた。おかげで全体のレイアウトがなんだかおかしい。何も知らない無関係な人が見ても分かるレベルのズレだ。そら渡部先輩も声を張り上げるよ……


「どうしたお前?」

「いや……」

「金森くんの話聞いてから上の空だぞ」

「……」


 渡部先輩は無視し、事務所の中の壁掛け時計を見た。お昼休みまでは、まだ1時間ほど時間がある。金森くんは大丈夫か……もし、高熱にうなされでもしているとしたら……


 ……ええい。気になるなら様子を見に行ってしまえ。私はお昼から金森くんの様子を見に行く決心をした。そのためには午後から半休を取らないと。


「渡部先輩」

「お?」

「午後から半休とって大丈夫ですか」

「突然どうした」

「金森くんが気になります。様子を見に行きたいんです」

「家は知ってるのか」

「知ってます」

「……」


 私は渡部先輩に素直に理由を伝えた。この人は、その無駄に有り余る女子力で薫お姉さまをたぶらかした忌むべき存在だが、意外とこういうことに関しては、素直に相談をすると力になってくれることが多い。


 特に有給申請に関しては、この人はどんな理由であっても100パーセントの確率でこちらの申請を通す。課長や部長が何か文句を言ってきてもお構いなしに申請を通してくれる。その点では、非常に心強い存在……それが渡部先輩だ。


 渡部先輩は暫くの間、顎に手をついて考え、壁の時計をチラリと見た。その後私のディスプレイをジッと睨み……


「お前の今日の仕事はそのデータ整理だけか」

「はい。でもこれも急ぎじゃないです」

「……わかった。んじゃ有給申請用紙だけ書け。申請は俺が通す。書いたらすぐ帰れ」

「……いいんですか先輩」

「気が散ってちゃ仕事にならんし、お前の顔に『今すぐ行きたい』て書いてあるからな。半休と今から出発のラグは俺が適当に誤魔化しとくから、さっさと書け」


 渡部先輩はそう言いながら、自分のパソコンをササッと操作した。途端に隅のプリンターから一枚の紙がウィーンという音とともに排出される。渡部先輩の目配せに従い、その紙を手にとって見ると、それは有給休暇申請用紙だ。


「……ありがとうございます」

「いいから早く書けって」

「はいっ」


 ありがとう渡部先輩! 今だけはその背後から後光が見えるようですっ! 私は急いで申請書類に名前と必要事項を記入し、ハンコを押した。急いで書いたから字は少々汚いけれど、それでも読めるから大丈夫のはず。一度目を通し、間違いがないことを確認して、渡部先輩に手渡す。


 渡部先輩は私の書類を見るなり、一言『汚い……』とつぶやいていたが、そんなことはどうでもいい。今回に限っては、文字が読めて誤りがなく、ハンコが押されていればそれでいいのだ。文字の綺麗さ、丁寧さは今回は必要ない。


 私の書類をひとしきり眺めた後、渡部先輩はギョロッと私の方を見た。


「……よし。問題ない」

「じゃあもう行っていいですか?」

「急ぐのもいいけど、車とか気をつけろよ?」

「はいっ。ありがとうございます!」

「あいよ。金森くんによろしくな」


 渡部先輩に深々と頭を下げた後、私は急いでパソコンの電源を切って事務所を出た。


 今日はスーツだから履いているのはローファーだ。もし履いているのがお気に入りのコンバースだったら、もっと速く走れるのに……そんな歯がゆい気持ちを抱えながら、私は金森くんの家への道をひたすら走る。


 その道の途中。大きな交差点の赤信号に捕まったときだった。バッグの中を覗くと、スマホがチカチカと輝いていて、着信が届いていたことを私に伝えていた。


 バッグからスマホを取り出し、ロックを解除して着信履歴を確認する。私のスマホに届いていたのは、着信ではなく薫お姉さまからのメッセージ。赤信号はまだ当分変わらない。私は薫お姉さまのメッセージを確認した


――金森くんをよろしくおねがいします

  小塚ちゃんも風邪を伝染されないように


 薫お姉さまからのそのメッセージは、私の胸にほんの少し、罪悪感のひとかけらとしてチクリと刺さった。



 あの日以来二度目の来訪となる、金森くんの部屋の入口前に立つ。このドアの向こう側の金森くんが一体どういう状況なのか、私には想像すら出来ない。


 ……なんだか緊張してきた。胸がバクバクする。


「すー……ふぃー……」


 一度だけ深く深呼吸をし、震える右手を伸ばして、人差し指でインターホンを鳴らす。ピンポーンという音が鳴ってほどなく、インターホンから意外なほど元気そうな……でも普段に比べて鼻声で少しだるそうな、金森くんの声が聞こえてきた。


『あれ……小塚さん?』

「薫お姉さまから聞いた。熱が下がらないんだって?」

『うん』

「様子見に来た。開けて金森くん」

『ち、ちょっとまって。感染ったら大変だよ?』


 けっこう怠そうな声をしてるくせに、私の心配をする余裕はあるのかこのアホ金森は……ッ!! イラッとした私は、インターホンに向かってそのイライラのすべてをぶつけた。


「うるさい! いいから開ける!!」

『は、はいっ!?』


 色々なことで、わたしは結構なストレスが溜まっていたらしい。思った以上に大きな声が出てしまったことで金森くんをびっくりさせてしまったようだ。インターホンの向こうの金森くんは急いでインターホンの受話器を置いたらしく、けっこう大きな『がちゃり』という音が聞こえてきた。


 そうしてすぐ、目の前のドアの鍵がガチャリと外れ、そしてドアが開いた。


「……小塚さん」


 ドアの向こうの金森くんは、いつものスッキリしてイケメンな姿とは似ても似つかぬ様相だ。灰色のスエット上下の上から青いちゃんちゃんこを着込み、髪はちょっと汗ばんでボサボサ。目はいつもに比べてちょっとトロンとしていてダルそうだ。おでこに冷えピタが貼られているのがなんだか痛々しい。薫お姉さまは『意外と元気な声』と言っていたが、一体これのどこが元気だと言うのか。


「上がるよ」

「え……」


 私は金森くんの返事を待たずに部屋に上がる。部屋の中はあの時のようにキレイに片付けられているが、空気は若干湿っている。熱が上がった金森くんがずっとこの部屋の中で、一人で苦しんでいたからか。


 二人がけソファの前にある、オシャレなテーブルを見た。ノートパソコンが一台、電源が入ったままで広げられている。りんごのマークが背面についている、ムカつくほど金森くんに似合ってるやつだ。画面を見ると、何か書類を作成しているようだ。私が普段使っているものとは違う文書作成ソフトが立ち上がっていた。


「……仕事してたの?」

「いや、出来れば今日中に仕上げておきたくて……」


 私に向かって苦笑いを浮かべる金森くん。その顔を見ていたら、なんだかむかっ腹が立ってきた。こんなに怠そうで辛そうな格好をしているのに、それでも仕事をしようとしているのかこのアホ金森は……私はマフラーを借りてしまった責任を感じて、今こうやって彼のもとに駆けつけたのに、彼自身にとってそれは、苦笑いを浮かべる程度のことだというのか……


 私は隣で苦笑いを浮かべるアホカナモリの右手首をガシッと掴んだ。その手は温かいなんてものじゃなく、まるで長時間熱し続けたフライパンの鉄の取っ手のように熱い。


「こんッの……ッ!!!」

「ふぇ!?」


 手首をぐいっと引っ張り身体を翻して、私は金森くんをベッドへと押し倒した。金森くんは抵抗出来ずベッドにドスンと倒れ、それが彼の不調を如実に伝えていた。


「ちゃんと寝なきゃダメでしょ!! じゃないと治るものも治らないって!!」

「いや、でもホントに熱が高いだけで……ッ!?」

「いいから寝ろ!! このアホ金森がぁあッ!!」


 言うに事欠いてまだ言い訳をするかこの男は!! 私は未だ起き上がろうとする金森くんの顔を右手でガシッと掴み、枕にグリグリと押し付けた。


「分かった! 分かったから離し……ムガガガガカ!?」


 金森くんは悲鳴を上げながら必死に抵抗するが、身体に全然力が入ってない。本人は虚勢を張っているけれど、きっと相当つらいはずだ。私に力で負けている。


「あーもう! 様子見に来てよかったよ金森くん! これじゃいつまで経っても治らないって!」

「う……ご、ごめん……」


 私の叱責を受けてしおらしくなった金森くんは、ベッドの中から上目遣いで私を見る。今はここに私がいるからしおらしいが……申し訳ないけれど、まったく信用できない。今だって、私の方を見ながらもテーブルの上のパソコンの方をチラチラ見てるし。


 決めた。今日は夕方ぐらいまでいたら帰るつもりだったけど、一晩中金森くんを監視してやる。


 私はテーブルの上のノートパソコンの元へ行くと、タッチパッドを使って操作を始めた。……でも困った。いつも使ってるパソコンと操作方法が違うから、どこをどうすれば電源が切れるのかわからない。


「金森くん! これ!!」

「な、なに!?」

「どうやって電源切るの!?」

「え、いやちょっと待って……まだ書類出来てな……」

「あンッ!?」

「ひ、左上のりんごのマークをクリックして、『システム終了』……です」

「ここかッ!」

「いやでも待って!!」

「何を!?」

「せめて保存!! 保存させて!!」


 仕方ない……電源の切り方はわかったが、ファイル保存のやり方は私にはわからない。私はそのノートパソコンを金森くんのベッドの上へと置いた。


「んじゃあ私、ちょっと着替えて買い物に行ってくるから! パソコンの電源落としたら、静かに寝るように!!」

「ぇえ!? でも小塚さん仕事は!?」

「そのために半休取ったの!! 私が帰ってきた時に寝てなかったら、その髪の毛おでこから後頭部方面に向かって3センチむしりちぎっていくから!! おでこの面積増やすよ!?」

「う……は、はい……」

「あと鍵!! この部屋の鍵は!?」

「げ、玄関っ!!」


 存分に金森くんにすごんだあと、私は怒りに任せてドスドスと足音と響かせて、玄関へと急ぐ。鍵は……これか。この、下駄箱の上にぽいと置いてある、かわいい豆柴のキーホルダーがついてるこれか。こんなとこまで渡部先輩の影響を受けているのか、あのアホ金森は。怒りに任せてそれをふんずと掴み取り、ドアを開いて外へ出た。


 バタンと閉じたドアに鍵を差し込み、ガチャリと鍵をかけた。


「……うしっ」


 バッグからスマホを取り出し、友人にメッセージを送る。キレイな黒髪のその友人は料理が上手で、体調を崩した恋人に鍋焼きうどんを作ってあげたという話を聞いたことがある。風邪といえば鍋焼きうどん。私はそのレシピを聞くため、彼女に連絡を取った。



 一度家に戻り私服に着替え、スーパーで必要なものを購入した私は、その後急いで金森くんの家まで戻ってきた。ドアの前で一度深呼吸をし、ポケットからこの家の鍵を取り出して、それを眺める。


「……」


 私が彼の家の鍵を持っている……その事実が、妙に私の胸をくすぐる。


 鍵を差し込み、静かに回した。ガチャリという音を確認し、ノブを回してドアを開く。静かに部屋に入り、音が鳴らないよう、私は静かにドアを閉じた。


 耳をそばだて、部屋の中の様子を伺う。音は何も聞こえない。パソコンのキーボードを叩く音も聞こえない。


「……ちゃんと寝たのかな?」


 少しだけ安堵し、豆柴の鍵を下駄箱の上に置いてコンバースの靴を脱いだ。部屋へと上がって居間に入ると、ベッドの上の布団がこんもりと持ち上がり、静かに小さく上下しているのが見て取れた。


「……」


 こっそりと覗き込んでみる。いつか見たことのある、とても穏やかな寝顔がそこにあった。額に冷えピタを張ったままの金森くんは、とても穏やかな、安心しきった赤ちゃんのような寝顔で、静かにすーすーと寝息を立てていた。


 その穏やかな顔を眺める。ほっぺたから顎にかけて、うっすらとヒゲが伸びていることに気づいた。親父のように濃く青い無精髭ではない。ほんの少し分かる程度だが、いままで決して見ることのなかったヒゲが、彼の顎からうっすら伸びていた。


「……」


 ついフラフラと手を伸ばし、金森くんの頬に触れた。


「ザラザラだ……」


 さっき掴んだ手首のように熱い肌の感触に混じって、ほんの少しだけ、ザラザラとした触り心地を感じる。普段なら毎朝キレイに剃っているであろう、金森くんの無精髭の感触だ。


「無茶して……ホントは辛いんじゃん……」


 そのザラザラした頬をさすり、そして髪を撫でる。金森くんの髪はすこし汗っぽく湿っているが、髪質そのものはとても素直だ。私の手櫛に素直に梳かれている。


「……ん。あれ」

「!?」

「ぁあ、おかえり」


 私が金森くんの頬や髪を触りすぎたらしい。さっきまですやすやと寝息を立てていた金森くんがうっすらと目を開け、そして力なくニヘラと微笑んだ。


 その笑顔で見つめられた私は、金森くんの髪を撫でたまま、身体が硬直してしまった。


「えっと……」

「……」

「……なに、してるの?」


 どう言い訳すればいいのか……と頭をフル回転させる私に、金森くんがさらに追い打ちをかけてきた。考えても考えても、言い訳を思いつくことはなく……


「うう……」

「うう?」

「ね、寝ろッ!!」

「わ、分かった! 分かったから!!」


 困り果てた私は、とりあえず勢いで誤魔化し、彼の顔を再び右手でふん捕まえて、枕にグリグリと押し付けた。ごめん金森くん……風邪で調子悪いのに……

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