私のせいかもしれない①

 初めての東京出張をこなした翌日の今日。私はいつも通りのスーツを着て、いつもと変わらず会社に出勤した。


 昨日は新幹線で東京に戻った後、そのまま直帰した。一度会社に戻っても良かったのだが……さすがに慣れないことの連続で、私と金森くんは疲れ切っていた。二人でくたびれ果て、新幹線が私達の駅の一つ前の駅を出発した頃、渡部先輩から……


――お前らも疲れてるだろうし、今日は直帰しろ


 そんなありがたいメッセージがスマホに届いていた。正直、この指示はありがたかった。


 そんなこともあって、私達はそのまま直帰。そして今日、そのままいつものように出勤している。


 寒空の下をいつものように出勤する。昨日と比べて今日はとても寒い。私は昨日は着なかったコートを羽織って出勤しているが、それでも寒い。特に首筋あたりが。


 寒さに震えながら、いつもの出勤路を歩く。会社が近づいてきた頃、私の視界に、見慣れたチェスターコートの背中がゆらゆらと歩いているのが見えた。


「……あ」


 つい声を上げた。私の足がほんの少しだけスピードを上げ、その背中の右隣へと急いでいく。右隣に並んだら、彼の顔を見上げ、そして挨拶。


「金森くんおはよ」

「……ぁあ小塚さん、おはよ」


 金森くんの笑顔は、今日もニヘラと力ない。会社に着くまでは私の友達『金森くん』のままのようだ。昨日のような鋭い眼差しは、まだ鳴りを潜めている。首には見慣れた赤と紺のストライプのマフラーが巻かれている。このマフラー、昨日私が巻いてたんだよね……


「昨日はありがと」

「何が?」

「ほら。そのマフラー貸してくれたし」

「ああ。そういえば今日もマフラーしてないね」

「今日はいいかなと思って。コート着たし」

「そっか」

「うん」


 そんな他愛ない会話がなんとなく楽しい。今までは特にそんなことなかったのに、彼と言葉を交わすことが、なぜか今日はとても楽しい。


 ほどなくして、金森くんの顔が妙に神妙になる。宙を見つめ、子犬のような幻の耳をぴくぴくとさせ……


「……先輩……正嗣先輩?」


 ぽそりとそう口ずさんだ。これは、あれだ……あの人達が、近くにいるんだ。金森くんのセンサーの感度はすごいなぁ……。感心しながら、私はそんな金森くんの様子を伺う。


 ぴくりと動いた彼は、次の瞬間勢いよく後ろを振り向いた。彼のその視線の先には……


「正嗣先輩!!」

「うーす。おはよー」

「おはようございます」

「係長も!!」


 私たちの想い人で、それでいて私たちのライバル、渡部ご夫妻がいた。相変わらず渡部先輩は朝からぬぼーとした顔をしてだらしないし、薫お姉さまの御尊顔は朝からとても美しい。


 金森くんは『おはようございます!!』と実に元気に満ち溢れた挨拶をしながら、今日もペンギンのようなポーズでちょこまかとご夫妻の周囲を周り始めた。彼の動きは相変わらずキモくて、それを見ていた私の顔に、つい苦笑いが浮かぶ。


「小塚ちゃんもおはようございます」

「はい! おはようございますお姉さま!!」


 私も薫お姉さまと挨拶を交わした後、ご夫妻の元へと向かう。渡部先輩は相変わらず金森くんをうっとおしそうにさばき、薫お姉さまもいつもと変わらずお美しい。


「昨日はどうでした?」

「はい! 行ってみて正解でした! とても楽しい出張でした!」

「よかったです。なら、小塚ちゃんにも今後はちょくちょく行ってもらいますね」

「はい!」


 そんなうれしいことを薫お姉さまは行ってくれる。そっか。また東京に行けるのか……胸にほんのりとした暖かさを感じながら、金森くんの様子を伺うと……


「アッ!? せ、先輩ッ! マフラー引っ張らないで……く、苦しッ……!?」

「だまれッ!! いつもいつも朝から俺につきまとって……!!」

「あ……でもせんぱ……そんな野性味溢れるせんぱいも……イイ……ッ!!」

「朝から喘ぐなッ!!」


 とこんな具合で、渡部先輩からマフラーを引っ張られ、首筋をマフラーで実にフワッと絞められていた。それでも金森くんはとても楽しそうに満面の笑顔を浮かべ、ほっぺたをほんの少し赤くしていた。


「……ッ」


 その光景を見た時、ほんの少しだけ虫の居所が悪くなった。


「……ッ」

「小塚ちゃん?」


 そんな私の様子に気づいたのか、薫お姉さまが私の顔を覗き込んできた。結構顔が近いせいか、薫お姉さまの目がとてもキラキラと輝いているように見える……だけど……


「……は、はい?」

「どうかしました?」

「……いえっ」


 言えない……あの二人が楽しそうにじゃれついているのを見て、ほんの少しイラッとしただなんて……私だってその理由がわからないんだし……


 その場をごまかすためなのか、それとも何かのあてつけなのか……それは自分でもよく分からないが、私は薫お姉さまの右手をパシッと握り、


「行きましょお姉さま!!」

「は、はぁ……?」

「ほら! 早く行かないと遅刻しちゃいますから!」


 そのままお姉さまと手をつないで、会社へと急ぐことにした。


「あ! 待て小娘! 薫を強奪するな!!」

「知りません! そこで金森くんといつまでもじゃれてればいいじゃないですか!!」

「い、一日中、正嗣先輩とこうしていいんですか!?」

「それは私が困るのですが……」

「いいんですお姉さま! 私が金森くんの代わりにがんばりますから!!」

「待てお前ら!! 先に行くな!!」

「ちょ!? マフラー引っ張らないでせんぱ……あでもちょっとこれ、イイかも……!?」


 朝っぱらから周囲にこだまする金森くんの喘ぎ声が、今日は妙に私の機嫌を損ねる。


「……ッ!!」

「小塚ちゃん?」


 心配そうな薫お姉さまの声は全部無視をして、私はそのまま会社に急ぐ。薫お姉さまの手を引っ張って、いちゃついてる野郎二人は、そのままそこに置いておいて。



 会社に到着した後は、本当にいつもどおりの仕事が待っている。昨日のように楽しくもない、また社内報や他の人のための資料作成の日々だ。


 今も私は、社内報を作っている。そしてその横では、渡部先輩が暇そうにあくびを繰り返すばかり。


 しかしこの人、本当に何もしない……さっきから暇そうにあくびを繰り返し、そして時々思い出したようにキーボードを一度だけ叩く。おかげで仕事の進行スピードがものすごく遅い。『午前中の3時間の仕事の成果がテキスト10文字』という恐るべきワースト記録は、私が知る限り、この人だけだ。


「ホントに仕事しませんね渡部先輩……」

「急ぎの仕事なんかないからな」


 私の嫌味にも渡部先輩は臆することなくそう答え、再びあくびを繰り返していた。


 渡部先輩の体たらくに呆れながらも、私は社内報を作り続ける。文面を仕上げ、書式を整えた後は……どうせ社内報だし、少しばかり遊んでもいいだろう。昨日に古賀さんからほめられた猫のイラストを入れてみることにした。


 私がペイントソフトを立ち上げ、マウスでへろへろの猫のイラストを描いていた、その時だ。


「そういや小娘」

「はい?」


 さっきまで眠そうにあくびを繰り返し、今しがた人差し指一本で『Y』のキーを押した渡部先輩が、いつものぬぼーとした顔で私の画面を見つめていた。何か不備でもあったのかと少しドキっとしたのだが……


「昨日の夜、薫から聞いたぞ」

「お姉さまから? 何をですか?」

「お前の資料、先方の受けがよかったらしいな」

「はぁ。おかげさまで」

「先方がわざわざ薫に連絡くれたらしい。『あなたの部下が作った資料はとても楽しい』てさ」

「……」

「でかした小娘」


 渡部先輩の言葉を聞き、私は顔がニヤけるのを必死に我慢していた。直接褒められたのもうれしいが、わざわざ連絡までしてくれるということは、本当にあの資料の出来がよかったということか……。


 しかし、私は渡部先輩のことがあまり好きではない。だからこのことに関しても、『これもお前にパワポのイロハを教えた俺のおかげだな小娘』と、コチラを煽ってくることしか言わないだろう、と思っていた。


 だから私は、この渡部先輩の前では絶対に顔をニヤニヤさせまいと、妙な意地を張っていた。


「せんぱいのおかげでーす。ありがとうございまーす」


 そんな私だから、先輩へのお礼の言葉もどこかいい加減で、心のこもってないお礼を言ってしまったのだが……


「いや、これは俺は関係ない。お前の実力だ」

「え……」


 渡部先輩の予想外の返答に、私は一瞬戸惑い、それを声に出してしまった。まさか常日頃いがみ合っている渡部先輩から、素直に褒められるとは……


「先輩」

「ん?」

「熱でもあります?」

「失礼だぞ小娘」


 思わず口から発してしまった私の失礼な言葉を聞いた先輩は、少し顔をしかめ、そして頭をボリボリと掻いた。


「ほんっとうちの女性社員は先輩に対して失礼だな」

「それ女性差別ですよ」

「ホントのことだよ……薫にしてもお前にしても……」

「私は渡部先輩にだけ失礼なんで大丈夫です」

「余計にタチが悪いわ小娘」

「その小娘っていい加減やめてもらっていいですか」

「お前が薫を卑猥な眼差しで見つめるのをやめたらな」

「……チイッ!」


 最後はいつもの通りの言い合いになってしまったけれど、この渡部先輩からの予想外の称賛は、私の心に、さらにじんわりと喜びを広げてくれた。


 その後は、いつものように仕事を終え、いつものように帰宅した。もう恒例になりつつある金森くんとのランチでは、やっぱり恒例になりつつある一色玲香さんとのエンカウントを躱し、そして金森くんと二人でランチを食べた。


 その時、ちょっと気になっていたのが、金森くんの様子だ。


 彼は今日一日、よくクシャミをし、鼻をすすっていた。少し心配になり、ランチの時に金森くんに話しを聞いてみたところ……


『なんかお昼前ぐらいからくしゃみと鼻水止まらないんだよね』


 と困った顔をしながらエビグラタンを食べていた。もちろん、フォークですくったグラタンを口に運ぶ度、『あづッ!?』と悲鳴を上げながら。


 その時は『ふーん』としか思ってなかったが……翌日、私はそのことを後悔することになる。


 翌日。金森くんは高熱を出して、会社を休んだ。


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