この人とは楽しいかもしれない②

※今回の話は普段に比べてけっこう長いです。

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 昨日の退社前、『明日は出発前に出社してもいいですし、直行でも結構です』と薫お姉さまに言われた私達は、朝、最寄りの新幹線の駅で待ち合わせをすることにした。東京に行くのに、いちいち出社することもない……二人で相談した結果、そういう結論が出たからだ。


 お母さんに駅まで車で送ってもらい、私はこの駅ただ一つの改札口の前に立つ。金森くんは……まだ来てないか。会社支給の新幹線の切符は金森くんが預かってるはず。なら、私はただ金森くんを待つだけだ。


 ちなみに私は今日、相当に気が抜けた私服を着てきている。私はいつものスーツを着るつもりだったのだが……金森くんが昨日の別れ際に、


『んじゃ、明日は私服で来てね』


 と不意にぽんと言ってきたものだから、つい『お、おう』と了承してしまったからだ。だから今日は紺のスーツにスカートといういつもの仕事スタイルではなく、上は遠赤タイプの暖かい肌着に赤のチェックシャツ。その上にふわふわしたニットだ。下はロールアップしたデニムにいつもの赤のコンバース。上にもう一枚何かを羽織ることも考えたが……


「んー……今日は暑い……」


 離れた場所にあるこの駅の北口から、外の様子を眺めた。今日は1月にしてはえらく天気がよく、気温も若干高い。上に何も羽織ってないこの状況でまったくもって寒くなく、むしろ暑いぐらいの天気だ。だから私は、上着を羽織らずに出発することに決めた。


 荷物もいつものバッグではなく、今日はリュックだ。キャンバス地のこのクリーム色のリュックはとても頑丈で荷物もたくさん入る。今日は仕事用のiPadも入っているから少々重いのが難点だが……。


 そうして、待つこと数分。


「おはよ〜」


 いつもの気が抜けた挨拶とともに、我らが金森くんが反対側の南口から姿を現した。のだが……


「……あれ、小塚さん」

「ん?」

「どうしたの、その格好……」


 彼は開口一番、そんな言葉を口にした。


「え……でも、金森くんが……」

「へ……?」


 ちょっとうろたえた様子で言葉を続ける金森くん。そんな彼の服装は、普段の仕事着のスーツに比べると幾分くだけた感じではあるけれど……どちらかというと、私のザ・普段着の出で立ちよりもフォーマルだ。いつもの少しだけ赤みがかった黒のチェスターコートに上下のスーツ。トップスには白のセーターを着て、靴も革靴を履いている。持っているバッグも大きなブラウンの革製のもので、いつも仕事で使っているものだ。


 唯一、首に巻いている赤と紺のストライプのマフラーが、このフォーマル寄りな金森くんの服装に、若干のカジュアルの風を吹き込んでいる。といっても出勤時の彼がいつも身につけているものだけど。


 そんな金森くんの出で立ちを見て、私はなんだか不安になってきた。たとえカジュアル寄りとはいえ、そのまま出勤してもおかしくない格好でやってきた金森くんに対し、たとえ前日に『私服でいいよ』と言われたとしても、ザ・普段着を着てきてしまった私……


「……いやでも金森くんが私服でいいなんて言うから!」

「?」

「金森くん、そんな格好で来るならちゃんと教えてほしかった! そしたら私もちゃんと考えて服選んだのに!!」


 つい、声を荒げて金森くんを責めてしまう。でも本当のことだ。就活していた時、採用試験の時に『私服でお越しください』という文言に踊らされ本当に私服で行ったら、他の人達は全員リクルートスーツだったときのような、そんな気恥ずかしさだ。別にやましいことはしてないはずなのだが、妙に気恥ずかしい。


 金森くんは、そんな私の様子を見て、最初意味から分からないようで眉間にシワを寄せていたが……


「……」

「……ッ!」

「……ぷっ」


 やがて、私が憤っている理由がわかったのか、口を押さえておかしそうに吹き出していた。最初は私もものすごく不快に感じたけれど……


「なにがおかしい金森くんッ!」

「ああ、いやごめん。あのね。服装のことじゃなくてさ」

「んじゃ何なのッ!!」

「東京の方は今日は寒いよ?」

「へ……?」


 しまった……金森くんは私がザ・普段着な格好をしてきたのを驚いたんじゃなくて、どう見ても防寒対策が微塵も感じられない服装に驚いていたのか……


 よくよく考えてみれば、金森くんは結構な厚着をしているのが見て取れた。スーツの上にはいつものチェスターコートだし、マフラーだって巻いている。この服装なら、今はめちゃくちゃ暑いだろうが、たとえ東京で雪が降っていても寒いということはないだろう。


 対して私の服装は……インナーに暖かい肌着を着ているとはいえ、寒さに対してあまりにも無防備な格好をしている気がする……。


 しまった……これは失敗だ。東京に出るわけだから、ここでの気温だけで判断せず、ちゃんと東京の気温も把握しておけばよかった……


「しまったぁ〜……」

「まぁ……ひょっとしたら予報外れてるかもしれないし」


 意気消沈してがっくりと肩を落とす私に対して、金森くんが慰めの言葉をかけてくれた。いやぁ金森くん……最近の天気予報の正確さは私も知ってるよ……その天気予報を見た金森くんがそれだけ厚着して防寒対策しているというのなら、きっと東京は寒いだろうさ……


「うう……慰めてくれてありがとう……」

「まぁ、向こうに着いてどうしても寒かったら、上着買おうよ」

「そうする……」

「でも、よく似合ってると思うよ。その服」

「そっか……ありがと……」

「どういたしまして」


 そうして私は苦笑いする金森くんから新幹線の切符を受け取り、金森くんと二人で東京行きの新幹線へと飛び乗った。



 東京の一つ手前の品川駅に到着し、私たちは他のビジネスマンらしき人たちに紛れて、新幹線から降りた。のだが……


「さむッ!?」

「タハハ……」


 ホームに降りた私たちを待ち構えていたのは、東京の容赦ない寒気。車内の暖房のせいもあるのかもしれないが、私達の街と比べてものすごく寒い。大晦日のあの日の夜を思い起こさせるレベルの寒さだ。私は反射的に悲鳴を上げ、途端に身体をガクガクと震わせた。


「寒いね〜……ッ!! 寒いってか、顔が痛い!?」

「だから言ったのに……」


 ガクガクと震える私の横で、金森くんのは苦笑いを浮かべる。私は私で、この寒さに耐えるのが精一杯だ。私達の街がいかに暖かい気候なのかを、私はやっと理解した。インナーのめちゃくちゃ暖かいはずの肌着も、まるで効果がない。新幹線に乗る前はあんなに暖かかったのに、今では私は震えることしか出来ない。歯がガチガチと音を立て始めた。


 私は寒さをこらえるのに精一杯で、その時、金森くんが私を見つめていたことに全く気が付かなかった。彼の眼差しに気付いたのは、彼が私の首に、自分のマフラーをフワリとかけてくれたときだった。


「え……」


 むき出しの私の首筋が、ふわりと優しく暖かいマフラーの感触に包まれる。


「次からは、ちゃんと行き先の天気も確認するんだよ?」

「え……でも……」


 困惑する私の言葉など聞こえないように、金森くんは私の首に丁寧にマフラーを巻いていく。一周首に巻いたあとは、器用にクルッとマフラーを返している。よく『ニューヨーク巻き』って言われてる巻き方をしているみたいだ。


 その間、金森くんは、いつか見た深刻そうな難しい顔をしていた。声の調子を鑑みるに、別段怒っているというわけでもないようだけれど……


「はい終わり」


 されるがまま、私は金森くんにマフラーを巻かれてしまった。巻き終わるのと同時に、金森くんは私の肩をぽんと叩き、そしてニヘラと微笑む。


「……」


 金森くんのマフラーが大きいのか、それとも単に私が色々と小さいせいか……私の首はおろか、顔の下半分、口元までがマフラーに覆われている。多分原因は前者だな。そう思いたい。じゃないと、色々と悲しくなるから。


 さっきまで金森くんがつけていたせいか、マフラーはほんのりと暖かい。首筋がすべてマフラーで覆われただけで、こんなにも暖かいものなのか。私の身体は、いつの間にか寒さを感じなくなっていた。


「……あったかい」

「首を覆っただけでね。だいぶ違うよね」

「……あったかい! あったかいよ金森くん!!」

「何回も繰り返さなくていいんだよ?」


 大はしゃぎする私に対し、恥ずかしいのか苦笑いを浮かべる金森くん。鼻の頭をポリポリとかき、ほっぺたはいつもよりほんのりと赤い。


「……よし。じゃあ行こう。最初は池袋だ」

「どう行くの?」

「ここからなら山手線で一本だけど……覚悟はしておいてね」

「?」

「あと、リュックはちゃんと手に抱えていこう」

「? ??」


 言われるままに、リュックを手に抱える私。なぜ、せっかく背負って楽が出来るリュックをわざわざ手に抱えなければならないのか……その理由は、数分後に身をもって理解することになるのだった。



 数分後。私達は山手線に乗り、池袋を目指したのだが……


「か、金森……くんッ!?」

「ん?」

「これは……!?」


 私はこの時初めて、金森くんが『リュックは手に抱えていこう』と言った理由が初めてわかった。理由はこの『朝の通勤ラッシュ』というやつだ。狭い車内に、老若男女たくさんの人達がひしめき合い、さながら大阪名物の押し寿司の米粒の様相を呈している。電車がスピードを上げる度、カーブに差し掛かる度、そして停車するたびに、私の四方に密着した人たちよって身体を押され、私はしっかりと立ち続けることが難しい。


「こ、これが東京……ッ!?」

「あれ? 小塚さんは東京ははじめて?」

「初めてじゃないけど……ラッシュは、初めて……ッ!?」


 私の前に立つ金森くんは、このラッシュの中で涼しい顔で立っている。もはや身動きするのも難しい状況で、金森くんは実に安定した姿勢でどっしりと立っている。座席の上の荷物置き場にささっと自分のバッグを置いて、右手でつり革を持って微動だにしない。


 一方の私はどうだ。眼の前はおろか前後左右を知らない男女でみっちりとうめつくされ、手が届かないからつり革を掴むこともできず……ただひたすらバランスをとって、なんとか立っていることが精一杯だ。


 聞きしに勝る通勤ラッシュ! 東京に住まう企業戦士たちは、こんな状況で毎日出勤してるのか……ッ!? と私は戦慄を覚えた。これでは会社に到着する前に疲れ切ってしまうだろう。東京の人たちの体力は底なしか。


 おまけに、みっちみちの車内では本当に身動きが取り辛い。私の左隣の男性に、身体が密着しているのが怖い。その男性は私に背中を向けてはいるけれど、やはり知らない人と否応なしに身体が密着するのは恐ろしい。今まではあまり意識したことはなかったが、迷惑度指数700パーセントの犯罪である、痴漢の危険性を意識せざるを得ない。


 ほんのりと身体に力がかかり、私の身体が電車の進行方向……つまり、私にとって前の方向に力がかかったのを感じた。電車がゆっくりとスピードを下げているらしい。慣れない私はバランスが取れず……


「ぶっ!?」

「ぉお?」


 思わず金森くんの身体にポンと飛び込んでしまった。


「ご、ごめん!」

「いいっていいって」


 思わず顔を上げ、金森くんの顔を見た。彼はこの満員電車の室内にもかかわらず、ニヘラといつもの力が抜けた笑顔が見せた。


『上野~。上野~』


 車内に放送が鳴り響く。次の駅は上野駅。私は金森くんから顔を背けて、車内の路線図を見た。池袋はまだまだ先だ。このすし詰め状態のまま、まだまだ耐えなければならないのか……。


 窓の向こう側の光景に、駅のプラットフォームが流れてきた。どうやらここが上野駅らしい。駅のホームは恐ろしい人だかり……おそらくこの電車から降りる人もいるだろうけれど、それと同じかそれ以上の人たちがこの車内にまた入ってくるのか……恐怖しかない。


 電車のドアが開く。車内の人たちの幾人かが、その開いたドアに向かって動き始めた。


「ぅあ!?」

「小塚さん!?」


 その人の流れに、私の身体がぐいぐいと押されていく。慣れない人の流れの重圧に、私はただ流されていくばかりだ。


「ちょっとまって……ここで降りないから私……ッ!?」


 なんとか人の流れに逆らいたいんだけど、流れの強さはとても強い。私は必死に抵抗するけれど、ただひたすらドアに向かって流されていくばかりだ。


 そうして、あと少しでドアから出てしまう、そのときだ。


「ぅえ!?」


 私の左の二の腕が、誰かにガシッと掴まれた。その手はとても大きく、力強い。


 私を掴むその手が、グイッと私を再び車内に向けて引っ張り込んだ。人の流れにも負けない強さでその手に引っ張られた私のその先にいたのは、真剣な表情の金森くんだ。


「おっ?」

「……ッ」


 金森くんの胸元に、私はそのまま飛び込んでしまった。私の二の腕を掴んでいた彼の手は、私が彼の胸に飛び込んだその途端に私の腕を放し、そして私の背中を背後から優しく支えていた。


「よかった。流されちゃうから、気をつけて」

「あ、ありがと……」


 私の頭のすぐ上で、金森くんはニヘラと微笑む。いつもより近い距離で聞く金森くんの声が、妙に私の耳をくすぐってくる。それが妙にこそばゆい。


 気恥ずかしくなり、私はうつむいてマフラーに顔を埋めた。路線図を見ると、池袋までの道のりはまだまだ長い。池袋まではあと何分なんだろう。……その間、私はずっと金森くんの胸の中にいなきゃいけないのか……守られるのはうれしいが、なんだかとても恥ずかしい。


「……」

「……?」


 思い出した。そういえばこのマフラー、金森くんのマフラーだ……。



 死ぬ思いで池袋駅に到着し、駅構内でもたくさんの人の流れに流されつつ、でも金森くんに手を掴まれて引っ張られながらも、なんとか私達は目的地の高層ビルに到着した。


「ゼハー……ゼハー……」

「……小塚さん?」

「なに……ゼハー……」

「……大丈夫?」


 私のこの状況を見て、大丈夫だと思う金森くんの目は、ひょっとして節穴ではないだろうか……そう思わずにはいられない。


 あのものすごいラッシュにもまれた私の見た目はズタボロだ。髪もボサボサだし、ずっと金森くんに腕を引っ張られていたせいで、なんだかセーターもワイシャツもぐしゃぐしゃだ。


 一方の金森くんはまったく乱れていない。チェスターコートもスーツもシルエットは崩れることなくスラリとしてるし、その顔つきもいつもの通り穏やかで余裕がある。今は私を見て苦笑いを浮かべているけれど。


「逆に聞くけど……金森くんは……ゼハー……」

「ん?」

「疲れないの……?」

「僕は時々東京に来るからねぇ」


 そうだったのか……言われてみれば、時々金森くん外出してたけど、それって東京に来てたのか……割と朝早くから外出することが多かったし、ラッシュにしょっちゅう揉まれてたのか……


 その後、私と金森くんは眼の前の50階建てビルへと入り、エレベーターで36階へと向かう。


「うわ……速い……」

「こういう高層ビルのエレベーターって速いんだよ。僕らの街にはないからびっくりするよね」


 驚く私に対し、どう見ても驚いてない表情で『驚く』と寝言をほざく金森くん。その、私を舐め腐っているとしか思えない態度には、憤りを感じずにいられない。


 そもそもエレベーターに乗っているだけなのに、飛行機に乗ったときのような違和感が耳に襲いかかるとはどういうことか。私はエレベーター内で生あくびを繰り返し、なんとか耳から空気を抜こうと頑張ったが……


「小塚さん?」

「ふぁ〜あ」

「大丈夫?」

「ふぁ〜あ」


 そんな努力も虚しく、私の耳から空気が抜けることはなかった。


 36階に到着すると、先方の担当者の人がエレベーターの扉の前で待っていた。ブルーのパーカーにダメージジーンズという、会社員とは思えない服装だ。でもその手には分厚い手帳とノートパソコンが握られている。眼鏡の奥の眼差しが鋭くて、どこかお姉さまに似た雰囲気を漂わせていた。頬から顎にかけてヒゲが伸びているが、無精髭というよりもキレイに整えられた、オシャレなヒゲだ。


 私の直感が告げた。この人、お姉さまと同じぐらい仕事が出来る人だ。


「お待ちしてました金森さん」

「はい。ご無沙汰してます古賀さん」


 そんな、出来る雰囲気のその人に対し、金森くんはいつもの涼やかな笑顔を向ける。その笑顔はいつも通りな気がするのだが……目が妙に鋭いような、そんな印象を受けた。


 その男性に案内され、私たちはビルの会議室へと通されたのだが……


「ふぁ……」


 通された会議室の様子に、私は思わず声を上げた。


 会議室は壁一面が窓になっており、そこから池袋はおろか、東京の全景を見下ろすことができた。あまりに遠すぎて、もやがかかったように輪郭がはっきりと見えない距離の街まで見通すことが出来る。その光景は、私の心を圧倒した。


 少しだけ背伸びをして、ここから見える景色の、もう少し先の方を覗き込む。薄い青色の空の向こうにうっすらと、私達の街の山の輪郭が、うっすらと見えた気がした。


「ここに来たのは初めてですか?」

「はい。私、出張自体がはじめてで、圧倒されちゃって……」


 古賀さんに話しかけられ、私はつい本音をこぼしてしまう。クスリと微笑んだ古賀さんは、その後私と名刺交換をしてくれた。どこぞの女の人とは全然違って、笑顔が穏やかな人だなぁ……。


 名刺交換が終わった後は、席に座る。私の席は大きな窓のすぐ側だ。左を向けば、寒空の下の東京の全景が一望できる。


「ふぁ〜……」


 二人にはわからない程度にチラチラと窓の景色を眺めながら、その都度その高さに圧倒される。……でも、二人にはバレてないと思っていたのは私だけだったようで、私は後で、金森くんから『仕事もしっかりしようね』とお小言を言われる羽目になったのだが……この時は、そんなことは微塵も考えてなかった。


「では古賀さん、こちらの資料をご覧ください」

「はい」

「小塚さんも……あと、話のメモをお願い。iPad使っていいから」

「あ、ありがと……あ」

「ん?」

「これ……」


 私がぼんやりしてると、金森くんが私と古賀さんに資料を配ってくれる。A4の複数枚のページで構成された、今度から金森くんが任されるプランの資料だ。先週に渡部先輩から『お前、ちょっと自分で一から作ってみろ』と言われ、全部私が一人で作り上げた、はじめての資料。


「この仕事の打ち合わせだったの?」

「そうだよ? 言ってなかったっけ?」

「聞いてないよー……」

「ぷっ……仲がよろしいことで……」

「あ、いや……失礼しました……」

「すみません……」

「いえいえ。仲のいい仕事仲間と笑い合って仕事ができるというのは、とてもいいことですから」


 金森くんと言い合いになるけれど、そこを古賀さんに笑われてしまった……私と金森くんは互いに顔を見合わせる。


――仲のいい仕事仲間


 だけどなぜだろう。古賀さんのその言葉が妙に嬉しく、それでいて、どこか寂しい。


「……さて。じゃあ始めましょうか」


 ほっぺたが少し赤くなった金森くんが、私からぷいっと顔を背け、さっきまで見せていた涼やかな笑顔と鋭い眼差しに戻った。


 なんとなく分かった。今のこの金森くん、100パーセント仕事モードなんだ。いつもの周囲に気を配る余裕も、渡部先輩の周囲で大はしゃぎする元気も、何もかもを仕事に振り分けた、仕事に完全集中している状態なんだ。今、私の前で難しい言葉を交えながら古賀さんと話すこの人は、私の友達『金森くん』ではなくて、我が社の代表『金森千尋』なのだ。


 そんな、誇るべき同僚が横で頑張っている。私も出来ることを精一杯やらなければ。私はバッグからすばやくiPadを取り出し、メモアプリを開いてメモを取る。二人の会話の一言も聞き漏らすまいと、私はタッチペンで全力でメモを取り続けた。


「今回のキャンペーンサイトですが……」

「すでに弊社で構築を進めています。来週にはテストサイトをお見せ出来ると思います。その際にurlもお知らせいたしますので」

「構築が早いですね」

「大変腕の良いフリーのエンジニアが一人おります。弊社と良いお付き合いをさせていただいている方です」

「どなたですか?」

「資料にその方の簡単な紹介とポートフォリオのurlを記載してありますので、後ほどご確認下さい。主夫の方だそうですが、腕は弊社が保証します」


 私が今まで足を踏み入れたことのない空間で、今まで私が体験したことない企業同士の折衝が、私の目の前で静かに繰り広げられていく。正直、二人の話は私には難しすぎて意味がわからない時がある。だけど今はメモを取る。わからない単語はあとで調べればいい。とにかくメモれ。それが私の仕事だ。


「……うん」


 二人の声と紙をめくる音だけが響くこの会議室。古賀さんが資料のページをめくり、そして声を出して頷いた。


「古賀さん? どうかされました?」

「ああ、いや……見やすくて良い資料だなと思いまして」

「ありがとうございます。こちらの小塚が作りました」

「へ!?」


 唐突に話を振られ、思わずタッチペンを落としそうになるほどびっくりしてしまう。二人はそんな私を見て、クスクスと笑っていた。恥ずかしい……


「やっぱりあなたが……」

「は、はい! なんで、わ、わかったんですか!?」

「小塚さん……うろたえ過ぎだよ……?」

「いやでも金森くん!?」


 突然褒められたことで頭がパンク気味の私。そんな私は金森くんと言い合いを始めてしまうが……古賀さんは、そんな私達を知り目に、私が作った資料を一枚、丁寧にペラっとめくった。


「いや、わかりやすくまとめられてるし、とても良い資料です。説得力もある」

「あ、ありがとうございます……」

「それにね……」


 恐縮する私の前で、古賀さんは資料の途中のページの一枚を私に見せた。そのページはさっき話に上がってた、この企画のキャンペーンサイトを手がける渡部先輩の主夫仲間、ノムラさんの紹介のページだ。そのページの中のある場所を、古賀さんが指し示す。


「これ」

「ひぇえ……ッ!?」


 古賀さんが指し示したもの……それは、空いてしまってどうしようもないスペースについ私がふらふらと描いてしまった、猫の落書きだ。力ないへろへろのタッチで、『ノムラさんをよろしく!!』という、見ている人を煽っているとしか思えない吹き出しまでつけたやつ。それを見つけた渡部先輩が『ノムラさんも面白がってたから、それそのまま残しとけ。命令だ』と半ば強引に採用したやつだ。


「これがすごくカワイイし、作った人の個性も出てる。すぐにあなただと分かりました」

「す、すみません……落書きしちゃって……」

「いやいやとんでもない! 服のセンスも素敵だし、遊び心もある。素敵です」

「……」

「金森さん? 素晴らしい仲間をお持ちですね」

「はい。有能で頼りになるし、私と仲良くしてくれる……私の自慢の同僚です」


 なんだかすごく褒めちぎられてる……私は今まで渡部先輩の隣でただひたすら資料作ったり社内報を作ったりしてただけだから、こんな現場に出たこと無いし、ましてや人から高評価をもらったことなんかない。


 それが今日、褒めてもらえた。私が作ったものを『素晴らしい』と褒めてもらえ、『素敵な方だ』と私自身も褒めてくれ、金森くんからも『自慢』と褒めてもらえた。私はこの会社に就職して初めて……この仕事に就いて初めて、他の会社の人から評価された。その事実は、私の胸に心地よい暖かさとして、じんわりと広がっていった。


「あ、ありがとうございます……!」

「いえいえ」

「ウェヘ……ウェヘヘヘヘ……」

「小塚さん……ちょっと笑顔がキモい……」


 その喜びは、私の顔にキモい笑みをもたらした。渡部先輩の話によると、薫お姉さまの笑顔はそらぁもうキモいんだとか。私も喜びでキモい笑いを浮かべてしまったあたり、薫お姉さまにちょっとは近付けたのかもしれない。


 ただ一つ。そんな暖かい胸の中のほんのひとかけらの部分が、チクリと痛かった。その理由を探ろうにも、初めての喜びで異常回転している私の頭では、それを探ることなど、出来るはずがなかった。


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