吾一宇に在りて一宇我が内に在り

前河涼介

吾一宇に在りて一宇我が内に在り

 僕にとって雪村は姉の双子のような存在だった。彼女は昔から独立心の強い毅然とした人間で、僕の本当の姉の方はかなり奔放な性格をしていたから、見習うなら姉より雪村の方だな、というのは小さいながらに感じていた。両親よりも彼女の背中を見て育ったようなものだ。姉とは歳が離れていたから、僕が物事を考えるようになった頃には彼女はもう高校生になっていたけれど、それ故にまだ純然たる大人ではなかった。まだ後を追って近づいていける可能性を感じさせてくれる存在だった。

 彼女は天文や宇宙関係の道に進んで岩手の山奥で働いている。今でもメールや電話では時々話すけど、地元へ帰ってくるのは年に一度か二度だ。僕が高二に上がる冬、その機会に合わせて押上の駅前で待ち合わせをした。

 雪村はタクシープールの方から歩いてきた。背が高く脚も長い。兵士のようなオリーブドラブのコートを着ていてもその姿や足の運びは何となく目立って見える。僕が手を挙げて挨拶すると、彼女は「行こう」と言ってそのまま足を止めずに僕の先を歩いた。

 寒い夜だった。我々の行き先は雪村が学生時代にアルバイトをしていた小さな自然史博物館だった。建物は駅の東側に広がる下町にあって、その一画はずっと昔に遺棄されて忘却の彼方にある地の底みたいに廃れていた。

 博物館自体は僕は嫌いではなかった。趣旨の判然としない動物の剥製などが並んでいる三流の博物館だったが、エントランスが吹き抜けになっていて天井から様々な鳥の模型が翼を広げた状態で吊るされているのが賑やかだった。床には赤い絨毯が敷いてあり、防火壁やバックヤードの扉もそれに合わせて赤く塗ってあった。それはいささかくすんだ貧乏くさい赤だったが、ともかく赤と黒がその博物館のテーマカラーだった。エントランスにはメロディをオルゴール風にアレンジしたビリー・ジョエルの「オネスティ」が流れていた。

 雪村の昔の仕事場は三階だった。鳥の模型が吊るしてある吹き抜けを壁付きの階段でぐるぐると上っていく。上り切ったところを右に入っていくとその突き当りにやはり赤く塗られた防音扉が見えてくる。扉を押し開けて中へ入る。

 直径十メートルくらいの小さなドームスクリーンがあって、真ん中に古いプラネタリウムが据えられていた。ZKP‐1。カール・ツァイス・イエナの古いモデルだ。東ドイツで二百機あまりが造られ、世界中に散らばった。最近は一球式も増えたが、一時主流だった鉄アレイ型の二球式ではない。恒星を映す球は片側だけ、天の南極を映すことはできない。

 横から見ると「斤」の文字のような不思議な形をした台座に載せられている。「斤」でいう一画目の下にヒンジがついていて、緯度はそいつの角度を人力で変えてやって調節する。空の色を再現する光源も本体とは別に信号機のような感じの灯台が付属する。簡素で堅牢な機械だ。ほとんどの操作を機械の傍に立って行う。カッコいい操作盤つきのオペレータ席などない。配線が床を這い、三十脚ほどの座面跳ね上げ式の椅子は全て中心を向いている。

 雪村は館内の照明を落として冬の空のプログラムを始める。プラネタリウムの操作と解説を器用に同時進行する。僕はそれを真ん中に近い席で鑑賞した。雪村の声がドームの中に響く。おおいぬが北極星を巡り、エリダヌスが地平線の上を滑る。星々の光はどれも少しだけ赤みを帯びている。それは時に青白く、時に黄色い現実の星々の光とは少し違っている。どちらも光であることに違いはない。それでも僕が夜空の星々の方を本物と思うのは、プラネタリウムの映す星々がそれを模したものだからだ。逆ではない。

 僕は目を細めてZKP‐1の光源を見る。幻灯機はとてもゆっくりと回転しながらまばゆい光の筋を放射している。なぜかわからない。でもその姿は図鑑に描かれた遠い恒星たちの姿と同じくらい神秘的に見えた。

「おしまい」と言って雪村は両手を広げた。シアターに入る前に冷水器から紙コップに注いでおいた水を煽る。

 僕はプラネタリウムの台座を囲う手摺に取り付いて下から機械を見上げた。昼間を再現するライトが灯って明るくなると、黒いリムの下に何か光を反射するものが見えた。文字だった。一つではない。文章になっている。何か尖ったもので塗装を削っただけのような乱雑な彫り込みだった。学生机に彫刻刀で傷をつけるのと同じ手口だ。

 Est in mundo , mundus in meo spiritu.

 雪村は僕の横に立ってそれを読み上げた。ラテン語だった。

「下手なもんだよ」彼女はそう言って笑った。それが文字の彫り込みことなのか、それとも文法のことなのかはわからない。

「誰かの名言?」僕は訊いた。

「いやいや、そんなんじゃないよ。あってたまるものか。こんな傷ものにしちゃって。ここにこの機械を据えた人間が記念にやったんだろう」

「意味は?」

「意味ね。せいぜい意を汲んでやるとしたら、『吾一宇に在りて一宇我が内に在り』かな。いや、少し余計か」雪村は柵を離れて手近の席を開いて腰を下ろし、脚を組んだ。その組み方や脚の形はとても優雅だった。

 僕も倣って雪村の隣に座り、足の間に鞄を置いて中から調整豆乳のパックを出す。雪村には紅茶、僕は黒ごま。

「ありがたい」と言って雪村は早速ストローを押し出して伸ばし、銀紙の封に突き刺した。

「それ、でも、矛盾していない?」

「なぜ? なぜ矛盾してる」

「それを彫ったのが誰か知らないけど、自分より宇宙が大きいとも言っているし、宇宙より自分が大きいとも言っている」

「確かに」雪村は頷いた。「よく考えられた言葉ではあるんだよ。初めの『エスト』は英語のbe動詞と同じく存在を表す。この文はカンマの前後で対句になっているが、後半の文は動詞のない不完全文だ。意図的にエストを省いている。前半のムンド、つまり宇宙に対して、後半の宇宙が実在しないものであることを暗に示している。前半の文に主語がないのはラテン語にはよくある省略だよ」

 実在と非実在。

 僕はできるだけ体を伸ばして目を瞑ってみた。豆乳のパックがへこんだり戻ったりする音が聞こえる。劇場の冷たく暗い空気がのしかかってきて心地よかった。

「実在しない宇宙というのはここに映し出される星空のことなんだね?」僕は訊いた。

「そう。これはプラネタリウムのことを言ってるんだと思うよ。観客が見るのはその映像だが、天球のもとになる金型はこいつの中に入っている。仕組みは知ってるだろ? こういった金属製の円盤に小さな穴がたくさん開けてあって。それが自分は宇宙の中にあり、自分の中に宇宙があるという二重性の根拠になっている」雪村はそう言うと背凭れのてっぺんに頭の後ろを乗せて脱力した。顎のラインが伸びている。

「その省略された『吾』がプラネタリウムのこと?」

「それは微妙だな。確かに省略されているのは『吾』だ。でもそれがプラネタリウムに刻まれているからといって、吾すなわちプラネタリウムということにはならない。なぜならこの文章がプラネタリウムの意志とは無関係に他人から与えられたものだからだよ。言葉は常に書き手のものだ」雪村は言った。

「だとしたらなぜ主語を『これ』にしなかったんだろう」

「読むのが人間だからさ。その方が風刺的で、哲学的で、夢があるように見える」

「誰が書いたの?」

 僕が訊くと雪村は首を起して、顎に手を当ててしばらく考え込んだ。

「うちの館長かな」雪村はもうパックを空にしていて、ストローにぷっと息を吹き込んで膨らませる。「うん……彼はここへ来て星空を眺めることができるし、このプラネタリウムもスクリーンも彼の所有物だ、ということだとしたらなかなかユーモアが効いてるよな。ただし美化が過ぎる」

 間もなく年老いた館長がキーホルダをじゃらじゃら言わせながら入ってきて、そろそろ閉めるからと言って僕たちを追い出した。僕は最後に扉のところでプラネタリウムを振り返った。その背中の曲がったような姿をしっかり見ておきたかった。

 Est in mundo , mundus in meo spiritu.

プラネタリウムZKP‐1が誰かから押し付けられた言葉。自分で好きに名乗れるわけでもなく、それでいてどことなく自分の性質や在り方を写した言葉。自分という存在に一生つきまとう言葉。それは人間の名前と同じだ。

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吾一宇に在りて一宇我が内に在り 前河涼介 @R-Maekawa

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