25:わたし、もっと近くでだって大丈夫だからっ

(どうしてこんなことになってしまったんだろう……)


 月光で薄らと木目が見える天井に視線を固定したまま、俺は考える。

 寝る前、一番はじめの決意は何処へやら。を回避するための、二人の布団の間隔は今や全くのゼロとなってしまった。


 すなわち、俺と葉月の布団は肩を寄せ合うが如くピタリとくっつけられ、視線を右に向ければそこにはもう至近の距離に葉月の顔があるという、思春期の男子が平静を保つにはあまりに難易度が高いシチュエーションが牙を剥いているのである。


「甲洋くんの隣で寝させてくれる?」などという破壊力の塊みたいな台詞を全速力で投げつけてきた葉月に対し、俺はその言をスルーすることも後逸することも出来なかった。

 理性と本能がひしめき合った果てに首を縦に振ってしまった俺を見て、葉月が喜び勇んで布団をくっつけ始めたのだけは覚えている。

 あれから何分経っただろう? もう葉月は寝たのだろうか?


(冷静に考えて……いや冷静に考えなくてもまずくない?)


 俺も葉月も思春期真っ只中の男女である。だというのに距離が近い。近すぎる。

 互いの息遣いがダイレクトに耳を打つ距離は、やはり心臓に悪い。

 静かに、だけどその陰に艶やかさも秘めたような葉月の呼吸音が耳に届いてしまうのだ。

 加えて、こう、隣で何か大きい塊がゆったり上下しているのを感覚で感じる。もうこれは男の性だから許してほしい。わかっちゃうんですよそういうの。


「寝れない……」


 呻くように弱音を漏らすと、隣の布団がもぞもぞと動いた。


「甲洋くん、寝れないの?」

「ひあっ」


 葉月の声がした方へと視線を向けると、こちらを見遣る葉月の端正な顔が視界に飛び込んできた。

 月明かりに照らされているその顔は恐ろしいくらいに整っていて、その美しさとその近距離さ加減に思わず情けない声を漏らしてしまう。

 すると、彼女は俺を責めるようにその頬を少し膨らませた。


「あー。人の顔見て悲鳴をあげるなんてひどいよ甲洋くん」

「いや、だって、近いんだもん!」

「そりゃあ、距離は近いけど。でも、悲鳴はひどいなー……」


 いやあのね葉月さん、俺には君の可愛い顔は刺激が強いんですよ。

 しかし、葉月は「悲しいなぁ」と明らかに本気ではないトーンでこちらを揶揄ってくる。

 俺は葉月を諭すように、先ほどの対応は当然の反応であることを力説することにした。


「葉月、異性がこんなに近くにいて平静でいれる男はいないんだよ」

「じゃあ甲洋くんも平静じゃないの?」

「めっちゃ緊張してるよ」


 手とかじんわり汗かいてきた気がするもの。


「ていうか葉月は緊張してないのか?」

「実はちょっとだけしてたり……」

「してるんじゃないか……」


 同じ部屋で寝るのだって緊張するのに、隣り合って寝るなんて、そんなの緊張がさらに倍加するだけだ。

 ちょっとだけ非難めいた響きを言葉に混ぜてしまうと、葉月は取り繕うように言った。


「で、でもでも、わたしは甲洋くんの顔見て悲鳴あげないもんっ」

「そこそんなに気にするところ?」

「大事だよ。顔見て悲鳴あげられちゃうなんて……女の子には一大事なんだからっ」

「ま、まあ、それも……そうか……?」


 葉月の言を反芻して、確かに一大事ではあるか、と思い直す。男女を入れ替えたとしてもそうだ。

 自分の顔を見られて悲鳴をあげられたとなっては、確かに傷つくと思うし。まして女子からすれば沽券に関わるかもしれない。


 ……いや、別にそういう意味で悲鳴あげたわけじゃないんだけど俺は。ていうか悲鳴あげてないけど。悲鳴じゃなくて情けない声だからあくまで。


 とはいえ、図らずも葉月を傷つけた(?)のは事実といえば事実である。


「えっと、ごめんなさい……」

「もう悲鳴あげない?」

「悲鳴じゃなくて……いやもういいか。あげないって約束する」

「よろしいっ」


 俺の言葉に納得したのか、葉月は鷹揚に頷いて見せた。

 しかし、葉月を傷つけた(?)可能性はあるが、どうにも一方的に責められてしまったような気がするのもまた事実。

 というわけで、俺も少し葉月を揶揄ってみることに決めた。


「……じゃあ、葉月も悲鳴をあげないでくれると信じて」

「え?」

「俺の訓練も込めて少しだけ枕を近づけてみようかな……」

「えっ!? こっ、甲洋くん!?」


 俺は枕をさらに葉月の布団側に寄せ、彼女により一層近づいた。

 さっきよりもさらに数段近距離に寄った葉月の顔は変わらず可愛く綺麗だったが、その瞳は動揺の色に染まっている。そりゃそうだろう、こんな俺の動き、想定すらしていなかったに違いない。


「うお、近いな……。俺は悲鳴あげないけど、葉月は大丈夫だよね?」

「も、もちろん……」


 そう確認すると、葉月は声を震わせながらゆっくりと視線を俺から逸らした。

 そんな彼女の姿を見て、俺の中に存在する嗜虐心のスイッチがオンになるのを感じる。


「へえ。葉月も視線逸らしちゃうのか……残念だなー」

「ふぇっ」

「口では威勢が良かったのにそういうことしちゃうんだなー……」

「えっ、と」


 さっきのお返しと言わんばかりに、俺もとことん葉月を揶揄ってみる。

 これがやばいくらいに楽しい。やっぱり葉月もなんだかんだ言って近距離には弱いんじゃないか!


「だ、だって」

「だって?」

「……なんでもないです」


 自分の先ほどまでの発言と矛盾が生じるのか、葉月は何も言わずに口を噤む。


「視線を逸らされるのは悲しいなぁ」

「うぅ……」


 俺も大概視線を逸らしているのでどの口が言うのか、ってところはあるのだけれど、葉月を揶揄うまたとないチャンスなのでここは更にアクセルを踏んでみることにした。

 どうしよう、といった感じで若干狼狽る葉月の姿は小動物じみていて非常に可愛い。……小学生男子みたいなことしてるな俺。


「確かに悲鳴はあげてないけどなー……」

「……わかったよ甲洋くん」


 なおも俺は揶揄を続けたのだが、そこで葉月は静かな決意を込めた声を発した。そして、確かな意思を持って視線を再び俺へと合わせてくる。

 あ、こういう時の葉月はちょっとまずい気がする。変な方向にスイッチ入ってしまったというか……藪を突いて蛇を出した感がありあり感じられるやつだ。


「っと、ごめん葉月ちょっと揶揄いすぎ……」

「わたし、もっと近くでだって大丈夫だからっ」

「えっ」


 言い終わるが早いか、葉月が自分の枕をさらに俺側へと動かした。

 したがって、俺と葉月の枕が布団の端と端でほぼぶつかる様な状態になり、ただでさえ近かった俺と葉月の顔の距離は、いよいよ最接近してしまった。


「わたし、この距離でだって視線は逸らさないし、悲鳴はあげないよ。甲洋くんもそうでしょう?」

「あ、当たり前じゃないか……」

「ふ、ふふっ、そうでなくっちゃ……」

「は、はは……」


 二人の枕はその両端を接し、体は互いに向き合い、顔は互いを見つめ合う。息遣いが耳に届くなどという距離はとうに過ぎ去り、もはや息遣いを肌で感じられるほどの距離感である。

 この状態になってなお、俺たちは視線を逸らさない。悲鳴をあげない。否、逸らせないしあげられない。


 俺たちのちょっとした意地の張り合いは、もはや我慢比べか何かの様相を呈してきていた。逃げたら最後、自身の負けを認めることになる。

 見方を変えれば、ひょっとするとこれは俺たちが兄妹になってから初めての兄妹喧嘩かもしれなかった。こんな兄妹喧嘩があるか? という疑問はさておいて。


「……」

「……」


 無言のまま、至近距離から見つめ合う俺と葉月。

 正直言うと、かなりまずい状況である。

 明らかにさっきよりも状況は悪化しているからな。もうこんなのほとんど同じ布団で寝てるのと同じような距離感だし、なんだったら手とか足とか伸ばしたら相手に触れてしまう。

 というかこの距離感、ただのクラスメイト――俺たちは兄妹だけど――に許される距離感ではない。


「ちょっと距離が近すぎる気がするので一旦離れませんか葉月さん」

「ふーん……じゃあ甲洋くん、負けを認めてくれるの?」

「まさか……」


 遠回しな休戦協定の提案は効果を発揮せず、葉月を余計頑なにさせただけだった。

 こうなっては俺から敗北を宣言するのも手と言えば手だが、あれだけ葉月に強気に出た以上こちらから降伏するのはそれはそれで厳しいものがある。ちっぽけな男のプライドといえばそれまでだが、とにかく白旗はない。

 とくれば、どうにか葉月の視線を先に逸らす方法を選ぶほかあるまい。

 考えろ月守甲洋。どうやったら先に葉月の視線を俺から逸らすことができるのか。


「……は、葉月は」

「な、なあに?」

「か、可愛い……」

「!?」


 ……俺は何を言ってるんだろう。

 いや葉月が可愛いのは事実なんだけど! いまこの状況で言うことか!? 馬鹿じゃないのか!?

 冷静になると色々終わりそうなのでもう深く考えるのはやめるが、葉月が動揺しているのだけはわかった。怪我の功名というやつだな!

 さあこのまま視線を逸らすんだ葉月!(ヤケクソ)


「こ、甲洋くんだって……」

「え?」

「かっこいいもん……」

「!?」


 やめろ! 至近距離でそんなことを言うんじゃない葉月! 心が! 死ぬ!

 視線を逸らすことができないのに称賛の台詞をもらうのは色々と厳しい! 厳しすぎる!


「ぐ……頑なだな葉月……」

「ふふっ……やっぱりそういうつもりだったんだね」


 はなから狙っていたわけじゃないけれど、至近距離から称賛作戦は速攻カウンターを返されたために全く意味をなさなかった。

 だが、ここだけはしっかりと認識を訂正させておいてもらいたい。


「あ、でも、今のは口から出まかせじゃなくて本音だから……」

「ふ、ぇ……あ、う、うん」

「……いや俺は何を言ってるんだ」

「わ、わたしも、本音だからっ」

「あ、お、うん」


 本当に何を言っているんだろう。お互いにノーガードで殴り合ってるだけじゃないかこんなの。なんならいまだに視線を逸らせないあたり羞恥プレイもいいところだ。

 結局お互いがただただ恥ずかしいだけという結果に終わり、状況は振り出しに戻ってしまったので、葉月の視線を先に逸らすため、次なる手段を考えなくてはならない。


(とくると次は……うん?)


 もぞもぞ、と足元に何かが触れる感覚。

 思わず視線を向けそうになるが、それはいけない。俺から先に視線を逸らすわけにはいかないのだ。

 視線は葉月の顔。その長い睫毛に視線は固定しつつ、意識は足元へ。


 すべやかな何かが俺の布団に侵入している――って考えるまでもなく葉月の足じゃないのこれ!?

 俺が体を硬直させていると、葉月のしなやかな足が俺の足の甲を軽く撫ぜた。こそばゆいその感覚に思わず飛び上がりそうになるがなんとか堪える。


「は、葉月」

「あれ、甲洋くんどうかしたの?」


「何かあったの? 大丈夫?」と言わんばかりに白々しい口調で葉月が笑う。全てわかってやっている目だ。

 ちくしょう、この娘、自分が何やってるのかわかっているんだろうか? 

 まあいいさ、葉月がその気ならこっちにだって考えがある。そっちが足ならこっちは手だ。

 目線は葉月の顔からそのまま、俺はその手を葉月の布団へと伸ばした。そろりと彼女のテリトリーへと侵入した俺の手が、おそらく葉月の手首に軽く触れる。


「ぁっ、こ、甲洋くん?」

「あれ、葉月、どうかしたのか?」

「ううん、べつに……?」


 自分も足を侵入させているからか、葉月も特にはなにも言わなかった。

 というかむしろ、葉月もさらにその足をもぞもぞと動かしてきている。足の甲から足首くらいまで上がってきたな……。

 我慢比べは次の段階にレベルアップしてしまった感があるぞ。


「くっ……」

「あれあれ……どうしたのかな甲洋くん?」

「いやー、なんでもー……」

「ひぅ……」

「おや、どうした葉月さん?」

「えー、何にもないよ? 気のせいじゃないかなー……?」


 お互いに乾いた笑いを見せ合うが、その実布団の中では静かな攻防が行われている。


 さて。葉月の布団に手を潜らせたのはいいものの、視線が固定されているせいで手を動かしづらい。

 あんまり動かしすぎると触れてはいけないところに触れてしまいそうになる。せいぜい手首くらいでとどめ置いておかなければふにょんまずい。

 ……え? ふにょん?


「っ、こっ、甲洋くんっ」

「えっ、な、なに?」

「……えっち」


 葉月の口から飛び出した短い言葉に、俺は己の罪を知った。


「は、葉月、ごめんっ!」

「あ、悲鳴あげた! わたしの勝ちだね!」

「えっ、そういう!?」


 今の謝罪は悲鳴扱いなの!? いやそれよりもっと俺はまずいことをしでかしたと思うんですけど!?

 っていうか思考に栓をしてたからちょっと問題を棚上げし過ぎていたけれど、そもそも距離が近すぎるわ! なんだこれ! お互いの手足が布団に侵入してるしいくらなんでもやりすぎだ!


「葉月、ごめん、ちょっと調子に乗りすぎた。すぐ離れるからっ!」

「え……」


 葉月に有無は言わせない。

 今すぐ距離を置こうと思って体を起こすと、俺の布団と葉月の布団が捲れ上がった。その下には当然葉月の体が隠されているのだが。


「!?」


 こちら側にそのしなやかな脚を伸ばしていたから、浴衣の裾が際どいことになり、健康的な太ももやその付け根が見え隠れしているし、ずっと横になっていたから胸元も少しはだけてその双丘の柔肌がちらりと覗いている。

 葉月の、あまりに際どい姿がそこにはあった。


 その扇情的な姿と、月明かりに照らされて浮かび上がる美しさとに思わず息をするのを忘れそうになってしまう。

 ずっと見ているわけにはいかないとわかっているのに、体が言うことを聞いてくれない。


「甲洋くん、どうしたの。って……」


 俺が体を起こしただけでそれ以上動こうともしないことに違和感を覚えたのだろうか。こちらを気遣わしげに見やった葉月はやがて、自分のその過激な姿に気づき、


「……わ、わっ! こっ、これはっ、ダメだね!」


 急いで布団をかき抱いたのを見て、俺もようやく我に帰る。


「そ、そうだな、ダメだと思う!」


 いくらなんでもさっきの葉月の姿は刺激が強すぎる。浴衣から覗く白い肌はどうしてあんなに魅力的なのだろうか……いや違うそうじゃなくて! 


「と、とにかく、お互いちょっと暴走しすぎたって言うか。布団はちょっと離してもう寝よう」

「うん、そうだね。ごめんね甲洋くん、少し調子に乗りすぎちゃった」

「いや、それは俺も同じだから。ごめん葉月」


 マジでちょっとどうかしてたなさっきまでの俺。ようやく落ち着きを取り戻してきた頭に少しだけ安心感を覚え、俺はぴったりくっついた布団を離す作業に取り掛かることにした。

 俺が布団を離している間、葉月も枕を自分の布団の中心に寄せていた。お互いに冷静さを取り戻しているので、これでもう一安心だろう。ゆっくり寝られる。


「えへへ、冷静になるとすごいことしてたね、わたしたち」

「もう忘れよう……」


 いやほんと忘れたい。半分……いや100%セクハラだよ俺。ごめんなさい。


「あれ以上近づいてたら……キスしちゃってた、かも?」

「ぶっ――!?」


 突然投げつけられた葉月の豪速球に思わず吹き出す。


「は、は、葉月っ!?」

「あははっ、なんちゃって。おやすみ、甲洋くんっ」


 ウインクしながらいつものアレで締めた葉月が、布団を被って俺に背を向けた。今晩はもう、一人で眠りにつく気分になったのだろう。

 俺だけを悶々とさせて、ちょっとひどい。葉月は清楚な学園のアイドルと思われているが、本当は男の心を弄ぶ小悪魔じみた一面もあるし、なんならいっつも弄ばれてる気がする。


「はぁ……寝よう……」


 どっと疲れた。俺も葉月に背を向けて眠りにつこうと思ったのだけれど、さっき見た葉月の姿や、あの近距離でのやりとりが目蓋の裏に焼き付き、悶々として眠れそうになかった。

 こりゃあ、明日の帰りの車の中は爆睡だな……。




 * * *




「甲洋も葉月ちゃんも寝てるわね」

「二人とも昨晩は遅くまで起きていたのかな?」


 帰りの車中。

 結局昨晩はほとんど眠れなかった俺は、車のシートに背中を預けて微睡の中にいた。走行中の振動が心地よい。

 ほぼほぼ夢見心地で、父と母が何かを話しているのは聞こえるが、その意味までは全く頭に入ってこない。

 隣に座っている葉月もすーすーと可愛い寝息を立てている。いやほんと可愛いな……。

 あー……眠い、眠すぎる。


「そうみたい。葉月ちゃんなんか昨晩一睡もしてないって言ってたわよ」

「ほう」


 温泉旅行……。

 温泉は気持ち良かったし、陽治さんとも打ち解けられたし……葉月は可愛かったし……、総合的に、大満足だった。俺は。


「……あ、見て陽治さん。二人肩寄せ合ってる」

「おや? はっはっは、ああしてみると兄妹というより恋人にすら見えてしまうね」


 うつらうつらして、飛びかける意識の中で、左肩に少し重みを感じた。

 不愉快な重みではなく、じんわりと暖かくて、いい香りの、好きな重みだ……。


「まあ。……でも甲洋に葉月ちゃんは勿体無すぎると思うけど」

「葉月にこそ甲洋くんは勿体無いんじゃないかな?」


 なんかいろいろ聞こえるけど……何が何やら……。

 

「……ょぅくん、だ……き」


 左耳に、大好きな声が、微かに届いた。心地いい。ゆっくり眠れそうだ。

 そうして、俺は数時間遅れで、深い眠りの中に落ちていったのだった――。

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