24:作戦大成功、だねっ

「それじゃ、電気消すよ」

「うん、お願いします」


 既に枕に頭を預けている葉月からの了承を待って、俺は部屋の照明を落とした。

 さっきまで明るかった部屋が一転、窓から微かな月明かりが差し込むだけの部屋へと変わる。窓側に位置する葉月がこちらに視線を向けているのを感じつつ、俺もすぐ足元の布団へいそいそと潜り込んだ。


 葉月とこの部屋で一晩を過ごすことからは逃れ得ないと確定したので、最大限を回避する為の努力として、俺は二つの布団を部屋の端と端に移動させた。

 葉月の布団は部屋の窓側に。俺の布団は部屋の入り口側に。二人の布団の間には約三畳分のスペースが空いている。


「ねえ甲洋くん。こんなにお布団、離す必要あったかな?」


 ただ、葉月はそれがあまり気に入らないのか、まだ完全には納得がいっていないですよー、という雰囲気だ。


「あるよ」


 しかし、俺は彼女の問いに即答できる。

 この三畳こそが、葉月と両親に対して俺が見せられる最大限の誠意だからだ。


 葉月は自分の魅力を過小評価しがちなところがある。同じ部屋で寝るというだけでも俺の心臓は痛いほどに暴れ出しそうだというのに、信頼の表れともとれるその無防備さは俺の理性をいつ破壊するともわからない。

 思春期男子の劣情が招く悲劇を防止するには、この手段しかないのだ。それをわかるんだよ葉月。


「でも、せっかく同じ部屋にいるのに……なんだか甲洋くんが遠いなぁ」

「普段よりは近いだろ?」

「それはそうだけど……」


 きっと小さく唇を尖らせているんだろうな、と思わせる葉月の声。


 仰向けになって天井を見つめていた目線を横へとずらし、控えめな月光が照らし出す窓側へと顔を向ければ、変わらずこちらを向いたままの葉月と視線が交差した。


「……あ。こんばんは、甲洋くん」


 静かに、しかし弾んだ声で笑みを見せる葉月が顔の横で小さく手を振る。

 そんな何気ない所作に心が弾みそうになり、葉月をずっと見ていられなくなってしまう。

 頬に熱が集まるのを感じながら絡み合った視線を外すと、すぐに葉月から抗議の声が飛んできた。


「あー、なんで顔逸らすの?」

「恥ずかしいからです」

「そうかなあ?」


 そうだよ。どこの世界に同じ部屋で寝てるのに視線が合っただけで手を振りながら笑顔を見せてくれる女の子がいるんだまったく。いやここにいるんだけどさ……。


「ね、甲洋くん、こっち向いてよ。お話ししようよ」

「お話はするけど向きません」

「むぅ……」


 葉月の方を向いては、俺のこの緩んだ口元を晒すことになる。

 男として、葉月の可愛らしさに当てられてだらしなく弧を描くこの顔を見せるのは憚られた。葉月からこんなこと言われて嬉しくないわけないじゃないかちくしょう。


 俺のちっぽけな自尊心を守るべく葉月から背を向ける形で寝転ぶと、彼女は俺の顔をそちらに向かせることは諦めたのか、大きなため息をひとつついてから気を取り直したように言った。


「じゃあ、そのままでいいからお話ししてくれる?」

「それは、もちろん」


 葉月と会話を交わすことについては全く否やがない。返事を返すと、葉月は嬉しそうな声を上げた。


「ふふっ、ありがとっ。いろいろね、聞きたいことがあるんだ」

「うん? たとえば?」


 俺が訊くと、葉月は「そうだなあ……」と少し迷った様子を見せ、それから一言。


「ユイさんってどんな子?」

「んぶほぇ」


 なんでいまそれを聞くんだ!?

 全く予期せぬ方向から豪速球で投げつけられた質問に吹き出し、思わず葉月の方へと振り向いてしまう。


「――あっ、こっち見てくれた」


 にっこりと。悪戯が成功した子供みたいに笑う葉月。


 そんな彼女の表情を前にして、俺は自分が彼女の掌の上で転がされていたことを悟った。


「えへへっ、作戦大成功、だねっ」


 ピースサインをこちらに向ける葉月。可愛い。


 頑なに俺が振り向こうとしないので、俺から振り向かざるを得ない話題を振ればいいと考えたということか。策士だ。

 ただ、自分が好意を抱いている子に対して他の女の子のことを話すのは少し気が乗らないのだけれども。

 俺のそんな思いを見透かしたかのように、葉月は続ける。


「でも、ごめんね。いまのは甲洋くんの気を引きたかっただけなの」

「えぇ……」


 なぜそんなことを……。

 俺が控えめに抗議の視線を送ると、葉月は少し気まずそうに、しかし同時に拗ねたように語った。


「だって、一緒の部屋にいるのに顔も合わせられないのは寂しいし、お話しするなら顔を見ながらが良いんだもん」


 唇を尖らせる葉月の姿に、俺は言葉にできない叫びを飲み込んだ。

 そんなことを言われたら、どんな男だって顔を合わせざるを得ないし、喜びを抑えきれなくなっちゃうでしょうが……!


「……うぐぅ」

「えっ、甲洋くん胸抑えてどうしたの……?」

「破壊力が強い……」

「え、破壊……?」


 自分の危険性に全くの無自覚な葉月を手で制し、ひとつ大きく深呼吸。吸って吐いてを繰り返すごとに、葉月の言動で芯から熱を帯びる心身が冷静さを取り戻していく。

 ふぅ……徐々に落ち着いてきた。ちょっとでも油断していると葉月からストレートに向けられる親愛の情にその身も心も焼かれかねないな。


「……ごめん葉月、落ち着いた」

「う、うん。甲洋くん、大丈夫?」

「ああ、大丈夫」

「ええっと、それじゃ、お話はしてくれるのかな……?」


 少し離れた距離で顔を合わせる葉月が不安げに瞳を揺らす。

 ああまで言われて。この顔を見てまで。今さら異を唱えることができるわけもない。そんなことはしたくない。

 ゆえに、俺は首肯する。


「うん、話そうか」

「やった、ありがとっ」


 結局どうあれ、ただ葉月の笑顔を見るだけで俺は幸福な気分になってしまうのだ。チョロい男だよ本当に。




 * * *




 その後、葉月と顔を合わせながら他愛もない話に花を咲かせ、寄せては返すような睡魔に微睡みつつあった最中、事は起こった。


「それでね……、……きゃあっ!?」

「……!?」


 葉月の話に相槌を打っていた――つもりだったが半分寝かかっていた――俺は、突如耳に飛び込んできた葉月の叫び声に驚き、そしてすぐに覚醒した。


 先ほどからずっと耳に届き、俺に心地よさを与えてくれていた葉月の優しく涼やかな声ではない。耳朶を打つのは何かに怯えたような彼女の声で、そのことにどうしようもないほど焦燥感を掻き立てられる。

 詳細はわからないが、葉月に何かがあったのは間違いない。


 とにかく、葉月のもとに急がねば。

 ただただ葉月の力になりたい一心のもと、転がるような勢いで布団から飛び出した俺は、自分の身体をかき抱きながら布団にくるまる葉月をその目に捉えた。


「葉月、どうした!」

「こ、甲洋くん……」


 何かに怯えたように身を縮こまらせた葉月が、助けを求めるような瞳で俺を見上げている。


「大丈夫か葉月。なにがあった?」

「……む、むし……」


 か細い声で。むし。


「むし?」

「目の前を、凄い勢いで駆け抜けていったの……」

「……なにが?」

「むし……」


 むし。


「むしって、虫?」

「……脚がいっぱいの虫」


 思い出すのも嫌、と言いたげな葉月の顔を見て、俺は全てを察した。

 なるほど、わかった。葉月の目の前に虫が現れたので、葉月は思わず驚き怯えた声をあげた、というわけか。


 この旅館は山の中にあるし、結構年季が入っている風であるから、確かに部屋の中に虫が侵入してきてもおかしくはなさそうだ。


「……葉月、虫苦手なの?」

「うん……」


 ひどく落ち込んだ様子で頷く葉月。

 完璧美少女の葉月にも弱点があるんだな、と変な感想を抱いてしまった。


 まあ、女子は大抵虫が苦手なものだよな。それが目の前を猛スピードで駆け抜けていったら悲鳴もあげるし縮こまりもするか。

 でも香椎はバッタを素手で掴んで脚引きちぎってそう。(偏見)


「まだ部屋にいるようなら捕まえるよ」


 餌を探していたのか、はたまたこの部屋に迷い込んだだけのかは知らないが、虫が葉月を怖がらせたのは事実である。彼には責任をとってもらわねばなるまい。

 とはいえ、既に走り去った虫を捕まえるのはちょっと難しいか。勢いで言いすぎた。


「つ、捕まえてくれるなら、お願いしたいけど……」

「それすら見たくない?」


 葉月がこくり、と首を振る。

 そんな普段とは違う葉月の弱々しい姿が新鮮で、俺の中に芽生えた庇護欲が急速に増大していくのを感じる。

 どうにか葉月の助けになって彼女の不安を取り除いてあげたいけれど、さて、どうしたものだろう。


「虫除けスプレーでも撒くか」


 気休め程度にしかならないだろうが、現状取れる手段はそんなところだろう。完全な解決にはなっていないのがもどかしい。

 葉月の心を乱したままなのは、俺の望むところではないのだ。こればかりは、本当に揺るぎはしない。


「……ごめんね甲洋くん、気を使ってもらって」

「いいんだよ。葉月にはいつも笑顔でいてほしいんだから」

「……そう、なんだ。ふふ……」


 さっきまで元気のなさそうな様子を見せていたかと思えば、今度は嬉しそうに笑みをこぼす。

 そうそう、やはり葉月は笑顔でなければ。葉月の笑顔を取り戻せた気がして、ちょっと満足。


「……ね、ねえ甲洋くん、わたしにはいつも笑顔でいてほしいって、ほんとう?」

「本当だよ。葉月が笑っていてくれると、俺も嬉しいし」

「じゃあね、あのね、二人とも嬉しくなれる方法があるんだけれど、聞いてくれる……?」


 おずおずと、少し俺から視線を外しながら葉月が切り出す。

「なに?」と葉月に続きを促すと、彼女は少し遠慮がちながらも、譲りはしない意志も篭った声を続けた。


「……甲洋くんの隣で寝させて?」

「…………」


 ……。

 …………。

 …………???


「……なんて?」

「甲洋くんの隣で寝させてくれる?」

「……なんで?」

「甲洋くんの隣だったら、虫も怖くないって思うんだっ」


 胸の前でぎゅっ、と握りこぶしを作って葉月。虫なんかには負けないよっ、と言わんばかりだ。

 なるほど、まあ確かに怖いものがある時にすぐそばに人がいると安心するもんな。うんうんわかるわかる。わかるけど、


「……いやダメだろ」


 いや普通にダメだろ。

 隣で寝るってことはつまり布団をくっつけて、至近距離で寝転ぶってことだろう?

 葉月は男女七歳にして席を同じゅうせず、という言葉を知っているのだろうか。

 俺たちはもうこの故事よりも十は上の歳なんですよ!? まあ席は同じくしてばっかだけども!


「……わたしが笑うと嬉しいって言ってくれたよね」

「言いましたけども」

「甲洋くんのそばにいれば、わたしは絶対笑顔になれる自信があるんだけどなー……」


 掛け布団を口元まで持ち上げて見上げてくる葉月の、どこか期待の色に満ちた瞳が俺を射抜く。


 ……だからね、葉月。

 葉月にそういうことを言われて断れる男子はいないと思うんだよ。

 もしかして、そこのところ、全部わかってるのかな……?

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