23:わたしたちは兄妹だもんっ
「すまない甲洋くん、煙草を吸いにいってくるよ」
「あ、わかりました」
時刻は夕刻。家族揃って大広間で夕食に舌鼓を打った後、俺たちはそれぞれの部屋――俺と陽治さん、葉月と母の計二部屋――に戻っていた。
食後の一服がルーチンなのだろう。一つ断りを入れてから部屋を退出した陽治さんの背を見送ってから、俺は室内に視線を戻す。
旅館の部屋は十畳ほどの広さで、山の風景が大きな窓から一望できる作りになっている。床の間には金庫や壺、テレビが置かれていて、その正面には二人分の布団が几帳面に敷かれていた。
俺用の布団の上に腰をおろし、テレビのチャンネルを弄る。特別見たいわけでもないが、バラエティ番組でも流しておこう。
「さて」
ごろん、と布団の上に転がる。二人でも十分な空間がある部屋なので、一人になるとより一層部屋の広さを感じた。
幼い頃から母と二人暮らしで家に一人でいることの方が多かったから、一人が嫌いなわけでも苦手なわけでもない。ただ、ここ最近はずっと葉月と一緒だったからか、誰もいない部屋に少しの寂しさを覚えてしまった。
あるいは単純に葉月が恋しいだけだろうか。
自分でもびっくりするくらい葉月のことばかり考えている気がして笑えてくる。
「これは重症だなあ」
露天風呂で陽治さんと葉月の話題で盛り上がった時に改めて実感したけれど、陽治さんはとても葉月を大事に思っている。そんな人が、娘と同い年の男の二人暮らしを許容することにどれだけの勇気が必要だったことだろうか。
陽治さんの気持ちを思えば、俺が葉月に恋心を抱いているなどとは、口が裂けても言うことはできない。
「ユイさんの言うことも一理あったな」
苦笑しながら、あの合コンで出会ったユイさんの言葉を思い出す。「結構難しいトコ攻めんじゃんか月守」と笑った彼女の言葉は、確かに的を射ていた。まあ、彼女の考える難しさと俺の考える難しさは違うけれども。
「……ユイさんってだあれ?」
「ほわっ!?」
と、そこで頭上から予期せぬ声が降ってきた。思わず跳ね上がってしまう。
はだけた浴衣をかき抱きつつ声の主から距離を取ると、そこには笑顔の――確かに笑顔なのだが少しの威圧感を感じる――葉月が立っていた。
いつの間にかこちらの部屋にやってきていたらしい。葉月が遊びにきてくれたことは素直に嬉しいのだが、おかしいな、ちょっと笑顔が怖いぞ。
「は、葉月さん……いつの間に?」
「ついさっきだよ。そうしたら甲洋くんがユイさん……? のこと呼んでるから気になっちゃって」
「あ、いや、そんな大したことじゃないんだ。ただの独り言」
「そう……」
打って変わって悲しげな顔を見せる葉月を前にすると、胸がざわざわする。己が恋した少女にそんな表情をさせていることに対する自責の念だろうか。
ユイさんに関して詳しく説明すると色々墓穴を掘りそうなのだが、説明しないままで葉月を悲しませるのは論外だ。別に葉月が悲しむ要素はないような気もするけど……という疑問は放っておく。
「あ、あー、ユイさんってのは前の合コンで出会った子でさ、付き合わない? って言われた子」
「あ……」
「ちょっと思い出したんだ。でも断ったから」
ユイさんについて説明してみるも、どこか言い訳がましくなってしまう。これじゃ彼女からの提案に未練があるような感じになってないか!?
ただ、葉月は得心がいったのか、俺のあの夜の言葉を思い出したらしい。
「そっか。甲洋くん、好きなコ……いるんだもんね」
「そう。いる」
俺の目の前に。
「……うん、わかったよ。ごめんね、変なこと聞いちゃって」
「いや、大丈夫だよ」
「…………誰だろうと、負けないから」
ぼそり、と葉月が何かを呟いたけれど、そのか細い声が俺の耳に届くことはなかった。
葉月が何を言ったのか気になりはするが、全てを知りたいと願うのは傲慢だろう。そんなことを思いつつ、話題を変える。
「それより、どうしてこっちに?」
「あ、うん、洋子さんがお父さんと一緒に煙草を吸いに行ったから、一人で寂しくなっちゃって」
「そっか……」
葉月も俺と同じように、二人でいることが当然になってしまっているのだろうか。同じことを考えていた、と思うと、否応無しに心が弾んでしまう。
「じゃあテレビでも見ない?」と誘うと、葉月は満開の笑顔を見せてくれた。やはり葉月は笑顔でなくては。俺は葉月のこの顔を見るのが大好きだ。
「それじゃ、失礼するね」
葉月が隣の布団に腰をおろすと、ぽふん、と軽い音が立った。それを何気なしに見つめていた俺は、遅まきながらこの現状に思い至り、心の中で悲鳴をあげる。
葉月と一緒にテレビを見ることくらい、自宅でいくらでもやっているけれど。いまの葉月はいつもと決定的に違う。
いろんな意味で無防備なのだ。普段は制服か洋服に身を包んでいるが、いまは浴衣だ。風呂上がりで瑞々しい肌を守るのは、薄い浴衣一枚。もちろん肌着はつけているだろうが、その防御力の薄さは通常の比ではない。
それに加えて、葉月の生来の無防備さが加わるとその破壊力は言葉では表せないほどのものになる。無防備に無防備を掛け合わせてさらにその上に無防備をトッピングしたかのような無防備。もはや無防備の暴力とも言うべき存在が視覚的に俺を攻めてくるのだ。
「リモコンはどこかな?」
女の子座りで布団の上に座るものだからその白く細い脚がチラチラ覗くし少し前のめりになりながらテレビのリモコンを探すから胸元の肌が見え隠れするし――。
「――落ち着け甲洋落ち着け落ち着け」
「甲洋くん?」
「な、なんでもないよ……リモコンは見つかった……?」
「うん、あったよ」
葉月の無防備さに気付くべきじゃなかった……。などと後悔しても後の祭り。
極力葉月を視界に入れないようにしよう、と決意し、自分の理性を叱咤した俺は、彼女が弄るテレビに意識を集中させた。
番組表をスクロールさせて「何を見ようかっ」と楽しげに話しかけてくる葉月に生返事を返しながら、隣に吸われそうになる視線を必死に修正する。
これは……めちゃくちゃなエネルギーを使うぞ……。
「あっ」
そうして必死に自分の本能と戦っていた俺だったのだけれど、次に葉月の口から飛び出した言葉に足元が崩れ落ちる感覚を覚えた。
「甲洋くん、今日、シスターカプリチオの放送日だよっ」
――なんでここで出てきやがる、義理兄妹恋愛ドラマ!
* * *
「今日もいろいろすごかったね」
「そうだなあ」
葉月の親友、香椎伊吹がオススメする義理兄妹恋愛ドラマ、シスターカプリチオ。
その最新話を視聴し終えた俺たちは、例によって気恥ずかしさを抑えられず少し離れたところに位置しながら今回の感想を交わし合っていた。
「何がなんでもお兄ちゃんを落とすんだーって熱がすごいよね……」
「だな……」
色仕掛けは当然として言動やらなんやら使えるものはなんだって使って兄への好意を示そうとする妹からは、役者のシンクロっぷりも相まってかなりの気概を感じた。
「両親の前でだって構わずに攻めてくるもんな」
「うん……一緒に寝ようとするし……やっぱりそれくらいの勢いがいるのかも……」
『大声出したら二人にバレちゃうよ?』などと言いながら蠱惑的な笑みを見せ、兄を籠絡せしめんとする妹の演技はすごかった。視線を離せなかったくらいだ。
「あれ……」
と、そこで俺は、自分が声に出した「両親」という言葉で、ずっと忘れていたことに思い至った。
「今気づいたけど、陽治さん遅いな」
いくらなんでも陽治さんと母が戻ってくるのが遅くないだろうか。ドラマを一話まるごと見終えたというのに、まだ紫煙を燻らせているとは考えづらいのだが。
すると、葉月も「そういえばそうだね」と手を打った。俺たち二人ともドラマに夢中すぎて親のこと忘れてたの結構ひどいな。
「もしかしたらわたしたちがドラマ見てるのに気を使ってくれたのかも」
「あー……あるかもしれない」
葉月の想像は正しい気がした。部屋に戻ってきたら俺たち二人が夢中でドラマを視聴しているので、邪魔をしないよう隣の部屋でのんびり晩酌を楽しんでいる――ってのはあり得る想像だ。
「甲洋くん、わたし、向こうの部屋に戻るね。きっとお父さんもいると思うし」
言いながら、葉月が立ち上がった。浴衣が少し捲れてその美脚が姿を現しそうになったので、俺は必死で視線を逸らす。
「そ、そっか。遊びに来てくれてありがとな、葉月。おやすみ」
「ううん、こちらこそ。ありがとう甲洋くん。おやすみっ」
もうそろそろ就寝するには良い時間だ。
お互いに礼を述べた後、俺は部屋を出て行く葉月の背中を見送った。ちょっと名残惜しいけれど、シスターカプリチオよろしく葉月と一緒の部屋で眠るというわけにはいくまい。
それに陽治さんが戻ってきたら、寝るまでに色々な話をするのも楽しみだしな。
陽治さんとどんな話をしようかな、と彼との話題に関する思考を巡らせながら布団の皺を直していた俺は――葉月が座っていた布団から女の子の香りが漂ってきて焦った――引き戸がガラリと開かれた音を耳にした。どうやら陽治さんが戻ってきたらしい。
「おかえりなさ……い……?」
「…………」
そう声をかけてみるも、俺の声はどんどんと尻すぼみになる。
なぜなら、部屋の入り口に立っているのは少し俯いた葉月だったからだ。ついさっき部屋から出て行ったばかりなのに、急に部屋に戻ってきたのは何故だろう。忘れ物でもしたのか。
「葉月? どうした?」
「…………ちゃった」
視線を落としながら、ぼそぼそ何をか語る葉月。
よく聞こえなかったので彼女に近づいてみる。
「…………隣、二人の世界に入ってたから戻ってきちゃった」
「…………。あー、はい、おかえり」
そっか。そっかあ……。
まあ、二人とも再婚したばかりだもんね。うん。
せいぜい俺が言えるのは、二人が幸せそうならいいんじゃないかな……ってことくらいかな。
葉月が少し頬を赤く染めている。
とすると、陽治さんと母は結構ディープな二人の世界に入っているのかもしれない。
……いやよそう、親のそんなん、深く考えたら負けだ。二人が幸せそうなら、それでいいんだ。
「もう一度お邪魔するね」
「はい、いらっしゃい」
「ありがとう」
苦笑しながら葉月を部屋に迎え入れると、同じく苦笑した彼女はまだ皺が残っている方の布団に腰をおろした。
おそらく葉月のことだから、俺が皺を直した布団には座らないようにしようと気を使ってくれたのだろう、けれども。
そっちはさっきまで俺が座っていた布団であるが故に、これでどっちの布団にも葉月の香りが残ってしまうのは確実になってしまった。やばい。
「ふぅ……」
俺が内心めちゃくちゃドキマギしているのを知ってか知らずか、葉月はころん、と布団の上で横になる。無防備の襲撃再来。
俺を信頼してくれているのはよくわかるんだけれど、俺が同い年の男子だってことは葉月の意識の中にあるんだろうか。
その浴衣の胸元が少しはだけそうになっているので、まずは目を閉じ、ゆっくりと首を動かして視線を外した。俺のこの見えない努力が報われる日がいつかくるといいんだが、なんて益体も無いことを考えてしまう。
「ねえ、甲洋くん」
「は、はい」
やがて、布団の上で隙を見せまくる葉月が上目遣いに俺を呼んだ。
彼女の瞳の中には、悪戯めいた光が見え隠れしている。
「今さらお父さんたちを邪魔するのもなんだから、今日はわたし、この部屋で寝てもいいかな」
「ひゅぇあ」
声にならない悲鳴が漏れた。
「いや、待って、葉月、それは、どうだろう」
死ぬ。俺の理性が。軋むよ。やばい。
思考が飛び飛びになり、紡ぐ言葉も飛び飛びになる。
今この状況でそんなこと提案されたらまずい。落ち着けとにかく落ち着け月守甲洋、と念仏のように脳裏で唱え続けながらどうにか平静を保っているさなか、眼下の葉月は鈴の音を転がすような声で言う。
「大丈夫だよ甲洋くん。わたしたちは兄妹だもんっ」
それはドラマのセリフぅ……。
「や、でも、ほら、色々と……」
「……甲洋くんは」
なおも言い縋ろうとする俺を制するように、葉月。
「……わたしに、あの空間に飛び込んで行けって言うの?」
目を伏せて声を震わせた葉月に、俺は返す言葉を持たなかった。
……まあ、同じ立場だったら、俺も葉月と同じことを言うだろうな!
かくして俺は、葉月と一晩を同じ部屋で過ごすことになってしまうのであった――。
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