22:……全部丸聞こえだったんだからね

「いいお湯だね甲洋くん」

「そ、そうですね」


 すぐ隣からかけられた声に、俺はドキマギしながら声を返した。

 温泉に入っているのだから当然なのだが、服を脱いで裸でいる中、他者と会話を交わすというのは個人的に結構勇気がいる行為だと思う。

 その相手が義理の父親だというのだからなおのことだ。


 陽治さんの運転で山中の温泉旅館に到着した俺たちは、自分たちの部屋に案内されて早々――家族とはいえ当然男女は別である。葉月と同じ部屋で寝泊まりするなんてことになったら俺の心臓が死ぬ――旅の疲れを癒すために露天風呂で汗を流すことに決めた。

 緑溢れる自然豊かな景色を前にちょっと熱めの湯船に浸かると、体に溜まった疲れだとか煩悩だとかその他諸々がスーッと抜けていくようで心地よい。

 ……のだが。やっぱり陽治さんが隣にいると少し緊張してしまう。彼には悪いけれど。


「はっはっは、なんだか緊張しているみたいだね」

「い、いや、そんなことは……」


 ないとは言えませんが、言えるはずもなく。


 俺から二人分ほど離れたところでお湯を楽しむ陽治さんをちらと覗き見る。

 俺や葉月の親世代という年齢を考えると非常に若々しく引き締まった体躯をしていて、中年太りという言葉からはほど遠いスタイルに見えた。ジム通いとかしてるのかなやっぱり。

 何にせよ葉月の顔とスタイルの良さは陽治さんの血を色濃く引いていることも影響しているのだろうな、と考えてしまう。


「甲洋くんから見たら私は急に父親になった男だからね。緊張するのも無理はないかな?」

「むしろ陽治さんから見たら俺の方こそ急に息子になった男みたいなもんじゃないですか」

「ふむ……そうとも言える。ではお互い様ということになるね」


 茶目っ気たっぷりに言った陽治さんを見ると、彼はパチリとウインクをして笑ってみせた。冗談を言ってこちらをリラックスさせようとしてくれているように見えるが、先ほどの言葉には陽治さんの本音が混じっているようにも思える。


 ――緊張しているのは、お互い様か。


 まあ、そりゃそうだ。

 いくら十六歳の娘がいたって、十六歳の男子が何を考えているかなんてわかるはずもない。

 小さい頃から育て触れ合いその成長や性格の変遷を見守ってきているならいざ知らず、すでにひとりの人間として人格を確立しつつある存在を家族に迎え入れると考えた時、緊張しない親がいるだろうか。

 ましてそれが大事なひとり娘と同居している男とくれば緊張は倍……ではきかないはず。

 陽治さんも俺との距離感を測りかねているに違いない。

 とくれば、まずは俺から歩み寄らないといけないか。

 それが新たに家族として迎え入れてもらう俺が見せるべき誠意だとも思うし。


 湯船のお湯を掬い上げ、パシャリと顔にかけて気合いを入れる。

 その後、俺はゆっくりと陽治さんを見据え、彼の方に人ひとり分近づいた。


「……すみません陽治さん。正直言って俺まだ緊張してます」

「ほう?」

「だからその……緊張をほぐすためにも、色々お話しさせてもらえますか」


 陽治さんの目を見ながらそう語ると、彼は葉月との血を感じさせる目元を緩めて破顔した。


「……はっはっは、参ったなあ。義理の息子に気を使わせてしまうとは」

「あ、えっと……」

「いや、ありがとう甲洋くん」


 そうやってにっこり笑った陽治さんの顔を見れば、俺の選択は間違っていなかったことがわかる。よかった。


「私もぜひ君と色々話したかったんだ。例えば葉月についてとか」

「は、葉月ですか」

「そう、そこだよ」


 ぴしり、と指を指す陽治さん。

 何かまずいことを言ったかあるいはまずい雰囲気でも醸し出していただろうかと背筋を冷やす。思い当たるのは……車の中でのやりとりとかか。


「いつの間にか名前で呼び合うようになっているね。いやいいことだ。兄妹なのだから」

「は、はい……」

「葉月はどうかな。わがままを言って君を困らせていないかな?」

「全然そんなことはないですよ。むしろ俺、毎日葉月に助けられてるくらいで」


 朝の挨拶で元気をくれるし、朝ごはんを作ってくれるし、弁当も葉月が当番してくれることが多いし、何より葉月という少女の存在が俺の生活に彩りを与えてくれているのは間違いない。葉月がいるだけでなんでもない風景がカラフルになるような気さえしている。

 今更葉月のいない生活を想像しろと言われてもちょっと難しい程度に、俺の生活風景の中には葉月がいることが当たり前のようになってしまっている。


「そうかそうか。二人の仲が良好なようで何よりだよ」

「葉月は本当にいい子なので……ありがたい限りです」

「それはこちらの台詞だよ甲洋くん。君と暮らし始める前と比べると、あの子は格段に表情が明るくなった。間違いなく君のおかげだろう」


 陽治さんに言われ、高校一年次の葉月の表情を思い出そうとしてみたけれど、全然ピンとこなかった。

 そんなに葉月の表情は変わったのだろうか。俺との同居前後で? いやまさか。

 去年も変わらず、葉月は常に明るく、優しく、周囲に笑顔を振りまく天使のような存在だったはずだ。俺と暮らし始めたからと言ってそう劇的に表情が変わるとは思えない。


 ただ……肉親の陽治さんが言うからには、きっと彼にしかわからない葉月の機微みたいなものがあって、その認識はおそらく事実なのだろう。

 だとすれば、俺は葉月から与えてもらうだけでなく、何かを与えてあげることができているのか。もしそうなら、とても嬉しい。


「葉月は学校でどうなんだい?」

「葉月は……所謂学園のアイドルってやつですね。男女問わずにすごく人気がありますよ」

「ほう、それはそれは。……親の贔屓目だが、確かにあの子は可愛いものな」

「ええ。めちゃくちゃ可愛いです」


 俺の口から飛び出た「学園のアイドル」という響きに目を光らせた陽治さんが、うんうん、と頷きながらしみじみ語る。

 葉月が可愛いという点において、俺が異論を唱えることはおそらく今後一生存在しないだろう。陽治さんの呟きに俺もまた全面的に同意する。


 そこからは、俺が学校での葉月の人気っぷりや可愛さを陽治さんに語り、陽治さんが娘の人気者ぶりに頬を緩めるという、葉月ファンふたりの語らいみたいな時間になった。

 やはり娘の学校生活が気になるのは親心か。陽治さんが色々興味深そうに尋ねてくるので、俺は知りうる限りの情報を語った。もうノリノリで。ノンストップ。止まらない。流石に俺が葉月に惚れているなんてことは言えなかったけれど。


「ふふふ、甲洋くんと話していると実に楽しいね。これからも葉月をよろしく頼むよ」

「はい、こちらこそ」


 おかげさまで、陽治さんとの距離がグッと縮まった気がする。葉月には感謝しかないな。




 * * *




「…………」

「あ、葉月」


 ちょっとのぼせかかってきたので風呂を先に上がらせてもらい脱衣所を出た俺は、旅館の共用スペースでソファに腰掛ける葉月を見つけた。


 葉月も風呂から出たばかりなのだろう。浴衣という普段とは違った装いが眩しい。

 少し汗ばんだ首筋。赤みの差した頬。濡れて艶めく亜麻色の髪。浴衣を押し上げる双丘。

 そのどれもが俺の視線を捉えて離そうとしない。ずっと見つめ続けるのは不躾だろう、と鋼の意志を持ってどうにか視線を外したところで、俺は葉月の様子がいつもと違うことに気がついた。


 具体的にいうと、少し拗ねている。なんで?


「あの……葉月さん、なんでちょっと拗ねてるんですか?」

「……全部丸聞こえだったんだからね」

「はあ」


 全部丸聞こえだったんだからね、と言われてましても。

 なんのことだろう、と首をひねるものの、俺の頭は解にたどり着けなかった。


「何が丸聞こえだったの?」

「甲洋くんとお父さんの会話……」

「え?」


 俺の方は見ようとせず、葉月はぷいっと視線を逸らしたままだ。

 その頬は変わらず赤いままだが、もしかしてその原因は風呂上がりだからというだけではなくて――、


「お、お風呂でわたしが……その、か、可愛いだとか……ずっと話してたでしょっ」

「えっ……聞いてたのか!?」

「聞こえたのっ。露天風呂の仕切りは板一枚だけだし、二人とも声が大きいんだからっ」


 言われて、露天風呂のレイアウトを思い出す。

 男風呂と女風呂を分けているのは大きな木の板一枚。周りは自然の風景に囲まれているから騒音とはほど遠い以上、それなりの声量で話しているならば板の向こう側の会話など容易に耳に届くだろう。

 俺たちが露天風呂に入った時間はほぼ同時なのだから、俺と陽治さんの葉月可愛いトークは全部葉月(とついでに母さん)に聞かれてしまっていたということ……になるな?


「な、なんで言ってくれなかったんだ!?」

「い、言えないよ! 急にわたしの話が始まって二人ともノリノリで……!」


 確かに俺と陽治さんはノリノリだった。いま思い返すと怖いくらいに。


「お、俺、なんか恥ずかしいこと口走ってなかったか!?」

「あんな話を聞かされたわたしの方が恥ずかしいと思いますっ」

「そ、それはそうですね……」


 二人とも葉月可愛いしか言ってないようなものだしな……。

 確かに止める間もなくマシンガンのように自分のことを可愛い可愛い言われるトークを延々隣で聞かされていたら……地獄かもしれない。俺だったら羞恥心で真っ赤になる。


「すみません葉月さん……気が回りませんでした。羞恥プレイも同然の真似を失礼致しました……」


 なので、素直に謝ることにした。


「あ……謝って欲しいわけじゃないもん……」

「へぁ?」


 ただし、葉月さんはなんだかご不満なご様子。その唇は可愛らしく尖ったままである。

 では、不肖月守甲洋はいったいどのような手段をもって葉月さんのご機嫌を伺えば良いのだろうか。ちょっと考えてみたけど、葉月の受けた恥ずかしさを帳消しにできる手段が思い浮かばない。

 ここは素直に白旗を上げるほかあるまい。


「……葉月さん。ヒントをください」

「うぅ……ヒントなんか出したらそれこそだよ……自力でたどり着いてっ」

「えぇ……」


 今日の葉月クイズはいつもと違って難しいな……。


 結局、陽治さんと母が風呂から上がってくるまでに俺は正解にたどり着くことができず、葉月が意趣返しとばかりに二人に対して「甲洋くんのここが優しいんです」トークを繰り広げるのを目の前で見させられたのだった。


 ちなみに母親からはめちゃくちゃにからかわれてバシバシ肩を叩かれた。涙が出るほど爆笑していたのが腹立たしい。

 ちくしょう、恥ずかしすぎるわ!

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