21:早く食べないと溶けちゃうよ?
「甲洋くん、準備できたー?」
玄関口から葉月が俺を呼ぶ声が聞こえる。
自室の床に置いていたボストンバッグに必要なものが入っているか今一度チェックし、問題ないことを確認。着替え、おやつ、財布、忘れ物はなさそうだ。
「今いくよ」と葉月に声をかけてからバッグを肩に部屋を出ると、玄関ではすでに準備を完了している葉月がうきうきした表情で俺を待っていた。
ロングのデニムスカートと白シャツを合わせた装いの葉月もまた、俺と同じようにボストンバッグを片手に持っている。少し重そうに見える。
「持つよ、荷物」
「え」
靴を履き、葉月の手から荷物を預かる。
悪いよ、と葉月が視線で訴えかけてきたが、女子が重そうにしているのに荷物を持たせたままの方が悪いと思うので、彼女からの反論は封殺させてもらう。
「こういう時は男が荷物を持つもんだ、って母さんに叩き込まれてきたんだ」
「洋子さんに?」
「そうそう。じゃあ行こう」
言いながら葉月とともに家を出て、俺たちはエレベーターホールへと向かった。
呼び鈴を押し、俺たちがいる地上五十階で停止したエレベーターに乗り込むと、葉月が楽しみを抑えきれない調子で口を開く。
「初めての家族旅行、楽しみだねっ」
そう。今日、俺たちは初めての家族旅行に出かけるのである。
俺の母である洋子と、葉月の父である陽治さんが再婚して二月近く。
俺たち四人は紛れもなく家族となった身なのだが、仕事の都合上、両親はほとんど家を空けていた。陽治さんも母もそれを心苦しく思っているらしく、少ない自由時間の中から家族旅行の時間を捻出してくれたらしい。俺もまだまだ陽治さんとは打ち解けられていないと思うので、素直にありがたい話だ。
「でもどこ行くんだ? 泊まりってことくらいしか聞いてないんだけど」
「あ、そうなんだ。温泉だよ?」
「へぇ……温泉か……」
そりゃいいや。湯船にゆっくり浸かって疲れも癒せそう……。
「って温泉!?」
「えっ。そんなに驚くこと?」
いや、だって、待って葉月さん。温泉ってことはあなたアレでしょうが。
浴衣を着た湯上りの葉月とエンカウントしてしまうかもしれないっていうことでしょう? それはまずい。非常にまずい。
葉月に目を奪われたまま視線を外すことができなくなるという危険を孕んだ超危険地帯じゃないか。温泉だなんて。
まして陽治さんの前でそんなことになったら家族会議一直線になってしまう……。
「お父さんがノリノリで決めた、って洋子さんが教えてくれたよ」
陽治さんは年頃の娘の湯上り姿を同い年の男に見せたらえらいことになりかねないということをご存知なのでしょうか。
まあ、俺が自制すればいいだけの話なんですけどね。はい。月守甲洋頑張ります。
「……ていうか葉月、結構母さんとやりとりしてるんだな」
「うん。甲洋くんの小さい頃の写真とかいろいろ見せてもらっちゃった」
いや待てそれは初耳なんだけど。何してんのあの人は。変なもん葉月に見せてないだろうな!
「変なもん見てないよね……?」
「えっ? ……あ、うん、大丈夫だよ!」
俺が恐る恐る問うと、葉月は若干の間を置いてから清々しい笑顔で答えた。
おいめっちゃ不安になるやつじゃないかよこれ。何を送ったんだ母さん。
「……俺も陽治さんに頼んだら葉月の写真見せてもらえるかな」
「えっ、だ、ダメだよそれは!」
「いやいや葉月、お互い様だろ?」
「そ、それはダメですっ」
ムキになって否定する葉月は可愛かった。
というか、これは何か人に見られたら困るような写真があって、陽治さんはそれを保有しているってことだよな。
ちょっと気になるので陽治さんに聞くだけ聞いてみようかな、などという少し意地悪な心が鎌首をもたげてしまう。
そんなこんなで葉月と話している間にエレベーターが地上一階に到着したので、連れ立ってエントランスを出る。
両親たちとはここで合流することになっている。車で俺たちを迎えにきてくれるらしい。
二、三分待っていると、俺たちが立っている歩道の前に一台の自動車が止まった。あまり車に詳しくない俺でも知っているような国産の高級車だ。
助手席のパワーウィンドウが下がり、その中に座っているよく見知った顔の女性が口を開く。母の洋子だった。
「おまたせー、二人とも」
「洋子さん! お久しぶりですっ」
「久しぶりねー葉月ちゃん! って、いっつもラインしてるけど」
「えへへっ」
早速、葉月と母が仲良さげに会話を交わす。いっつもと言ってしまうレベルでやりとりを続けているだけあって、既に二人の間に壁はないようだ。まあ葉月は誰と相対していても壁を感じさせない才能を持っているけど。
「やあ、甲洋くん。待たせてすまなかったね」
きゃいきゃいとはしゃぐ葉月と母の姿をぼんやり眺めていると、運転席から降りてきた陽治さんに声をかけられた。
久しぶりに会ったけど、相変わらずナイスミドルという呼称がよく似合う人だ。さすがは葉月のルーツと言わざるを得ない。
「お久しぶりです、陽治さん。全然待ってないので大丈夫ですよ」
「はっはっは、ありがとう。さ、荷物を積み込もうか」
陽治さんに促されるようにして、車のトランクに俺と葉月二人分の荷物を詰め込む。
そして、陽治さんにエスコートされながら、そのまま流れるように俺と葉月は後部座席に腰掛けた。革張りのシートがこの車のグレードの高さを物語っているようだ。
「よし、これで全員揃ったね。それじゃあ出発だよ」
俺と葉月がシートベルトを締めたのを見て、陽治さんが車を発進させる。
「……いよいよ旅行なんだな、ってわくわくしてきちゃった。甲洋くんはどう?」
「俺も楽しみだよ。葉月を見てると余計に」
「ふふっ、わたしも同じ」
嬉しそうに笑う葉月につられて、俺も嬉しい気分になってしまう。
彼女の笑顔は周りも笑顔にする力がある、と思うのは惚れた身の贔屓目だろうか。
「あらあら……」
「……ほう。以前よりもずっと仲が良くなったようだね」
俺たちのやりとりを聞いていた前席の二人が、バックミラー越しに生暖かい視線を送ってきているのに気づく。
自分たちのやり取りがすごく恥ずかしいものだったことに思い至り、俺と葉月は二人して赤面するのだった。
* * *
「見て見て甲洋くん、この子すっごく可愛いよっ」
差し出したキャベツの芯をもしゃもしゃと咀嚼する檻の中のウサギを見て、葉月が嬉しそうに語る。
ウサギも可愛いしウサギを愛でる葉月の方がより一層可愛いと思ったけれど、そんな感想はとりあえず胸に秘め、俺も檻へ近づいていく。
陽治さんの運転で温泉旅館を目指す俺たちは、小休止のために道中の道の駅に降り立っていた。地域の特産品販売コーナーや軽食の屋台が並ぶこの道の駅の一角には小動物とのふれあいスペースが設けられていて、俺と葉月は二人でそこを眺めているのだ。
ちなみに、陽治さんと母はどちらも喫煙者なので、仲睦まじく喫煙所に向かっていった。
「甲洋くんもご飯あげてみて?」
「あ、うん」
葉月から彼女が持っているキャベツの芯(ウサギさんのごはん/50円)を手渡されたので、俺もウサギへの餌やりにチャレンジしてみることにした。
ウサギはそのクリクリとした黒い瞳で俺をじっと見つめ、キャベツの芯を与えられるのを今か今かと待っている……ように見える。
「今あげるからちょっと待ってろって……ほれ」
ウサギにそんなことを語りかけながら、キャベツの芯を差し出してみる。
隣で中腰になった葉月も「甲洋くんがご飯くれるって言ってるよ〜」とウサギに語りかけているのが少し可笑しい。二人して何をしているのやら。
だが、当のウサギは俺から差し出されたキャベツには見向きもしない。
挙句に、ふい、と顔を背けてしまった。なんで?
「……俺嫌われるようなことした?」
「どうしたのかな? 体調不良とか?」
葉月が心配そうにウサギを覗き込むけれど、さっきまで元気に葉月からの餌を食べていた以上、そんな急に体調を崩すこともないだろう。
「満腹になったとかかな」
「うーん。もう一回わたしからもあげてみるね。ウサちゃん、ごはんだよ〜」
「……あっ、こいつ」
そう言って葉月が差し出した餌に、ウサギは一も二もなく飛びついた。
葉月から貰う餌の一つも無駄にしない、と言わんばかりの勢いでモグモグとキャベツの芯を頬張っていく。
男の俺に餌をもらうより、優しく可憐な葉月からこそ餌をもらいたいということか。仮にそうだとしたら、このウサギ結構見る目がある。
もしゃもしゃと餌を口に溜め込むウサギの黒い瞳が「葉月から差し出してもらう餌は最高の味だぜ」と語りかけてくる気がした。
「……いや絶対気のせいだわ」
「甲洋くん?」
「……なんでもない。それよりなんか甘いものでも食べないか?」
餌を頬張るウサギを見ているうちに俺もなんだか間食したい気分になってきたので、葉月を誘ってみる。
賛成と頷いたのち、きょろきょろと辺りを見渡した葉月が「あれなんかどうかなっ」と指を差したのは、この近くの牧場直産の生乳をふんだんに使ったという濃厚ソフトクリームの屋台だった。
屋台を離れていく人たちの手に握られている真っ白なソフトクリームを見ていると、俺もぜひ味わってみたい気分になるから困る。美味しそうなものを見かけたら食べたくなるのが旅行というものか。
「いいね、美味しそうだ」
「じゃああれにしよっ」
ウサギに別れを告げ、葉月とともにソフトクリームの屋台へと足を向ける。
牧場育ちの絶品濃厚ソフトクリームは人気なのか、そこそこの人が並んでいるようだ。
「わたしが買ってくるから、甲洋くんは待っててくれる?」
「いや、悪いよ。並ぶなら俺が行くって」
「だーめ。朝、わたしの荷物を持ってくれたでしょう? そのお返しをしなくちゃいけません」
そんな気にすることはないのに。
そう考えながら葉月に目で訴えかけたものの、朝の俺よろしく抗議は封殺されてしまった。こうなってしまってはお互い様、という他ないか。
せめてソフトクリームの代金だけでもと思って千円札を差し出したけれど、それすらも受け取ってはもらえなかった。葉月もなかなかどうして頑なである。
葉月が一度そう決めたらもはや俺からは何も言うことはできないので、素直に彼女に任せることにする。
俺は列から外れ、屋台のすぐそばのベンチに腰掛けて葉月を待つことにした。
(やっぱりとびきりの美少女だよな……)
屋台に並ぶ葉月を少し遠巻きに眺めていると、彼女が周囲の視線を集めていることがよくわかる。男性はもちろん、女性ですら一度は葉月に視線を取られてしまうのだから流石だ。
家族だからこそ、俺はそんな彼女の隣に立って会話を交わすことができているけれど、その縁がなければどうなっていただろう。
榛名もいるし、毎日が楽しいのは絶対間違いないだろうけど……今ほどの楽しさではなかっただろうな。学園のアイドル天空橋葉月という存在を遠くから眺め、憧れていることしかできなかったに違いない。
改めて、葉月と出会い、家族となり、彼女との仲を深められていることに感謝したいと思った。
「……ん?」
ところで、屋台に並んでいた葉月がいよいよソフトクリームを購入する段になったのだけれど、彼女が手にしているソフトクリームが一個しかないのはどういうことだろう。
葉月はソフトクリームを食べるつもりがないのか? というか、前もなんか似たようなことがあった気がしないでもない。
「……甲洋くん、お待たせっ」
「あ、ああ、おかえり葉月」
頭の中に疑問符を飛ばしまくっていたので、葉月が戻ってきているのに対する反応が遅れた。やっぱり彼女の手に握られているソフトクリームはひとつだけだ。
「葉月、ソフトクリームは二つ買わなかったのか?」
当然の疑問を葉月に投げかけるけれど、ただただ笑顔を見せるだけで、葉月は何も語らなかった。
「すっごく美味しそうだよ、このソフトクリーム。はいどうぞ、お兄ちゃん」
「え、あ、いや、お兄ちゃんて……いやそれよりソフトクリームを二つ」
「早く食べないと溶けちゃうよ? お兄ちゃん」
ニコニコと無邪気に見えるけれど、その実その裏にはもっと何か違う感情を隠しているような。可愛いけれどちょっとの裏も見え隠れするような笑みを見せながら、葉月がソフトクリームを俺の口元に差し出してくる。
食べろと? そりゃ食べたいのは山々だが俺が食べたら葉月のソフトクリームはどうなる?
「ありがとう……でも俺が食べたら葉月はどうするんだ」
「大丈夫。心配いらないよ甲洋くん。どうぞっ」
「あ、ああ……」
もはや有無を言わせず、といった体である。口元に伸ばされたソフトクリームがいよいよ垂れ落ちそうになってしまったので、俺は舌を伸ばしてその真白を掬う。
直後、舌に濃厚な甘さとコクを感じ、俺はこのソフトクリームが絶品濃厚の名に恥じるものでないことを知った。こりゃ美味い。
「これは美味いな」
「ほんと? じゃあわたしも」
「えっ」
止める間もなく、葉月がその紅い舌をちろりと出してソフトクリームを舐め取った。
紅と白のコントラストは映えるなあ、なんてすっとぼけた感想を抱いてしまったが、想像を越えた葉月の動きに心臓が物凄い勢いで鼓動しているのを感じる。
「は、葉月!? なにして……」
「あ、美味しい……」
美味しいのはわかる。わかるけど。そこはさっき俺が舐めたところでですね。
俺が上手いことこの気持ちを言語化できないでわたわたしていると、葉月は俺の言いたいことを汲んでくれたのか、ひとつ頷いて語った。
「ふふっ、ソフトクリームを分け合って食べるの、やってみたかったんだ」
「え」
「……ダメだった?」
目を伏せる葉月を前に、俺が異論を挟むことなどできようはずもない。
「……だ、ダメじゃない、けど」
「ありがとう。それじゃ……つぎは甲洋くんが食べる番っ」
「ああ……んぐっ」
葉月から差し出されたソフトクリームを再度舐め取る。
家族だとか、兄妹だとか、そんなんすっ飛ばして恋人じみたことすらしているのではないか、などという疑念が浮かび上がってこないではなかったけれど、葉月が望み、喜ぶならばいくらでも付き合うのが男の甲斐性というものではなかろうか。
「ん……」
俺がそんなことを考えているのを余所に、葉月がその舌でソフトクリームの山を掬い崩す。
葉月のその姿を目にすると、口に含んでいるソフトクリームの甘さがより一層増していくような気がした。
「甲洋くんが舐めたところ、すごく甘いかも」
「へぁ!?」
「な、なんちゃってー……」
葉月がその頬を赤く染め、視線を俺から外しながら言う。やはり葉月も恥ずかしかったらしい。俺もめちゃくちゃ恥ずかしい。
……そのまま二人して言葉少なにソフトクリームを食べあったけれど、この家族旅行中、俺の心臓は無事に保ってくれるのだろうかと、少し不安に覚える昼下がりになった。
でも、嬉しくなかったかと言われれば嘘になるのが男の悲しいところだよね。
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