17:むしろそれがいいの
「月守先輩、必ずお礼はしますので……! ありがとうございます!」
何度もこちらを振りむいてはこちらにペコペコ頭を下げてくる初々しい後輩に「気にしないで」の意味を込めて手を振ると、彼女は最後にもう一度だけ大きくお辞儀をした後、俺が貸した傘を片手に雨の中を駆けていった。
今から駅へ直行すれば、間違いなく電車には間に合うだろう。彼女がバイトに遅刻することもなさそうだ、と考えて俺はほっと安堵のため息を漏らした。
さっきの後輩とは、今日が初対面だ。
千葉教諭の依頼を受けて下校時刻ギリギリまでクラス委員の仕事に従事していた俺は、帰宅するために足を向けた昇降口で彼女に出会った。
彼女もまたクラス委員の多忙さの洗礼を受けていた同士であり、下校時刻まで仕事に追われていたらしい。ただ、いざ帰ろうと思ったときにこの雨に見舞われたという。
しかし間の悪いことに朝の天気予報を聞き忘れていた彼女は傘を家に忘れてしまっていて、しかも今日はバイトのシフト日。
制服を濡らして色々透けてしまう状態になってでも駅に向かうか、それともバイトを諦めるか。高校生にとって非常に重要な二択を前に昇降口でうんうん思い悩んでいた彼女に話を聞いた俺は、自分の傘を貸し出した……と、そういう次第である。
相合傘という選択肢を考えなくもなかったが、どうしても歩みが遅くなるし、何より高校に進学したての女子にとって知らない男子の先輩との相合傘は少しきつかろうという思いもあったので、傘を貸すだけに決めた。
「良いことをすると気持ちがいい」
うんうん、と頷きながら空を見上げる。どんよりとした鉛色の分厚い雲が一面に広がっていて、雨はまだまだ止みそうにないことを伝えてきていた。
置き傘の一つや二つでもあればよかったのだが、学内で溜まりに溜まりすぎた置き傘は去年一斉に撤去されてしまったので当てにはできない。
職員室の教師陣に借りることも考えたが、彼らはほとんど自家用車での通勤なので傘は常備していないだろう。
さて、どうしたものか。
俺は男だし、最悪濡れて帰るという手段もとれる。というかおそらくそれが一番面倒が少ない。面倒なのは濡れた制服をしっかり乾かす必要があることだけだ。
「とりあえず葉月には今から帰るって言っとくか……」
クラス委員の仕事を千葉教諭に任されたのは放課後に入ってからで、既に葉月が帰宅してしまっていた後だった。そのため、葉月は俺がこの時間までクラス委員の仕事をしていたことを知らない。
ちなみに、仕事を言い渡すの遅くないですか、と千葉教諭に文句を垂れたのだけれど、ひたすら「すまん」と言いながら親指をいじいじしている姿を見ているといたたまれなくなったので結局折れた。あんなん目にしたら怒りも引いてくよ……。
もう学内にはほとんど人が残っていないので、電話にしよう。
そう思い、葉月の電話番号を呼び出したらほぼワンコールで繋がった。早い。
『あっ、甲洋くん?』
「ああ、葉月。もう家か?」
『うん、そうだよ。……甲洋くんは柳生くんと遊んでるの? 晩ご飯は麻婆豆腐だけど、外で食べてくる?』
「遅くなってごめん。榛名と一緒にいるわけじゃない。というか、そもそもまだ学校なんだけど」
『えっ、学校?』
どういうこと、と尋ねてくる葉月に今までの経緯を簡単に説明すると、彼女は少し怒ったような口ぶりで言った。
『千葉先生に仕事渡されたとき、どうしてわたしを呼んでくれなかったの?』
「どうしてって、だって葉月はもう帰ってたし、今さら学校に呼び出すのも悪いだろ?」
『悪くないよっ。むしろ呼んでくれない方が悪いんだからねっ』
「ええ……? 葉月は責任感が強いな……」
『……もうっ』
電話越しだから葉月の表情は見えないけれど、おそらく今度は呆れた声になった。
『……自分で置き換えて考えてみて。甲洋くんが先に帰った時に、わたしだけ仕事を渡されて、でも甲洋くんに何も言わないの。どう思う?』
「嫌だ。そんなことになったら絶対言ってくれ」
『ありがとう。だからわたしもそう言ってるんだよ?』
なるほど、立場を入れ替えてみると実にわかりやすい。
葉月にだけ仕事が押し付けられて自分だけが家でのんびりしてた、なんて気づいたら、俺はいてもたってもいられなくなってしまいそうだ。
……つまり葉月は、今の俺が考えたようにいてもたってもいられないのだろうか。もし葉月がそんなことを思ってくれているならば、とても嬉しい。
「ごめん葉月、俺が悪かった」
『うん。同じようなことになったらわたしもちゃんと言うから、今度は甲洋くんもちゃんと言ってね?』
「わかった。約束する」
『よろしいっ』
葉月のお許しを得たので、改めて俺は元の話題へと軌道修正を図る。
もともとこの電話は葉月に今から帰宅することを伝えるためにかけたものだ。
「ごめん、話を戻すけど。今から家に帰るから」
『え? でも傘はないんだよね?』
「ああ。まあ濡れるだろうけど、大した距離じゃないし」
『ダメ』
え? 力強い葉月の否定の言に思わず固まってしまった。
少し間をおいてから、再び彼女に問いかける。
「葉月? ダメって?」
『この雨の中、傘もささずに帰ってきたら風邪ひいちゃうよ。だからダメ。認められませんっ』
「そうは言ってもな……」
『今から学校に傘持って行くから。ちゃんと待っててね』
いや、この雨の中、葉月に傘を持ってこさせるのはさすがに悪い。
それなら俺が濡れ鼠になって帰る方がよっぽどましだ。
そんなことを考えて葉月に遠慮の気持ちを伝えたのだけれど、
『クラス委員の仕事のことを伝えてくれなかったんだから、甲洋くんが文句を言う権利はないと思うなぁ?』
……それを言われると非常に辛い。
結局葉月の言葉に俺はぐうの音も出せず、彼女に傘を持ってきてもらうことに決まってしまったのだった。
それから約二十分後。
昇降口でぼんやり外を見つめていた俺は、校門のほうから傘をさして駆け足でやってくる人影を見つけた。葉月だ。
何も走らなくていいのに、律儀に駆けてきてくれる彼女の優しさに温かい気持ちがあふれ出る。本当に良い子だ。
「……お待たせ、甲洋くんっ」
少し息を切らしながら笑顔を見せてくれた葉月に、俺もまた笑顔を返す。
「全然待ってないよ。わざわざごめんな、葉月」
「ごめんじゃなくて、ありがとうって言ってほしいな?」
「おっと……ありがとう、葉月」
俺の言葉に頷いて、葉月はくるりと華麗にターンした後、こちらに振り返った。
「それじゃ、帰ろっか?」
……うん。
帰宅することに否やはないというか、むしろそのために葉月が来てくれたのだから当然のことである。
でも、もともと葉月は俺用に傘を持ってきてくれるという話でしたよね?
だというのに、葉月の手には葉月がさしてきた傘の一本しか握られていないのはどういうわけだろうか。不思議だなあ。
「……葉月、一つ聞いていい?」
「うん」
「俺の傘は?」
「え? これだよ?」
「葉月の傘は?」
「……これだよ?」
おかしいな。俺には葉月が掲げて見せた『俺の傘』と『葉月の傘』が同一の傘にしか見えないな。これは一体どういうことなんでしょうか葉月さん。
「傘が一本しかなくないですか?」
「傘は一本だけで十分じゃない?」
おっと、どうも葉月と俺の間には傘の必要本数について認識の相違があるみたいですね。
このままいくと一本の傘の中に二人並んで入るほかなくなるんですが、そこのところはどうお考えなんでしょうか葉月さん。
「相合傘になるよな?」
「相合傘になるよ?」
当たり前じゃない、みたいな顔で言われても困る。
ほとんど生徒は下校しているから、別に相合傘を見られるのがまずいとかそういうわけではないのだけれど。
「甲洋くん……わたしと相合傘は、いや?」
「嫌じゃない」
「ふふっ、即答してくれるんだね」
葉月と相合傘させて貰えて文句を言う男がいるのだろうか?
ただ、問題はそういうことではなくてですね。
「相合傘したら葉月も濡れちゃうぞ」
一本の傘に二人の人間が入るという行為自体にそもそも無理がある。
よほど大きい傘じゃない限りは、雨に晒される部分も必ず存在するわけで。
わざわざ家から出てきてくれた葉月を雨に濡れさせてしまうというのは、俺としては少し心苦しいところがあった。
「ほんとにもう……。甲洋くんって気を遣いすぎじゃないかな?」
「え? そうか……?」
「そういうところも、甲洋くんの良いところだと思うけどねっ」
言って、葉月はその頬を緩めた。
そんな風に褒めて貰うと少しむず痒いけれど、素直に受け取っておくことにしよう。
「さ、帰ろう? 麻婆豆腐が待ってるよ」
「……そうだな。帰ろうか」
傘を掲げる葉月の隣に立ち、俺はその傘を受け取った。
今さら相合傘をやめようなどというつもりは毛頭ないが、それでも葉月が雨に濡れる量は最低限にしておきたい。
義理の妹である葉月を雨に濡らしたなんて母親に露見した日にはどうなることやら。ちなみに俺の名誉のために言っておくと、別に母親が怖いわけではない。断じて。
* * *
俺がさしている傘の下、葉月と二人、肩を寄せ合って雨の中を歩く。
会話の内容は学校であったことや、今日の晩ご飯、あとは俺が傘を貸した後輩のこととか。後輩が女の子だという話をしたらなぜか少しだけ葉月の声が強張っていた気もする。
前にドラマを一緒に視聴した時ほどの密着感があるわけではない。しかし、相合傘というこのシチュエーションにはどこか青春っぽい色が見え隠れしていて、歩く中で葉月と腕や肩が擦れ合うたびになんだか少しドキドキしてしまった。
「……ねえ、甲洋くん」
ずっと取り留めもない話に華を咲かせていた俺たちだったのだけれど、自宅と学校のちょうど中間点くらいに差し掛かったあたりで、葉月がその足を止めた。
どうしたのだろうか。俺も彼女に合わせて歩みを止め、葉月の言葉の続きを待つ。
「さっき、甲洋くんは気を遣いすぎだと思うって言ったじゃない?」
「うん」
「今も気を遣って、わたしがあんまり濡れないようにしてくれてるよね?」
葉月の視線は俺の左肩に注がれていた。
葉月の言う通り、俺の左半身はわりと雨に濡れている。
それは俺の右側を歩いていた葉月に傘の比重を多く置いていたからなのだが、葉月を雨に濡らさないほうがよほど大事なことなので、気にするほどのことでもない。
「大したことじゃないよ」
「相合傘がしたいって言ったのはわたしだから、こんなこと言うのはお門違いだとは思うの。でもね、甲洋くんがひとり濡れちゃうのはいや」
葉月は目を伏せてかぶりを振った。
「つっても、そしたら葉月も濡れることになるよ?」
「いいよ。むしろそれがいいの」
問いかけた俺に対し、葉月はその視線を持ち上げる。
こちらを見つめるその透き通った瞳の中に、俺は葉月からの確かな親愛の情を見た。
「わたしは、ふたりで一緒に雨に濡れたい」
葉月は艶やかに微笑んで見せ、その白くたおやかな手で、傘を握る俺の手を包み込む。
今まで葉月にはいろいろとドキドキとさせられる台詞を聞かされてきたし、今耳に届いたそれは、決してそこまで直接的な何かを内包しているものではない。
だけれども、どうしてか彼女の言葉はずっと耳に残って。
触れ合う手は熱とともに葉月の想いをこちらに伝えてきているようで。
俺は、今までにないくらいに心臓が早鐘を打ち、自分の頬に急速に熱が集まっていく様を、ただ他人事のように感じていた。
――この雨じゃ、この熱は冷ませないかもしれない。
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