16:やっぱり甲洋くんも男の子だね
「……おおう」
風呂に入る直前のこと。
俺がそんな感嘆の呟きを漏らしてしまったのは無理のないことだと胸を張って言いたい。
それが置かれていたのは、風呂場に続く洗面所兼脱衣所に存在する最新型ドラム式洗濯機、その眼前に置かれた洗濯籠のてっぺんだ。
綺麗に折り畳まれた葉月の服が折り重なって積み上げられ、山をなす洗濯籠のその頂点。かわいい葉月が着こなすかわいい服たちを統べるかの如く、それらの上に鎮座するそれ。
圧倒的とも呼べる存在感を放つそれを、人はブラジャーと呼んだ。
「…………」
思わずじっと見つめてしまう。
女の子の、それも同い年――というか家族のブラを凝視するなど下手すれば家族会議ものではあるが、それでも俺の男としての本能はその威容から視線を逸らすことを許してはくれなかった。
肩紐と、パッドの端にフリルが踊る水色の下着。爽やかな色が快活な葉月にはお似合いだろう。
昨日はこんな堂々と置かれてはいなかったと記憶しているのだが。
「……って俺は何考えてんだ! 馬鹿!」
頭を振って、あまりにも俗な想像を脳裏から追い出そうとする。
しかし、一度目にしてしまったそれは強烈に瞼の裏にこびりついて離れようとはしてくれない。
俺が風呂に入る前には、葉月が風呂に入っていた。
従って。当然のことではあるが。
葉月はこの脱衣所で衣服を脱ぎ、衣服を洗濯籠に入れ、そして浴室へ足を踏み入れたことになる。
服を着て風呂に入るやつはいないのだから当然の話である。
大事なことだから繰り返させてもらう。葉月は、この脱衣所で衣服と下着を脱いだ。
一時間ほど前に、葉月は今日一日中身につけていた下着を脱いだのだ。つまり目の前に御坐すこれは、つい先ほどまで葉月が身につけていたものということになる。
するりするりと、靴下を。スカートを。ブラウスを脱いでいく葉月の姿を幻視する。
やがて上下ともに下着だけになった彼女は背中に手を回し、ブラのホックを――。
「あああああああああ! 俺は何を考えてるんだ馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」
葉月の動きをトレースしかけてしまったところで、俺はようやく正気に返った。
いま、俺は確実に、踏み越えてはいけないラインを踏み越えかけている。
葉月は、確かにかわいい女の子だ。だが、それ以前に家族、妹なのだ。
彼女や彼女の所有物に、下卑た視線を向けることが肯定されるはずはない。俺はそんなことを許せない。
……いや、たまにちょっとそういう視線で見ちゃう時がある気もするけど。というか腕に抱きつかれたときとかかなり結構焦ったし危なかったけど。でもここまでじゃない。ここまで変態的な思考に陥ってはいない。
「俺はなにも見なかった。なにも見なかったことにして、大人しく風呂に入ればいいんだよ。入るしかないんだよ」
自分に言い聞かせるようにしながら、俺はシャツを脱ぐべく裾にその手をかけた。口に出して命じなければ、俺はもう動けない。
しかし、手をかけただけだ。俺の脳みそは間違いなく、俺の両腕に、今着ているシャツを捲ることを命令している。
だというのに。体の前でクロスさせられた俺の腕は、その中に鉛でも仕込んだかの如く、あるいは神経が通っていないかの如く、まったくもってぴくりとも動く気配を見せなかった。
ただ視線は。俺の視界だけは、水色のフリルが眩しいブラを捉え続けている。
「…………」
あくまで意識は洗濯籠に残したまま、視線を素早く脱衣所のスライドドアに走らせた。
ドアは半開きで、その先少し遠くから葉月が視聴しているであろう音楽番組のBGMが聞こえてくる。
今日はお気に入りのアイドルユニットが出てくるので楽しみだと、先ほど葉月が笑顔混じりに語っていたことが思い出される。
つまり。つまりはだ。
この時間、今この瞬間、葉月は俺の行動を一切感知しないと言えるのではないだろうか。
俺がこの脱衣所でなにをしていようと、葉月はそれを一切知ることはない。
いや、別に変なことをするつもりはまったくないのだ。毛頭ないのだ。
ただ少し、知的探究心を満たしたいというか。いったいどれだけの大きさなのかなあ、とか。
そういう、学術的な興味から湧きいずる己のこのパッションを形にしたいっていうかね? まあ、そういうね?
……男なんだから素直に言うか。気になるよね、ブラ。
俺が相当に変態的な思考に陥っているということはよく自覚している。
しかし、目の前に、葉月のようなかわいい女の子の下着が置かれているのだ。学園のアイドル、あの天空橋葉月のブラだ。
これはむしろ手にとって調べるくらいのことをしなければ逆に失礼にあたるのではないか?
「いや、しかし……そんなことをして葉月に申し訳ないと思わないのか?」
人の信頼を得るのは困難だが、それを失うのは一瞬で足りる。
今まさに、葉月との信頼関係が構築されかけようとしている最中に。一時の気の迷いでそれを水泡に帰させようと言うのか月守甲洋。
「だが、気になる……とても気になる……。いったいどれほどのファンタジーがそこにあるのか」
夢か。男の夢が詰まった器が、ちょっと手を伸ばしたそこにある。
迷うことはない。恐れることはない。掴め、その手に。月守甲洋。
やめろ俺。止まれ俺。葉月を、陽治さんを、母さんを裏切るのか俺。
家庭崩壊の危機を招くつもりか。月守甲洋。
本能が。理性が。俺の中でひしめき合い、渦を巻くようにぐるぐると思考が絡まり合っていく。
ブラを手に取るか。いやさ、取らないのか。たかだがそれだけ。されどそれだけ。大きな、とても大きな難問を前に俺はついに決断を下す――!
「――――」
……やってしまった。
崩れ落ちるように脱衣所に膝をつく。しかし、両の手は水色の肩紐を捕らえて離さない。
俺は結局、自分の本能には勝てなかったのだ。ブラを観察したい欲に、俺は負けた。
「こ、これが、葉月の……」
「……甲洋くん、お風呂長いね。寝てない?」
「……えぁ?」
「あ」
……時が、止まった気がした。
なにも知らない、穢れを知らないであろう、無垢な葉月の声とともに、がらりと半開きだった脱衣所のスライドドアが開け放たれた時。
俺は果たしてどのような顔をしていたのだろう。
脱衣所にあって服も脱がず、ただ膝立ちで、己のブラジャーを宝物のように眼前に抱える俺の姿を見て、葉月はなにを思ったのだろう。
少なくとも俺は、膝をつくこの床が割れて、地上五十階から転落したかのような錯覚を覚えた。いやむしろ、なんなら転落したかった。いっそ殺してくれと叫びたかった。
「は、はづ……」
「甲洋くん」
名前も呼ばせてはくれない。当然だろう。俺はそれだけのことを仕出かしてしまったのだ。
ああ、楽しかった。このひと月は本当に楽しい日々だった。葉月とひと月の間も同じ屋根の下で暮らせたことは月守甲洋史に残る最高至上の出来事だったと記録してもいいだろう。
さらば天空橋家、そしてこんにちは留置所。
俺にもはや抵抗する意思などない。素直に、神妙にお縄につこう。
それが誠意というものだ。
しかし、葉月の柔らかな唇から紡ぎ出される言葉は俺が想像していたものとは全くベクトルが異なっていて――。
「やっぱり甲洋くんも男の子だね。……えっち」
――頬を赤く染めて、葉月はそう言ったのだ。
え? それだけ? 俺を詰らないのか? なんなら俺はこれから出頭するだけの気概すらあるぞ。
しかし、葉月には俺を責めようとする意思も、弾劾する意思も見受けられない。
「……って、いつまで拝んでるのかなっ、もう。早くお風呂、入っちゃいなよ」
「いや、でも、葉月……」
「わたしは気にしてないよ。見えるところに置いておいたわたしも悪いんだから」
俺の手からブラを奪い取りつつ、葉月が言う。
天使か。
この娘はやっぱり天使だったのか。
こんな醜い行為に手を染めてしまった俺に、それでもまだこんなに優しい言葉をかけてくれるのか、君は。
だが、それでも、それでも謝罪だけはしなければならない。
葉月は許してくれているのだろうけれど、それだけはきっちりとしなければ。
「葉月……本当に申し訳なかった。信頼を裏切る真似をした」
頭を下げ、真摯に言葉を紡ぐ。
「うん、いいよ。許します」
「……ありがとう。こんなことで代わりになるとは思わないけど、それでも、俺に出来ることなら何でもするから」
「本当?」
「ああ、もちろん」
力強く頷いてみせる。俺が彼女に返せることは、これくらいしかないのだ。
「まだ特にしてほしいこととかはないから、その権利だけはもらっておくね?」
「うん。いつでも言ってくれ」
「わかった。はい、それじゃとっととお風呂に入る入る」
* * *
先ほどの己の醜態について、俺はお湯に浸かりながらぼんやりと考えていた。
今後も、自分の理性を試される局面は幾度となく出てくるのだろう。
今回は葉月の優しさに救われた。だが、こんなことを繰り返していては、葉月に嫌われるのは確実だ。
もっと自分を強く持たなくては。本能に、己の獣慾に負けない確固たる自分を貫き通そう。
「……今までに築いたちょっとの信頼は無くなったかもしれないな」
そう考えると少しブルーになるが、全ては己が招いたこと。自業自得だ。
葉月が許してくれたという最大限の幸福に精一杯感謝し、もう一度ゼロから信頼を積み直そう。
「よし……そろそろ上がるか」
独り呟き、バスタブから立ち上がる。
今晩、またゼロからスタートすると思おう。
次こそは失敗しないように。弱い自分に負けないように頑張ろう。
そんなことを考えながら、俺は浴室のドアを開ける。
そして、その視界に飛び込んで来たのは。予想を超えた光景であった。
「こ、これが……甲洋くんの……ぱ、ぱんつ……」
俺が風呂に入るのを見届けたのち、リビングへ戻って行ったはずの葉月がなぜか脱衣所にいた。
しかも、どこかで見たようなポーズ――つまりは膝立ちで、目の前に俺のトランクスを抱えるような形――を取って。
……明らかに、俺の下着を観察していた。
「……は、葉月……?」
「……えっ!?」
目を疑うような光景を前に、俺は最低限自分の下半身だけは近場においてあったタオルで隠してから声をかけた。俺の声は震えていた。
それを耳にした葉月は目を瞬かせ、そしてその数秒後、己が何をしているのかを理解する。
「あっ! こ、これは……そのっ、そう、あの、えっと、つまりね甲洋くん!」
ああ、なんというか、人って自分のキャパシティを超える事態が起こると冷静になれるんだな、って感じだ。
なんで葉月が俺のトランクスを抱えてるのか全然意味がわからないけれど、意味がわからなすぎるゆえに冷静になれる。
「あ、あの……その……」
「いいんだ葉月……落ち着いて」
「わ……わたしも」
「わたしも……?」
「…………えっちだったということかな、なんて……」
これは、俺は何と答えれば良いのだろうか……。
俺も葉月も、互いにかける言葉がなかった。
ただひたすら、脱衣所には静寂が訪れる。
「…………甲洋くん」
「なんでしょうか……」
「さっきの権利……使ってもいい? ……ごめんなさい。許してください」
「はい。許します……」
まあ、元より、俺に葉月を許す以外の選択肢はないのだけれど。
のちに「互いの下着ガン見事件」と呼ばれるこの騒動は、絶対に誰にも言えない、俺たち二人だけの秘密として胸の内深くに仕舞われることとなったのであった……。
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