10:だから、わたしはすっごく嬉しいなっ
「んじゃそろそろクラス委員を決めるとするか……」
始業式翌日。午前午後と久方ぶりの通常授業にたっぷりと疲労を溜めた俺たちが辿り着いた帰りのホームルームにて。
教壇そばの丸椅子に腰掛けた二年B組の担任、千葉教諭のくたびれた掛け声を受け、放課後を迎えられることを期待し弛緩していた教室の雰囲気はにわかに活気づいた。
「本当は昨日決めないといけなかったんだが忘れてた。とりあえず二人。決めないといかん」
あまり身なりに頓着する性質ではないのか、ぼさぼさの髪の毛や無精髭、よれよれのシャツやスラックスを隠そうともしない千葉教諭は、その外見から想像するに違わぬ適当さ加減を持った台詞を吐く。
そんな彼へB組の生徒たちが返すのは、「えー」だとか「うそー」だとか「昨日決めなかったからこのクラスにはないもんだと思ってた」など、数々の文句である。
彼らがそう言いたくなる気持ちも、わからないではなかった。
入学したての一年生ならばいざ知らず。
東明高校での一年間を過ごし抜いてきた生徒たちに「クラス委員という係に抱える印象」を問えば、一に面倒、二に面倒、三四はなくて五に面倒と答えるのが大半だ。そう思わせるくらいに、クラス委員は面倒な係だった。
クラス委員は担任教師の助手的な役目を果たすことを期待される係であるため、教師が授業で配布するプリントだとか資料だとかを受け取ったり、何か行事がある時はその準備をするためなどで、頻繁に学校に居残りすることが命じられる。それ以外にも生徒会主催の休日ゴミ拾いや挨拶運動に駆り出されたり、クラス委員に与えられる仕事は枚挙に暇がない。
これは……遊びたい盛りの高校生にとってはかなりの苦痛であることは言うまでもないだろう。
去年、俺たちが中学から進学してきたばかりの出来立てほやほやの高校生だった頃。
母校の中学校では生徒会長を務めたという男子が自信をもってクラス委員に立候補し、一週間でその心を折られてしまったのは鮮明な記憶として脳裏に焼き付いている。「もうやだ」などと掠れた声で呻いていた彼の姿はあまりにも哀愁を誘ったものだ。
さて。兎にも角にも、クラス委員は面倒くさい係である。
「はいそれじゃ立候補するやつ。手ぇあげてくれ。…………ってまあ、いるわけねーわな」
誰も挙手をしない教室を見回した後、嘆息する千葉教諭の言葉が真理だ。
あの面倒くささを知っていてクラス委員に立候補する生徒がいるとは思えない。
「いやー、クラス委員ってちょーめんどいじゃん……そら無理だって千葉センセー」
その明るい雰囲気と物怖じしない性格から、既にクラスの中心人物に踊り出ている山名くんが軽口を叩く。
彼の発言を皮切りに他の生徒たちも周囲の友人たちと様々に言葉を交わし始めるが、漏れ聞こえてくる声のほとんどは「面倒だ」とか「お前やれよ」「いやお前こそ」みたいな、真剣に考えているようなものではなかった。
「天空橋さんはどう思う?」
「きっと、…………なら。うん……」
「天空橋さん?」
「……えっ? あ、ごめんね、考え事してた……」
葉月は、その名前の読みから俺の真後ろの席――教室真ん中最後尾の位置に座っている。
隣の席に座る女子に話しかけられていたが、珍しく自分の考えに没頭していたようで、友人の話に曖昧に相槌を打っているのが耳に入った。
ちなみに、榛名はどう考えているのだろうと思って窓際最後尾の席に座る姿を見たら、教室内の紛糾には全く興味なさそうな表情で頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。
それだけでもやっぱりめちゃくちゃ画になる男だ。隣の女子も見とれている。だけどそれにしたってクラス内の出来事に興味なさすぎるだろお前。
「あーちくしょう。クラス委員がめんどいこたぁわかってんだが、今日中に決めねーと俺も学年主任に叱られちまうんだよ。何ならお前がやるか山名」
「いや、それは横暴っしょ!?」
「だろお? 俺が指名したら絶対そう言われると思ったから立候補を募ってんだよ……」
二人のやりとりにクラスが笑いに包まれるが、結局クラス委員決定問題は解決していない。
一番決着が早いのは千葉教諭が無理やり誰か二人を指名することなのだが、それは彼の望むところではないようだ。
まあ、そりゃそうか。千葉教諭との関係に禍根を残しかねない。
とはいえ、千葉教諭が学年主任に今日中にクラス委員を決めろと言われている以上、彼は今日中にクラス委員を決めようとするだろう。
このままクラス委員が決まらないとなると、ホームルームはそれだけ長引き、俺たちの帰宅が遅れることになる。
事実、教室内にはこのままだと帰れないんじゃないのかという懸念がじんわりと広がり、生徒たちが様子を伺い合うような雰囲気が蔓延しつつあった。このような何とも暗く重い雰囲気は、あまり好ましいものではない。
「……クラス委員か」
実のところ、俺の気持ちはさっさと立候補してしまおうかなという気持ちに傾いている。
俺は帰宅部だから、クラス委員の仕事と部活動がブッキングすることはなく、時間の融通は効く。
電車通学ではなく徒歩通学に切り替わったことも、時間の融通という面で有利に働く。加えて、クラス委員は面倒な係だが、その面倒さの代償に多少の内申点がオマケされるという噂もある。
それに何より、俺が立候補することで、このままズルズルとホームルームを長引かせてクラスの雰囲気を悪くさせることを防げるというのなら、それは悪くない選択のような気がした。
葉月との時間が減るのはかなり……いやとても惜しいが、家に帰れば他のどのクラスメイトよりも長い時間顔を合わせられるのだからいいだろう。
「「はい」」
そう考えて、俺は右手を挙げた。
俺の声はクラスメイト達の喧騒の中にしん、と落ちて行き、ざわめきを制したのちに彼らの視線を浚う。
……。
…………。
……いや、その前に。聞き慣れた声がしましたね。
持ち主の可憐さを思わせてやまないあの声が。
そんなことを考えつつ、右手を挙げたまま、背後を振り返ると、
「――立候補します。クラス委員」
ぴしり、と右腕を伸ばした天空橋葉月が薄く微笑んでいた。
「は……天空橋?」
「ふふっ、やっぱり。……気があうね?」
葉月が、小声でそんなことを囁く。
「おっ、マジかぁお前ら、助かるわぁ! 自主性は大事!」
手を挙げた俺たちに対し、千葉教諭は喜色満面。
クラスメイトたちはクラス委員が決定しそうなことに安堵の色の視線を向けてきたが、「天空橋さんがやるなら……」だとか、「今からでも遅くないかな」とか、色々話し込んでいる奴らもちらほらいるのが見えた。
ちなみに榛名は全く興味がなさそうに窓の外を見ている。
「センセー! 天空橋ちゃんがやるなら俺もやるわ! いやむしろやらせて!」
「馬鹿野郎、あんまり浅ましい真似をするな山名ぁ」
「えぇ……浅ましいって……」
びしり、と天を衝く勢いで右手を挙げた山名くんだったが、容赦のない千葉教諭の言葉にへにゃりとその右腕を垂らす。
そんな二人の会話に、葉月が立候補したとわかった途端に同じく手を挙げようとしていた男子たちも気勢を削がれたらしい。中途半端に宙で止まった腕をすごすごと元の位置に戻す姿が視界の端々に映る。
現金というか、なんというか……。
思うところはないわけではなかったけれど、葉月と一緒に仕事ができるならどんな面倒な仕事でもやりたくなる気持ちはわかる。俺だって向こうの立場なら同じく手を挙げようとするかもしれない。
「よーしまあ、とにかくうちのクラス委員は月守と天空橋に決定。はい拍手ー」
心中で男子諸君の考えに同意していると、千葉教諭のそんな言葉が降ってくる。
葉月には惜しみない拍手を。俺には割と多めの感謝と若干の嫉妬が篭ったような拍手を送られながら、その日のホームルームは終わった。
* * *
「いや、マジでお前らが立候補してくれて助かったわ」
クラス委員決めのホームルームが終了したのち、俺と葉月は千葉教諭に連れられて放課後の校舎を歩いていた。
「あのまま決まらない方が色々面倒そうでしたし……」
「わたしも同意見です」
俺の言葉に、隣を歩く葉月も同意する。
「なるほど……さすがは兄妹、考えることは同じってか」
「ちょ、先生」
いきなり俺と葉月の核心に話を振って来る千葉教諭に驚き足を止めてしまう。
やはり、教師陣の間では既に俺たちの関係は周知されているのだ。むやみやたらに言いふらさないでいてくれることを切に願う。
俺の視線が、相当心配そうな色を湛えていたのだろうか。俺の顔を軽く見つめた千葉教諭が口を開いた。
「あー月守、別に俺からは言いふらさねえから安心していいぞ。てか言えねえよ」
「ほ、本当ですか? 俺、結構心配なんですけど……」
見るからに、というか、クラスでの様子を見ても、千葉教諭はかなり適当だ。
なんかの拍子にぽろっと俺たちの関係を漏らしかねない。
「生徒の家庭の事情に首突っ込んでもいいことなんてなんもねーもん」
「そ、そうですか……」
なかなかざっくばらんに語ってくれるその態度には好感を覚えるが、やっぱりどこか適当な印象は否めなかった。
だが、それがこの先生の持ち味なのだろう。なんだかんだ言って親しみやすさはある。
「……ところで先生。どこへ向かわれているんですか?」
俺と千葉教諭の話がひと段落したことを受けて、今まで黙っていた葉月が問いかけた。
確かにそこは俺も気になっているところだ。クラス委員の二人は俺についてこい、なんて言われて校舎を歩いているのだが、ついに旧校舎にまでさしかかっている。
「おー、お前らに部屋をひとつくれてやろうと思ってな」
「部屋を?」
「そう、クラス委員専用の城だ」
頭に疑問符を浮かべる俺と葉月。
俺たちの疑問に答える代わりに、千葉教諭はニヤリと悪どく笑ってみせ、とある部屋の前でその歩みを止めた。
棟を跨ぎ、廊下を進み、階段を登って、また廊下を進んで。最後に辿り着いた先は旧校舎二階の端っこ。
頭上のプレートには、「世界史準備室」の文字が見える。
「クラス委員の君たちにさっそく仕事をあげよう」
「さっきと言ってることちょっとずれてません?」
「いや、お前らに部屋をくれてやることに異存はない……んだが、要は部屋をくれてやるための前準備というかだな」
言いながら、千葉教諭が世界史準備室の開け放つ。
扉の向こう。西日が差し込むその部屋の惨状に俺と葉月は揃って顔を顰めた。
「……先生、なんすかこの汚い部屋は」
「ゴミだらけ……。あ、漫画もある……」
「おう。数年前まで漫研と文芸部が部室代わりに使ってた部屋でな。部員も全員卒業していなくなっちまったから部屋だけこのまんま残ってんだよ」
残ってんだよ、て。
その部屋の床や置物には、明らかに一度も掃除がされてない勢いで埃が積もっている。葉月が言うように漫画やら小説やらも机の上や床問わず転がっているし、何より最悪なのはカップラーメンの空容器が転がっているところだった。蠅がたかっていないだけまだマシだが、酷い部屋だった。
「で、ここ世界史準備室だから俺の管轄なわけ。さすがに掃除しろって学年主任に怒られてな」
「当然でしょうね」
「でもほら、俺もいろいろ忙しくて時間ないし……クラス委員の君たちに掃除してもらいたいなぁ、と」
胸の前で指を突き合わせながらそんなことをのたまう三十路独身男子。正直痛々しい。
隣の葉月もめったに見せない呆れた表情を見せていて、それが少し珍しいな、なんてどうでもいい感想を抱く。
今は葉月の表情よりもこの部屋の惨状だよ。クラス委員の最初の仕事がこれか。
「はぁ……」
千葉教諭に聞こえるようため息をつくと、彼は慌てたように顔の前で手を振った。
「や、待て待て月守、さっきも言ったろ。これはクラス委員のお前らに部屋をくれてやるための前段階なんだよ」
「と言うと?」
「この部屋が俺の管轄ってことは、部屋の使い道は俺の自由ってことだ。だから掃除が終わったらここ、クラス委員専用の部屋として使っていいぞ。聞いてびっくり、ガスと水道付き」
「やろうか。こ、月守くん」
葉月のやる気がすごかった。
千葉教諭が言い終わるか言い終わらないかのうちにやる気満々で俺に同意を求めてくる。
いや、別にいいんですけどね……葉月さんがやる気なら。
「おーそうかやってくれるか! ありがたい! 素晴らしいぞやっぱりお前ら兄妹! クラス委員になってくれてサンキュー!」
「だからその兄妹っていうのはやめてくださいよ!?」
葉月が乗り気なのをいいことに千葉教諭のテンションもハイになる。
なんだかこの人に敬意を払うのちょっとばからしくなってきたような気がするぞ……。
「じゃあ俺は仕事に戻るから掃除頼むな! 別に今日中に終わらせろってわけじゃないから!」
俺が内心でどんどんと評価を下げていることも知らず、そんなことを言って歩き去る千葉教諭。
結局、人気のない旧校舎の、酷い汚部屋を前に、俺と葉月は二人取り残された形になってしまった。
「……マジか」
「でも、掃除が終わったらこの部屋は私たちの自由に使えるよ? だからお掃除頑張ろ、甲洋くんっ」
胸の前に両腕をもってきてガッツポーズの葉月。
やる気満々の葉月はかわいいなあ、と思いつつ俺は彼女に引っ張られるようにして部屋の掃除に取り掛かることにしたのだった。
「……今日中に終わりそうにない」
「あはは……。でも、千葉先生も一日で終わらせろとは言ってないよ」
掃けば掃くだけ埃が出てくるような世界史準備室の汚さを前に、俺は呻いた。
隣でゴミを分別している葉月は苦笑しながらフォローしてくれるが、それはつまり明日以降もこの苦行を続けねばならないということに他ならない。
クラス委員は面倒な仕事だと理解してはいたが……いやしかし、この部屋の掃除までクラス委員の仕事にされるのは如何なものかと思うのだが。
「立候補したのは失敗したか……」
「そう? わたしはそう思わないけどな」
俺の独り言を聞き咎めた葉月が、その手を止めてぽつりと呟いた。
「きっとみんな、甲洋くんに感謝してると思うよ」
「いいや、みんながそれを言うなら葉月にだろうし……」
「そうかなあ?」
葉月と並び立ってクラス委員になって。手放しで感謝してくれる男子なんて榛名くらいのもんじゃなかろうか。
……いや、あいつは別に感謝とかしてないかもしれないけれど。ああいや絶対してないわ。
「わたしは甲洋くんに感謝してるよ?」
「……なにゆえ?」
「実を言うとね……わたし、絶対甲洋くんはクラス委員に立候補するって確信してたの」
葉月はその手を止めたまま、視線を俺から逸らさない。
彼女の澄んだ瞳に見つめられ、知らず俺の背筋は伸びてしまった。
「確信……」
「そう、確信。甲洋くんはああいうときに絶対手を上げてくれる人だもん」
「買いかぶりすぎじゃないか……?」
妙に褒めそやされている感じがしてむず痒い。
もちろん葉月にそんなことを言われるのはとても光栄で、嬉しいことなのだけれど。
「そうかな……。でも、甲洋くんがそんな人だったおかげで……」
葉月の表情はどこか喜びを湛えたようなもので。
そんな表情を見せられては、当然の如く俺の視線はその顔に囚われてしまう。
そしてきっと、彼女がこれから口にする言葉に、俺は心を踊らせるのだろう。
そういう確信を覚えつつ、俺は葉月の言葉を待って――。
「学校でも、二人きりでいられる場所ができたんだよ? だから、わたしはすっごく嬉しいなっ」
――はにかみながらそう語る葉月は、やはり反則級の可愛さだった。
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