08:不意打ちはダメ!
「……ようくん。起きて。甲洋くん」
柔らかくて、透き通るような。
美しい小鳥のさえずりを思わせる可憐な声が耳に届く。
なんだろう。靄がかった頭でとっぷり時間をかけて考えこもうとしたのだけれど、どうも声の主はそれを許してくれないようだった。
上方から両腕が伸びてきて、俺の体を覆っていた毛布を剥ぎ取っていく。パジャマ越しとはいえ少し冷えた部屋の外気に晒されて、俺は体を縮み上がらせた。
「う、さむい……」
「寒くても起きなきゃダメだよ甲洋くん。もう……」
俺が文句を言うと、呆れながらもこちらを諭すような声がかかる。あぁ、これ、葉月か。
完全に開ききっていない瞳を辺りに彷徨わせたら、腰に手を当てた葉月の姿が目に入った。ベッドに横たわる俺を見下ろすように、枕元に立っている。
その身を包むのはいつもの部屋着ではなくて、クリーム色の何かだった。なんだろう? 寝ぼけ頭ではよくわからない。
まあともかく、今朝の葉月も、
「うん……かわいい」
「かわっ……!? も、もう、不意打ちはダメ! はい、起きるっ!」
ぱんぱん、と俺の目の前で手のひらを打つ葉月。その音に、ようやく俺の意識は覚醒へと向かい始める。
辺りを再度見回して、状況を確認。
自室。ベッドの上。窓からは陽光。傍らに葉月。……なんで葉月?
いや、なんで葉月!?
「葉月!? なんで俺の部屋に!?」
俺はベッドから跳ね上がり、いつの間にか自室にやってきていた葉月にそう問いかけた。
予期せぬ闖入者に、思考が急速にクリアになっていくのを感じる。というか、寝起きの顔を見られた。不覚。
そりゃ今までも朝に顔を合わせているんだし、寝起きの顔を見られてはいるけれど。
今朝のこれは、完全に寝ぼけているところを見られたよな?
うわ、恥ずかしい……。
そんな複雑な男心を抱えている俺に、可愛く葉月が一言。
「甲洋くんが起きてこないから、起こそうと思ったの。今日から学校なのは覚えてるよね?」
「あ、はい……」
言われて、枕元のスマホを確認した。六時半のアラームを消した痕跡と、四月六日、朝七時の表示が液晶上に踊る。
アラームを設定していたのに二度寝するとは。再び不覚。
今日から高校二年生に進級し、俺も先輩になるというのに。
「甲洋くん、夜更かししたの?」
「ああ、漫画を読んでたら止まらなくなって……」
床に放り投げられている漫画の山を目線で示す。
ふと読み返したくなったら止まらなくなり、日が変わるくらいまで起きていたのだ。
「読むのはいいけど、ちゃんと自制しなきゃだよ?」
もう、と可愛らしく注意をくれる葉月に、俺は改めて視線を向けた。
上半身を包むのはクリーム色のブレザー。例によって胸元には圧倒的な獣を飼っている。
対して腰下では赤黒チェック柄のプリーツスカートがガードを固め、すらりと伸びる脚を黒のニーハイソックスで覆っていた。チラリと覗く白い絶対領域の視線吸引力は、胸元のモンスターに負けずとも劣らない。
校則で定められた制服の中、唯一独自性を出すことが認められている胸元のリボンタイは、葉月によく似合う水色だ。爽やかな雰囲気が彼女に実によく似合っている。
朝、ホームルームが始まる前の喧騒に塗れた教室。
放課後、人数少なく、暁光が差し込む教室。
友人との談笑を楽しむ食堂。
男子生徒と二人きりの体育館裏。
いま、彼女は俺の部屋に立っているだけなのに。葉月の制服姿を一目見るだけで、学校生活の中、いろいろな表情を見せる葉月を幻視することができる。
去年一年の間同じクラスだったし、見慣れた姿だと思っていたはずなんだけれど。
さすがは我らが学園のアイドルというべきか、やはり制服がよく似合う。
一言で言うと、かわいい。
制服の可愛らしさを活かして。天空橋葉月という素材も活かして。二つの要素を足して、導き出した答えは二ではなく。二つを足したら百を超えちゃいました、みたいな。眼前の天空橋葉月は、まさしくかわいいの権化と言えよう。
「甲洋くん? どうしたの、固まっちゃって」
「……見惚れていました」
隠すことはない。葉月は学園のアイドルだ。目を奪われるのは必然だった。
「も、もう……甲洋くんってば。冗談ばっかり言ってる暇があるなら早く準備しなきゃダメだよっ」
決して冗談ではないのだが。
その耳を少しだけ紅く染め、葉月はくるりと踵を返して部屋を出て行ってしまう。
ちょっと調子に乗っちゃったかなー、と自分の恥ずかしい台詞のせいで頬に熱が集まるのを感じながら、俺は洗面所へとその足を向けるのだった。
「……つまり、家は別々に出ようということなんだけど」
顔を洗い、クリーニングから戻ってきたての制服に袖を通したあと。
リビングで葉月謹製の朝食に舌鼓を打ちながら、俺は対面に座る彼女に向かって言った。
俺の言葉を受けながらコーヒーの注がれたマグカップを傾けた葉月が、こくっと小さく喉を鳴らしたのち、一言。
「どうして?」
「前も説明した通り。一緒に暮らしているのが露見するのは極力避けるべきだからです」
「うーん……甲洋くんは気にしすぎじゃない?」
むしろ葉月さんは気にしなさすぎじゃない?
自分の人気とそれがもたらす様々な影響を考慮しよう?
「でも……甲洋くんがどうしてもと」
「どうしても」
「早いね!? ……わかったよ。とりあえずの間は内緒にするね」
とりあえずの間、という物言いに少し不安を覚えもしたけれど、あんまり強制するのも悪い。
葉月が頷いてくれたことに感謝の念を述べつつ、俺は葉月が作ってくれた朝食のスクランブルエッグを掻き込んだ。
「はぁ……」
「……ん? どうしたんだ葉月。心配事?」
と、そこでため息をつく葉月。今日から新学期が始まろうというのにどうしたことだろうと思って尋ねると、葉月は目を丸くした。俺の質問がそんなに予想外だったのだろうか。
「心配事もなにも。クラス替えがあるじゃない?」
「あ」
「甲洋くん、忘れてたんだね」
苦笑する葉月に、俺も苦笑いを返すしかない。すっかり忘れていた。
我らが東明高校では二学年に進級時にクラス替えが行われる。ひとクラス約三十人が合計八組。
春休みが始まった頃は覚えていたはずだが、すっかり頭から抜け落ちていた。
クラス替えか。榛名や葉月と一緒のクラスになれたら、きっと楽しいだろうなあ。
なんたって、高校二年生といえば高校生活で一番多様なイベントが目白押しの一年だ。校外学習や体育祭、文化祭、修学旅行……とにかくたくさんの行事が待っている。
家に帰れば葉月がいるし、クラスが変わったところで今更榛名とは疎遠になるような関係でもない。
だけども、クラスメイトは一日の大半を共に過ごす同世代の存在だ。一日のほとんどを彼らと一緒の部屋で過ごせるのなら、それはどれだけ楽しいことだろう。
「クラスかあ。葉月も榛名も一緒だといいんだけどな」
「うん、わたしもそう思う。一緒のクラスになれるといいね」
言って、俺と葉月は顔を見合わせて笑い合った。
* * *
互いに登校時間をずらすということで話がまとまったので、俺は葉月が家を出たきっちり十分後に自宅を後にした。
かつての住まいであるアパートからは電車通学だったが、天空橋家からは徒歩通学になる。うちは駅の近くにそびえ立つタワーマンションゆえ、最寄駅は学校の最寄駅とも同一という恵まれた環境にあった。
「あいつもう来てるかな?」
マンションのエントランスを出て、少し歩くと駅前広場だ。
新年度が始まるということで、多くのサラリーマンや学生たちが行き交うそのスペースの一角に、俺を待つ男がいる。
クリーム色のブレザーとチェック柄のパンツに身を包み、街灯に背を預けて佇むその男は、目鼻立ちが際立って整っている中性的な美形だ。
周囲の騒音から逃れるためか両耳にイヤホンをつけ、片手をポケットに突っ込んだままアンニュイな表情でスマホの画面の指を走らせるその立ち姿はとても絵になっていて、まるでドラマや映画のワンシーンを見せつけられているような気すらしてくる。
現に、周囲の高校生たち――特に女子が、熱に浮かされたような視線で奴を見つめていた。
言うまでもない。我が親友。柳生榛名が俺を待っていた。
「おはよう、榛名」
肩を叩き、榛名の右耳に突っ込まれているイヤホンを無遠慮に引っこ抜く。
はたから見たら、人を寄せ付けない雰囲気を全力で発する美形にいきなり馴れ馴れしく絡んだように思えるのだろう。周囲の生徒たちがぎょっとしたのがわかったが、これがいつものスタイルなので問題なし。
「……やあ。君がそっちから歩いてくるのは不思議な気分だな」
「家があれだからな」
俺が指で指し示すマンションを見上げ、榛名はほう、と感嘆の声を漏らした。
「招待してもらえる日を楽しみにしているよ」
榛名であれば否やはない。今のところ、俺と葉月の関係を唯一知る人物であるし、葉月も首を横には振らないだろう。
また折を見てな、と軽く答えながら榛名の顔を見た俺は、その表情に少しの違和感を感じて首を傾げた。
「うん……?」
「……どうしたんだ、甲洋」
なんというか、覇気がない。
榛名はもともとテンションが乱高下するようなタイプではないが、それにしたって元気がないように見える。
遠くから見てるぶんにはいつものこいつなんだろうが、長い付き合いになるとちょっとの雰囲気の差でわかるものだ。今日のこいつは元気がない。
というか一度こうなった榛名を見た記憶があるな。そう思って記憶の引き出しをひっくり返し……あ、そうだ。高校に入学する前もこんな感じだったなこいつ。
「ん……」
待てよ。入学前。新学期。葉月との会話。俺たちの交友関係。
今までの共通項や、懸案事項、今朝の会話などを思い出す。
なるほど、点と点が線でつながった。
その結果、俺はこみ上げてくる笑みを表情に出さないよう努力する羽目に陥ってしまったが。
「おい甲洋。君、何をにやけているんだ。不愉快だぞ」
「いやいや、なるほどね……へぇ……そうかい」
「甲洋。何を考えているのか知らないが。君の思っているようなことは断じてないからな。断じて」
榛名は俺の表情から何かを読み取ったのか、ムキになって否定の言を発する。
だが、そんなことをしているあたり、既に語るに落ちている。
あんまり責めてやるのも可哀想なので、これ以上は何も言わないけれど。
「言わぬが花だよな。うんうん」
「……言っておくが僕はだな」
「なに、怖がっててもしゃーない。行こうぜ榛名」
寂しがり屋の親友の背中をばしっと叩き、俺は学校の方へと足を向けた。
「まったく……誤解を解いておく必要がありそうだな……いいか甲洋」
先に歩き出した俺の背に、榛名が声をかけてくる。
いやいや榛名くん。これ以上口を開いても墓穴を掘ることにしかならないぞ。
「どこに笑うところがある? そもそも、僕は昨晩少々寝つきが悪かっただけでだな」
「はいはい……」
言い訳をつらつらと並び立てる榛名を見ていると、素直になれない子供のようでとても大らかな気持ちになれる。
俺はとても不服そうな榛名に生暖かい視線を返しながら、周囲の学生たちに混じって通学路を歩いて行った。
「わかっていないようだな甲洋。僕は」
「あ、ちょい待ち」
そんな中、胸元のポケットから振動を受けて、俺は足を止めた。
ポケットに差し込んだスマホがメッセージの着信を知らせているのだ。
「なんだ、着信か?」
「ああ。誰だろう?」
榛名とそんな言葉を交わしつつ、俺はメッセージを開く。
「……あ」
そこに書かれた文面と添付写真を目にし、その内容を理解した瞬間。
俺は喜びのあまり榛名の肩を叩いていた。きっと、俺はめちゃくちゃニヤけていたことだろう。
「いきなりなんだ!」
「ほれ」
肩を叩かれ怒りの声を上げる榛名。それを押し留めるため、やつの眼前にスマホを突き出してやる。
なお文句を言いたそうではあったが、液晶に目をやってから数秒固まった榛名の表情から、徐々に険が取れて行くのがわかった。
無理もなかろう。そのメッセージには、榛名が心の底から欲しがっていたであろう、最良の結果が載せられているのだから。
メッセージの送信者は天空橋葉月。本文は「やったね!」と短いものだったが。
メッセージに添付された二年B組のクラス割写真には確かに、「月守甲洋」と「天空橋葉月」、そして「柳生榛名」の名前が踊っていた。
「フ……まったく。天空橋にクラス替えの楽しみを奪われてしまったね」
「素直に喜べ」
此の期に及んでなお強がりを述べる榛名を軽く小突き、俺はこれから始まる高校二年生の学生生活に思いを馳せる。
葉月や榛名とともに、心の底から楽しいと思える学生生活を送りたいと、そう強く願った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます