第5話 複製された女 完

暗澹とした足取りで部屋に戻るが杞憂であった。隣の美愛ちゃんが片付けた、はずもないだろう。一流の清掃業者が必要な惨事であったはずだ。それなのに、昨日までと何も変わらないショボくれた男の部屋のままであった。布団も僕が就寝している汗の湿り気ほどしか汚れていない。

「あぁ、水狐さん、さすがにドアを開けて出ていくのは無用心ですよ」

「ごめんなさい」

管理人室は、夕方は奥さんの方が仕事をしている。徹夜が旦那さんである。

「帰ってきたら注意しておいてって美愛ちゃんに言われたものだからさ」

「そういえば、あのダンゴムシは僕とは一切、これっぽっちも関係ないですから」

「は? ダンゴムシってなんのこと」

管理人さんは見なかったようだ。騒がせた謝罪をすませるだけにした。知らないならば、それに越したことはない。そして私は部屋で眠ることにした。唐突に溢れだした涙で、自分の脳はいま病に見舞われていることを思い出した。


「知り合ってもう長いのにさ、私、自分が水狐恵になるなんて想像できないかな。水に狐だなんて」

「先祖に言ってください。僕だって狐よりも木とかでみんながスラッとミズキと呼んでくれる方がましですよ」

「へぇ、私は可愛いと思うけど」

恵さんは僕の乳首を弄り回して頬に口づけした。首筋に微かにあたる伸びた爪の先がこそばゆい。

「僕、そういえば、今日の昼間に恵さんに会いましたよ」

僕は何を言ってるんだろうか。目の前にいる恵さんは、今日出会ったばかりの恵さんのドッペルゲンガーなのだから、彼女に何か言ったところで無駄な気もする。それに、彼女が結婚していることも僕には高い評価であるし、他の男性とも懇ろなんだから、別に僕だけが攻められるいわれもない。

「へぇ、どうだった」

「今の恵さんよりおっぱいが大きくて胸がでかくて巨乳で胸元が膨らんでいました」

馬鹿と唇が動くのが見えた。その口はすぐに僕の股間の方へ……。

「やめてください。それ以上は」


「もっとしっかりしなさい。ダンゴムシに食われる気?」

顔に鈍重な痛みが走り、目を覚ました。目覚めた僕はすぐに顔を踏みつけにされた。白いソックスを履いているのは誰だ。

「股間丸出しなのもやめてほしいねんけど、隣、すぐに私んちやねんし」

「み、美愛ちゃん、なんで」

私はぐるりと見渡すとうじゃうじゃ這いよってくるダンゴムシ数匹に気がついた。またしても肉片が散らばった室内に様変わりしていた。目の前ではまたしても恵さんが貪られている。そんなに恵さんは旨いのだろうか。いやまぁ、結局最後まで味わえなかった僕には何も分からないことだ。


必死でダンゴムシ払いをしてくれている美愛ちゃんの脚にしがみつくことしかできなかったが、パンツを履けと頭を叩かれて正気に戻った。そうして携帯のニュース速報で東京で無理心中しかし全員男という記事があった。詳細の中には城野司や僕の友人たちの名前もあった。


「とりあえず、何があったのか説明して」

「説明といわれても」

トランクスのみの姿で女子大生の前にいるというのは、非常に情けない。去年まで高校生だった子だぞ。

はぁ、とため息をついた。

「あのダンゴムシは恵さんを襲ってましたよね。どうみても」

そういえば、あのダンゴムシを管理人さんは知らないといった。ならばなぜ美愛ちゃんには見えるのか。そういえば、あんなダンゴムシが蠢いているなかで僕のところにいたのはいつも美愛ちゃんだけであった。私は独り言でそれらを捲し立てた。

スッ。

美愛ちゃんは人差し指で私の口を抑えた。

「ゆっくり整えて考えた方が大事です」

「あのダンゴムシと恵さんだっけ、は敵同士の存在といえば分かりやすいかな」

「いや、わかんない」

「今日、恵さんの身の回りにいた男たちはみんな死んじゃった。水狐さん以外はね。ところで、なぜ心中といわれていたかわかる?」

「一緒のところで死んだからでしょ」

「そう。もちろん、全員恵さんにエスコートされて。あのやせっぽちの城野なる男も含めて。ちなみにあの男の隣にいた恵さんが本物、というわけではないから。ただ彼の隣にいた恵さんが本物だと思ってもらうように仕向けた」

「どうして。別に僕はどうでもいいことなんですよ」

「何度も言うけど、私も知らない。彼が君たちの命を守るために恐るべき恵さんと別れてほしかったから。あるいは君たちの恵さんがいることが許せないから。彼が君以外と接触してないとはいえないでしょ?

また恵さんの方ではピンチが訪れました。謎のダンゴムシに自分が食べられてしまう事態です。さて、慌てた恵さんがとった行動は男たちの虐殺でした。とすれば、恵さんがしたかったことは男たちの虐殺とみて間違いないでしょう」

「そんな無茶苦茶なこと……」

「これも冷静になれば分かるでしょうけど。ダンゴムシが見えていたのは誰か、ダンゴムシがあなたに何をしたか」

「ダンゴムシは僕と美愛ちゃんと城野がみてて、管理人さんは見てなくて」

「じゃあ、管理人さんに見えていない訳は? あんな馬鹿でかい虫が侵入してたら嫌でも気づくけど」

「三人に見えていたじゃなくて、三人にしか見えていないってこと?」

彼女に頭を撫でられた。やればできるんだと言い添えて。

「そして、貴方と城野は恵さんと接触していた。私は恵さんを知らないけど見えていた。というふうに、私が設定した」


設定とは奇妙なことを言う。まるで美愛ちゃんがあのダンゴムシを操っているみたいな言い回しだ。

「ええ、だって、そうだから」

「僕はあのダンゴムシに殺されそうに」

「なってない。土壌を綺麗にする役割を担ってもらっただけ。ただ、恵さんを食べるとき一緒に食べられる危険はあった」

「そんなわけない。さっきだって僕を食べようと」

「恵さんの残骸を食べようとしていただけ。まぁ、水狐さんに恵さんの残り香があったのかもしれませんけど」

美愛ちゃんは、怒り気味にそっぽを向いた。そうして、助けたお礼にとフラワーパークに連れていくよう命じた。


ともかく、何を聞いても要領を得なかった。しかし、友人の葬式には出る必要があった。私は父から借りた喪服で参列した。涙を堪えているふうに装って、パイプ椅子に座っていた。

突然背後から肩をたたかれた。

「久しぶり。次はしくじらないから」

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