第22話 千歳が失ったもの

 沙奈先輩と僕は、インターネットカフェに入った。今日は二人で一夜を明かすという事が暗黙の了解となったのだ。

 ただ、先輩は僕の甘えを受け止めてくれているに過ぎない。自分の価値を掘り下げ続け、人としていられないところまで落ちていく気がした。それでも、落ちた先で受け止めてくれる先輩に甘えたいと思う事は、やはり怠惰だろうか。

 とっくに人の価値をなくし、ゴミくずとなった僕にとっては、怠惰も一種のスキルみたいなものだろうが……。

 そして、僕はおもむろに昔の話を始めた。僕が、まだ人として生きていた頃の、そしてゴミくずとなった顛末を。





 僕には7つ上の兄がいた。名前は、渡波わたりなみ隼人はやと

 僕が覚えている限りでは、中学三年生の時には既に「声優になりたい」という夢を掲げていた。

 僕は、そんな兄が大好きだった。


「にーちゃん、何やってるの?」

「ん? 今、この漫画がアニメ化した時、どんな声が合うのか考えてたんだ」

「へぇー、にーちゃんはどのキャラの声をしてるの?」

「俺は、このキャラだよ」

「じゃあ、僕、こっちのキャラやる!」

「おう、それじゃあ、頼むぜ!」


 普段から兄は、声優になる為の努力を怠らなかった。漫画を読んで、キャラになりきってセリフを読む練習をしたり、録画したアニメを何回も見直して声のパターン、声の表情の付け方、イントネーションを真似したり、そのキャラの台詞を全てノートに書き起こし、テレビの音量をゼロにしてアフレコの練習みたいな事もしていた。

 僕は、そんな夢に真っ直ぐな兄のことが大好きだった。実際、声真似などもしてくれるので、とても優しくて、いつも笑わせてくれた。

 高校に入っても、その夢は全く霞まなかった。寧ろ、夢に拍車をかけたと言っていい。


「千歳、少し読み合わせ手伝ってくれないか?」

「えぇー、今宿題してたのに……」

「ごめん、読んでもらわないと身が入らなくて!」

「しょーがないなぁ……」

「おう! サンキュ!」


 笑顔で手の平を縦にする兄の姿を見れば、断る事など出来なかった。兄には夢を掴んで欲しかったからだ。そして、夢を掴もうとしている兄を一番近くで見ている事が嬉しかった。いつか、兄が夢を掴んだ時、僕はこの上ない喜びを噛み締めるだろうと確信していた。


 兄は高校を卒業して、声優養成の専門学校に入った。

 丁度その辺りに、僕は兄になぜ声優というものになろうと思ったのかを尋ねた。


「声優を目指そうと思った理由?」

「うん。どうして声優なのかなぁ、って」

「んぁー、誰にも言うなよ……?」

「うん」

「お父さんお母さんにもだぞ?」

「うん、絶対に内緒!」


 その時のひそひそ声は、これから誰も知らない兄の一面を予感させ、まだ子供だった僕の好奇心を煽るには十分だった。

 少し顔を紅潮させ、辺りを見回す。恐らくは、警戒しているのだ。これから話される秘密について、誰にも知られないように。

 そして、知りたい答えが語られる。


「実は、好きな声の人がいるんだ……」

「あー、僕も好きな声の人いるよー!」

「そうじゃない!」

「え、じゃあ、にーちゃんが恋した女性声優がいるって事?」

「いやそうでもなくて……」

「んー? よくわからないんだけど??」

「その女性声優の声が、ドキっとするって言うか、いや女性声優その人に恋したとか、そういう事かもしれないんだけど……」


 当時の僕では理解する事が難しかったのだが、徐々に把握できるようになった。それは、確かに恋と呼べるものかもしれない。しかし、それはあまりにも雲を掴むような恋だと思った。

 そう、兄は“声”に恋をしたのだ。

 兄の夢は、アニメの世界で、その声の主と彼氏彼女役で添い遂げる事、もしくは夫婦役で幸せに暮らしている様子を演技する事だった。

 兄は、その時のために何年もの間、一途の恋を貫いてきたのだ。

 その話を聞いたとき、果てしない道を突き進む兄がとても大きく、かっこよく見えた。テレビで聞くような「夢追い人」とは、兄の事を指していると思った。

 そして、家族での応援も惜しみなかった……と思う。僕は親の気持ちなんてわからない。それでも僕が物心がついた時には、既に声優を目指していたのだから、協力もしやすかっただろう。


 しかし、その次の年以降、その夢に影が差し込んでくる。


 オーディションの内定が一つも舞い込まなかったのだ。

 それは、専門学校を卒業した後も続いた。兄は、無職になってしまったのだ。声優以外の夢を良しとしない兄は、オーディションを受け続けた。しかし、やはりことごとく落選し続ける。

 この事は、やがて家庭環境にも影響を及ぼし始める。


「ねぇ隼人、あなた家にいるのに、洗い物も洗濯もしてくれないの?」

「あぁ、演技の練習してたから」

「ずっと家にいるのはあなただけなんだから、少しは手伝いなさいよね」

「はいよー」


 最初はそれぐらいで済んでいた。しかし、それは徐々にエスカレートしていった。


「なんで洗い物してないの!?」

「何洗って貰う事を当たり前にしてんだよ! 勝手に手伝いを俺の役割に押し付けてんじゃねーよ!」

「お母さん達はちゃんとお給料貰ってきてるの! 家に一銭も入れないあなたはちゃんと家の事で働きなさい!」


 兄は一人ぐらいなど考えた事がなかったと言う。バイトをする時間が勿体無い。それならば、しっかりと体調を整え、規則正しい生活をして風邪などを引かないようにする事が大事だとも。

 恐らくそれが、親にとってみれば、毎日アニメを見たり、漫画や小説、ライトノベルを読んでいたり、気持ちよく歌を歌っている事が、遊びだと思っているのだろう。

 兄を好きでありながら、親に「隼人みたいになってはいけません」と言いつけられた僕は、親のご機嫌を窺いつつも兄の背中を見つめる事にした。

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