第21話 千歳の本懐と救済


 家を出た後、持ち得る全神経を集中させて願いの電波を飛ばした。

 帰ったとき、僕の唯一の避難所は荒らされていた。悠真の手によって。もしかしたら千代も手伝ったのかもしれない。そして、僕の部屋で堂々と心までもかき乱した。それに、思い出したくない、あの時の事まで……。

 1コール、2コール……5コール目が終わる瞬間につながった。


『もしもし、千歳君?』

「沙奈先輩、今からもう一度会えませんか?」

『ん? どうしたの?』

「沙奈先輩に、言いたい事があるんです」

「電話じゃダメなの?」

「それじゃダメなんです! 面と向かわなきゃ、意味ないんですっ!!」


 声が裏返ってしまうほどの願いだった。

 こんな事は、エゴだってわかっている。それでも、どうしても沙奈先輩に会いたいのだ。

 もちろん、今電話口で想いを伝える事も可能だろう。しかし、それではダメだ。わからない何かが不足していると感じるから、実際に会う事でしか補えないものがあると感じたから。

 電話の先では、沈黙が続いている。

 辺りはもう真っ暗で、街灯の灯りが道路を照らしている。こんな時間に「会いたい」と言われたら、断るのが普通だろう。先ほどの家での出来事といい、僕はどうかしている。


『……わかった。それじゃあ、待ち合わせはいつもの場所ね』

「すみません、ありがとうございます……」


 自分の願いが叶うと聞かされた時は、嬉しくなるものだと思うのに、今は泣き出してしまいそうだった。

 こんな夜に呼び出して、遅れていくのは明らかにナンセンスなので、走って待ち合わせ場所へと向かう。

 服装は、一度帰ってから上着も脱がずに話していたお陰で、そのまま家を飛び出しても何ら支障はなかった。


「ハァ、ハァ……」


 予定通り、沙奈先輩よりも先にたどり着けたようだ。

 僕と沙奈先輩にとってのいつもの場所、というのは初めて出会った小川沿いの歩道だ。特に目印もないし、待ち合わせ場所としては全く機能を有しているとは言えない。しかし、ここで一度、二度、三度、と顔を合わせる内に、僕たちの中で「いつもの場所」として、定着していたのだった。

 柵に寄りかかって、ぼんやりと辺りを見回していると、先輩らしき影が近づいてきた。


「ごめん、待った……?」


 先輩は、制服姿ではなかった。

 首にはいつもの赤いスカーフ、上は白のニット、下は黒のロングスカートという姿だった。

 いつも、制服姿の先輩しか知らない僕は、一瞬別人ではないかと疑ってしまう。


「千歳君?」

「あ、いや、その……制服じゃなんだ、って思って」

「急に呼び出すからだよ。なんか切羽詰まってたみたいだし、そのまま来ちゃったよ」


 初めて見る私服姿。一般的な男性の好きな女性の服装と言えば、肌の露出が多くなる夏服だと思う。しかし、冬服は冬服で、可愛い服が出回っているイメージがある。沙奈先輩もそんな感じで、可愛くコーデされた服装に身を包んでいた。


「で、どうして呼び出したりしたの?」


 僕はその言葉で我に返り、一呼吸置いてから、頭をきっちり下げて自分の想いを告げる。

 この世で一番独善的で、自己中で、迷惑で、わがままで、傲慢なその言葉を。


「お願いします! 今日だけ、今日だけで良いので、優しく、してくれませんか? いえ、優しくしてください!」


 誰かに甘えたいと思ってしまう。そして、甘えさせて欲しいと頼んでしまうのは、最近の心の変化に他ならなかった。何を言われても冷たく凍ったままの部分が溶かされ、傷つきやすくなっていた。

 そして今日、傷ついた。痛かった、と思う。この傷を埋めて欲しかった。しかし、傷を埋められる人は凍ったものを溶かしたその人にしかできないと思った。溶かしたところに優しく触れていたその人ならば、きっと埋めてくれる。

 それが、僕の感じた答えだった。


「……うん、わかった」


 断れる、拒絶される恐怖が、瞳を伝う滴に変わって溢れ出す。

 どうして、こんな時間に会ってくれたのか、なぜ、この願いを拒否しなかったのか、そんなことはどうでも良かった。今この瞬間に、先輩が僕を受け入れてくれている。それだけで十分だった。

 先輩は二、三歩歩み寄り、僕を包み込むように抱きしめた。

 僕の方が背が高いものの、泣いている顔がうつむいているので、先輩は少し背伸びをして顔に手を回した。


「ありがとう……ございます……」

「うん、良いよ」

「今日、帰ったら辛いことがあって……」

「うん」

「すごく、胸が苦しくなって……」

「うん」

「先輩に会いたくなって……」

「うん」


  途切れ途切れの感情が、そのまま言葉となって飛び出してくる。先輩はそれを一つ一つ丁寧にすくってくれる。取りこぼすことなく、優しく拾い上げては、受け止めてくれる。


「突然呼び出してごめんなさい……」

「うん」

「甘えたくなって、ごめんなさい……」

「うん」

「こんな僕でごめんなさい……」

「うん」


 一つ一つ話を受け止め、相槌を打ってくれる先輩は、抱きしめられている腕以上に、大きく、そして深く抱擁されている気がした。


「先輩のこと、好きです」

「うん」


 こんなあっさりとした告白が存在するなんて、誰が考えただろう。今はただただ溢れ出す涙が止まらない。口から出てくる言葉は、理性を経由してはいない。それ故に、勇気も、かっこつけも、雰囲気作りも、考えた抜いた言葉も、何かも必要だと考えることができなかった。

 それでも、生まれて初めての嬉しさに満たされていた。今までのどんな嬉しさよりも比較できない程の、特別な優しさに。

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