第16話 千代のゼロの押し引き
春川先輩と別れてからというもの、行くべきところは決まっている。
今日も宿題と板書したノート(という名のルーズリーフ)を届けに行く。
いつも通りインターホンを鳴らして、家の中に入れてもらい、親御さんに軽く挨拶をして二階へ向かう。入った時は、暖房の暖かさが体を癒してくれたが、二階はそこまで温まっていない。一段登るごとに気温が下がるのを感じる。
「千歳〜?」
部屋のドアを開けると、千歳がベッドの上で膝を抱えていた。
それは、久々とはいえ、今までで初めて見る千歳の姿だった。
「どう、したの……?」
千歳は黙ったまま動かない。
とりあえず、私はいつものように剣山を突き進み、机に宿題とノートを置く。そして、千歳のいるベッドに座る。
足で顔が隠れているので、表情を窺うことができない。
一体、抱えた膝の中でどんな感情が渦巻いているのだろう。こんなに近くにいるのに、触れたら壊れて消えそうで、それでも、その温もりに触れたくて、私は千歳の肩に手を添えた。
「何も無いなら、帰るね。私で良ければ、話聞くから……」
私はそう言い残して立ち上がり部屋を後にしようとする。
「……待って」
確かにそう聞こえた。ゆっくりと振り向くと、まるで機械の形態変化のように千歳は膝を開放して座り直した。
「もうちょっと、いてくると、嬉しい、かも……」
そんなことを言われてたら、私まで嬉しくなってしまうじゃない……。それに、何? その恥ずかしそうな口調と表情は。もしかして、照れてるの?
「なんで?」
私は、つい意地悪をしたくなってしまった。今の千歳が、あまりにも愛おしかったから。
「話、聞いて欲しい……」
語尾が縮こまって、弱々しくなる。表情も明後日の方向を向く。それでも、発せられた言葉で表情はわかりやすく出ている。
「良いよ、聞いたげる」
私は再びベッドに座る。先程とは違って、隣に並んで座っている。
この場所にはない影の気配が、私の奥底を震わせて鳴り止まない。
「ごめん、ありがとう……」
「良いって……」
一呼吸の間が出来て、私の少し砕けた部分を引き締める。
「僕は、自分でダメな人間って、わかってるんだ。それこそゴミくず同然に。だから、ずっと一人でいることが当然で、普通だと思う。それなのに、今さっき、千代に肩を触れられた瞬間、それでいることが苦しくて、悲しくなったんだ……」
「良いんだよ、一人で居たくない、誰かと一緒にいたい、そのために自分を嫌悪するのが人間なんだよ……」
千歳は、今を変えようとしている。今まで自分で自分を押さえつけていたものを取り払おうと、苦しんでいる。
「でも、僕は、この気持ちを持つだけ無駄なんだよ。だって、そもそも僕みたいなやつが願いを持つこと自体愚行なのに、叶わないことをわかってる願いなんて……」
「叶わない願いに意味が無いなんて言わないでよっ!」
その言葉を千歳に言われてしまったら、今の私を否定される気がした。
突然叫んだ様子に、こちらを見ていた千歳の目が大きく見開く。
「千歳の言うその“誰か”って、春川先輩でしょ?」
私は覚悟を決めて言い放った。自分で言った言葉が、身を切り裂いたのは初めてだった。全身に血液が届いているのかわからなくなるくらいに体の各所が冷たくなる。
千歳は、黙ったまま、足元に目を落とした。
「図星、なんだね……」
少しくらい動揺するかもと思ったが、千歳は全く様子が変わらなかった。それは、私にとっては複雑なことだった。動揺して否定するような口ぶりでも嘘だとわかるし、逆に今のような反応でも自分の気持ちに正直という点で、私の望んだ答えなど存在しない。
「私、ここに来る前に春川先輩と会ったよ」
「……どうやって会えたの?」
「見たこともないのに」とやけに冷静な聞き方をされた。その態度に少し、嫌気がさしつつも、私は出会った経緯を説明した。もちろん、小平悠真の事も。一度は別れたものの、道を引き返して、二人で会話した事も話した。
「ねぇ、千歳、最近嬉しかった事って何?」
春川先輩と同じ質問をしたのは単なる気まぐれと、先輩に追いつきたいという醜い感情のハイブリットだった。
「僕には、嬉しい事なんてない。だって、全部苦しみと悲しみに帰属するから」
「うん、私もそうだし、春川先輩も言ってたけど、一つの事で嬉しくなったり、悲しくなったりするんだよ。不思議な事だけどね。だから、千歳もちゃんと人間なんだよ。私たちと同じ、人間なんだよ」
千歳の肩が少し持ち上がった、というよりは、頭が下がって相対的にそう見えたのかもしれない。
そして、少しずつではあるが、私は千歳にどうするべきかが見えてきた気がした。
「ねぇ、千歳はどうしたいの? 千歳がやりたい事なら、間違い無いでしょ? 千歳が言う自分を規定する言葉は、誰が言ったの? 千歳は、自分で自分を決められる自由を持っているんだよ」
「……っ!」
千歳は泣いていた。私にはわからない、感じる事もできないような心で、今を苦しんでいる。
泣いている姿なんて、久しく見ていない。私がどれだけ説得しても、罵倒し、励ましても、表情一つ変えずに無気力だった千歳が、ここまで……。
私はゆっくりと手を伸ばし、震える背中をさすった。
「こんな、僕でも、良いのかな……?」
「うん、良いんだよ」
「僕は……僕は……っ!」
まるで、呼吸のように千歳にすべき事と千歳への想いが、互い違いに切り替わる。
私だって、千歳のように泣きたい。でも、泣くわけにはいかない。千歳が隣で泣いているのだから。春川先輩も言っていたではないか。「変わらずそばにいてあげて」と。
今ここで泣いてしまえば、私は千歳を突き放してしまうように思えた。だから、せめて支えとなる為に、今は涙を堪えるのだ。
でも……それでも……。
あぁ、これ、結構キツイなぁ……。
「僕は、春川沙奈先輩が、好きだ」
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