第10話 千歳と自由無き旅人


あれから春川先輩は、よく弱点のようなものを見せるようになった。先輩の中で僕の存在が、徐々に深いものになっているということだろうか。僕にとっても、先輩の存在は視界から外せない存在となっているのだが……。


「ねぇ、君はさ、自由を感じてる?」


 今日も今日とて制服姿の先輩は、前を歩いて僕を引きずっていく。しかし、今日は少し様子がおかしい気がする……。

 毎回のように、話題は哲学的なことが多い。そんなことを話して楽しいのだろうか。それとも、学校へ行かない代わりの、勉強のつもりなのだろうか。


「感じないかもしれませんね。結局、何をしても、縛られている感覚があります」

「私と同じだ」

「でも、今は別に、気になったりしない縛りですけど」

「そうだね」


 普段、学校というものが強烈な縛りを与えてくる。朝早く起きて、通学し、眠い目をこすりながら授業を受けて、下校時には日が沈みかけ、帰宅すればもう夜だ。

 今の状況と比べれば、だいぶ思い縛りと言える。


「私たち、前に奴隷だーって言ってたけどさ、多分、奴隷じゃない人なんていないのかもね」

「全体を平等な目で見ればそうなんでしょう。でも、やっぱり人の上には人がいて、命を軽んじている人もいますよ」


 先輩が、ポカンと口を開けたままこちらを見ている。


「あれ? 何か変な事言いました……?」

「あ、いや、千歳君は真面目だなぁ、と思って」

「いえ……本当はこんな言い分、しちゃいけないってわかってるんです。だって、独裁者みたいじゃないですか」


 先輩の表情が一瞬だけ変わり、前を向いてしまう。そして、顔を背けたまま少し怯えるようにして言った。


「もし、だけどさ、もしも、君の言う通りになったら、私を解き放ってくれる?」


 言葉には力がなかったが、目に見えない衝動がそこにある気がした。まるで、今にも檻を壊して逃げ出さんとする、猛獣のごとき衝動が。そうか、先輩は解放されたいんだ。不登校になった今でさえ苦しいと感じる縛りが、先輩にはあるのだろう。

 しかし、「解き放つ」とは、どうしたら良いのだろう。そうする方法を、僕は知らない。


「出来るだけのことは、すると思います……」


 そう答えると、先輩は再び笑顔でこちらを振り向く。


「うん、そういう言い方が正しいかも!」


 正しい、という意味が理解できなかったが、どうやら先輩にとって納得の回答だったらしい。

 些細な安堵とは裏腹に、声音が切なげだったことが先輩が作り笑いであることを思わせた。


「先輩、何だか落ち着いてきましたよね」

「ん? そう?」

「はい。何か嫌なことでもあったんですか?」

「あはは、しのぶれど、とはよく言ったものだね……」


 まぁ、誰だって、弱みを見せられたら心配になるだろう。しかし、話したところで楽になることはない。僕はそれを知っている。理由は至ってシンプルで、現状は何も変わりはしないから。例えば、戦争で負けた国が、「戦争に負けて辛い」と他人に言ったところで、何も変わらない。それと同じだ。


「嫌なこと、あったんだー」

「そうでしたか」


 程よく見えてきた公園に立ち寄り、並んでベンチに腰掛ける。ひんやりとした感覚が、お尻から全身を駆け抜ける。

 先輩の顔を窺うと、同じようにひんやりと挌闘しているみたいだった。

 少し経つと、先輩は一息吐いて、話を始めた。


「あのね、この世界の果てを全て見てしまったような、そんな感じ」

「この前、話してくれた、先輩の考える世界、ですか……」

「うん、そう。でも、この世界には一生かかっても見られない景色があるって、思ってたんだけど、それが見えてしまったの」


 正直、具体的に何があったのかは全くわからないが、元気がないように見えた理由はわかった。


「それは、つまり……好奇心の消失、みたいなことでしょうか?」

「うん、そうだね。やっぱり君は良いね。ちゃんと、私の言葉を、誤解なく紐解いてくれる」

「一応、僕の中では最近一番会話してる人ですから、まぁ。そこはね……」

「私も、そうだよ! 最近は、千歳君としか話してない!」


 先輩につられて、少し吹き出してしまう。

 お互いに不登校だから、そうなるだろう。普通ならば、不登校になった瞬間に家族以外の人と会話をするのがほぼなくなる。僕には千代という存在がいたけれど……。

 先輩は話を続ける。


「なんていうかね、世界に境界ができる感じ。端っこが定まって、この世界の大きさが把握できちゃう、みたいな」

「好奇心の消失とは言え、見たいものを見られたなら、嬉しいんじゃないですか?」

「ううん、違ったの。この世界が広いと思えることが、嬉しかったの。でも、もう見られちゃったから」


 この世界の広いと思えること、そう感じることが先輩にとってどれだけの幸福をもたらしたのだろう。学校を飛び出し、両手を広げ、手を伸ばした。この世界に触れてきた先輩は、僕とは違って未来に絶望もしてはいないのだろう。


「何だか、旅の終わりみたいですね」

「旅かぁー。そう考えるのも良いね」

「でも、旅だとしたら、また歩き出せますよ」

「どうして?」

「旅って、目的を定めずに歩くでしょう?」


 先輩がハッとした表情を見せる。それはまるで、子供がサプライズプレゼントを貰った時のような、生まれて初めて虹を見つけた時のような、初々しさがあった。


「先輩は、世界の広さを見てきたのではなく、歩いてきた軌跡が世界の広さだったんです」


 徐々に歪んでいく表情は、多分嬉しさなのだろう。

 会話の内容からは、具体的なことは何一つわからない。それでも、話していることに合わせて、先輩自身が持っている答えにそれにたどり着いた。僕はそれを気付かせたに過ぎない。


 まだ、歩いていける。


 そのことが、先輩の背中を押して、新しい場所へ導いていく様だった。それと同時に僕との距離が更に開いて、先輩の輝きが一層強くなっていく気がした。

 隣で涙を拭っている間は、言葉はなくとも側にいたいと思ってしまった。更に前を向いて進んでいく先輩に手が届かなくなる前に、今はこうして隣にいたいと思ってしまったのだ。

 これはきっと、僕のエゴだ。自分の立場をわきまえずに、他人にしたいことを押し付けている。本当に、僕は僕が嫌いだ。

 そう、今日はたまたま僕が弱みを見せた先輩に漬け込んで、良い気分になっているだけだ。


「あー、今日は変な話しちゃったなぁー!」


 両腕を伸ばして体の伸びをする。

 ずっと話し込んだりしていれば、時間も忘れる。日はもう西の方に隠れそうだ。


「良いね! 千歳君とは、もっとお話したいかも!」

「そうですか、では、また会ったときにでも」

「うん!」


 「じゃあねー!」なんて、大袈裟な声で手を振られる。ただ、その時の笑顔が、心なしかいつもの明るい笑顔ではなく、心からの自然な笑顔の様な気がした。

 僕は自分を呪った。そんな笑顔を引き出してしまったことを、ひどく後悔した。


 なぜなら──僕は、先輩の苦しみを、何一つ知らないからだ。

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