第7話 千歳は牢獄の扉を開けて貰うも、奴隷は変わらない


 時間通り、待ち合わせ場所に先輩は現れた。


「あれ!? 早いね!」

「誘ったのに、遅いですね」

「うん、素直で良いね!」


 何が素直で良いのかわからないんですけど、まぁ、時間通りだから、これ以上言うのはよそう。

 待ち合わせ場所は、初めて会った川沿いの道だった。服装も同じく、学校指定の制服だ。

 冬の開け口とは言え、快晴の天井は気持ちの良い青で彩られ、少しばかりある雲が海を渡る船のようだ。それだけ見れば、内面からもどこか晴々としたものが込み上げてくるのだが、あいにく寒さが体にしみて、その気持ち良さを取り込む余裕は無い。

 それでも、内面からも晴々としているように見えるこの人は、本当は太陽なんじゃないかと考えてしまう。


「少し歩きましょうか」

「はい……」


 歩くと言っても、僕はついていくだけだ。正直、会うという行為だけでも自分で意外な行為なのに、わざわざ僕が先輩を連れてどこかへ、というのはありえない。


「あ、一応聞くけど、君は不登校、って事で良いんだよね?」


 斜め前を歩く先輩が、こちらを振り向いて聞いてくる。

 僕は口を噤んだ。都合が悪い事は黙る。ずっと身につけてきたものだ。というか、先輩だって同業者……みたいなもんでしょうに。


「話したくない?」


 今度は目線をそらす事もつけ加えてみた。僕なりの話したくないという意思表示なのだが、伝わっているだろうか。


「君がその気なら、まぁ、仕方ないか……」


 よし、この話題で話す事を諦めてくれ──えっ?

 先輩が歩みを止めて、僕の真正面に立ちはだかる。


「君が話してくれるように、工夫させてもらうね!」


 そう言うと、先輩の両手が僕の頬を左右につねりあげる。


「い、痛っ! ひぇんはい、いひゃいひぇひゅ!!(先輩、痛いです!!)」

「このこのー! 喋るまでやめないぞお〜!」

「あー! わかりましたよっ!」


 僕は全力で両手を振り上げ、頬をつまんでいた手を払いのける。


「その代わり、先輩も話してくださいよね!」

「わかったわかった!」


 ここまで、僕に口を割らせるなんて、この人、本当にずるい。そして、ただずるいだけじゃなくて、許容できる範囲で言動を差し向けてくるから、タチが悪い。


「そうです。僕は不登校で、引きこもりです」

「やっぱりかぁ!」

「先輩はどうなんです?」

「ん? まぁ、私も同じ感じ!」


 やはり、同業者だったか。でも、なんでそんなに堂々としているんだろう。


「あの、どうして不登校になったんですか?」

「君からそれ聞いちゃう?」

「僕から話すのはダメなんですか?」

「いや、多分君が私に尋ねたものの中で、私への興味が感じられる質問だなぁ、と思って」


 そうやって、僕を弄ぶような態度、本当に好きになれない。それでも、先輩は少し嬉しそうだった。

 先輩は表情を少し切なげに変えて話し始めた。


「あるものから逃げられなくて……でも逃げたくて、現実逃避、って言うんだろうけどさ、私は逃げている時がとても幸せなの」

「僕と同じですね。何かはわからないけど、この体は見えない鎖で繋がれている。まるで奴隷だ。だから、自由を生きているこの瞬間が幸福に思えるんですよね」

「奴隷、か……そうかもね」


 静かに歩みが再開される。

 偶然出会った同じ不登校同士、だから仲良くしようというのは、あまりにも安易だ。安易なのに、どうしてか、僕は……。


「先輩でも、そういう表情するんですね。少しホッとしました」

「そりゃあ、私だって凹んだりするよぉ〜」


 眉はハの字のままで笑みを浮かべる。

 きっと、僕の言葉の意味を、先輩は理解できていない。理解されるつもりもなかったけれど。


「ねぇ、君の目には、この世界がどんなふうに写ってるの?」


 おかしな質問だと思った。今の世の中に対する個人的意見を聞きたいのならば、「どう思う?」で片付けられるはずだ。それでも「君の目に、写る」とは……。


「間違っている事は少ないように思います。特に、この世に生きる人の殆どは、望めば幸福を享受する事が出来るようになってきています。いずれは、誰しもが自分だけの幸福にたどり着けるようになり、世界もそのように動いていると思います」

「面白いね。でも、私が聞きたい事と少し違うかな」


 僕は、「違う」と言われた瞬間に目を瞬いた。一体、どう質問の意図を読み違えたというのだろうか。


「でも、この世界をどう思うか、って……」

「ううん、違うよ。君の目でどう見えているのか、だよ。世界の回り方の情報を見た君の感想じゃなくて、君自身が思う世界の事を聞いているの」


 僕自身が思う、世界。弱肉強食が未だ絶えない世界、強者に隷属するしか無い弱者、あらゆる方面で弱者を生み出し続ける社会、社会が生んだ弱者の救済が複雑化し手に負えない事、結局根底にあるのは弱肉強食だ。それは僕の嫌いな世界そのものだ。

 正直、屁理屈だとわかっている。でも、そんな競争から逃げ出したかった。解放されたかった。だから、僕はダメでクソなゴミになったんだ。自分自身でも、間違っていると言い切れる。

 気付けば僕は、頭に抱えていたものを全て吐き出していた。


「そっかぁ、そんなふうに写っているんだね……」

「もう、僕には今をどれだけ楽しく過ごすかしかないんだと思います」

「私はね、世界は大きいと思う」

「大きい?」


 先輩はどうやら別の尺度で世界を図っているらしい。単に良い悪い、好き嫌いという概念ではなく、世界そのものを捉えるかのような、そんな尺度。


「うん。ほら、私達って奴隷じゃない? だから、いつも塀の中のものしか見えて無いと思うの。その塀の向こう、囲いの外に飛んで行けたら、きっと知らない事がたくさんあるんだろうなぁ、って思うの。知らない事だけじゃない、私が一生かけても見られない、たどり着けない景色だってきっとある。そう考えれば、この世界は、誰かが計測した数字と単位よりずっと広くて大きいんだよ」


 とても先輩とは思えない幼稚なものだった。

 しかし、その言葉は先輩の声を通して僕の中に入り、小さな熱を生み出した。それは、僕が自分から手放し、諦め、捨てたもののような気がした。その熱の名前が出てこないのは、きっと僕が感じてはいけないものだからだ。


 先輩は同業者とはいえ、僕とは確実に違っていた。

 久々に感じるやるせない思いも、どうしたら良いのかわからなくなっていた。

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