第6話 綾上 千代(あやかみ ちよ)


 ある日を境に、千歳の事がわからなくなった。物心つく前から一緒にいた私は、千歳の事を何でもわかっている気がした。そう、気がしていただけ。だから、今の千歳がなぜこうなってしまったかなんてわからない。


「ほら、今日の宿題とノート、置いとくからね」


 こうなる前は、毎日違う話しをして、冗談も言い合って、カップルだ〜夫婦だ〜、なんて冷やかされてたっけ。でも、今はほとんど毎日同じ事の繰り返し。こうしてその日の宿題とノートを届けて、話題があれば少し話して、部屋を後にする。


「ねぇ、まだ私の労力無駄にする気なの?」


 わからなくなっても、分かる事がある。こういう話題には、絶対に口を開かない。頭では無駄な事だとわかっていても、言わずにはいられない。これは死んだ人を生き返らせるような事だ。絶対に覆らない。それでも、生き返ってほしいと願ってしまうのは、相手が千歳だからだ。


「……やっぱり、話す気ないんだね。こういう事」


 無視、しているとは思わないけど、表情も、仕草も、反応さえも止まっている。まるで生きているマネキンだ。こういう千歳は見たくない。だから、決まって私はベッドに座る千歳の隣で、別の話題を切り出す。


「ねぇ、昨日誰と電話してたの?」

「……なんで?」

「いや、昨日夜電話したら通話中だったみたいだから……」


 千歳は少し黙って、少し考えるような仕草をした。


「ねぇ、千代はさぁ、春川沙奈って知ってる?」

「え、誰それ」


 春川沙奈? テレビに出てる人……じゃないよね。ネットで話題の人とか? いや、アニメの声優さんとかかなぁ。

 考えを巡らせても、私の脳内にはその春川沙奈はヒットしなかった。


「その人と電話してた」

「ふーん、で、誰なの?」

「学校の先輩。一つ上の」


意外だった。まさか、千歳の両親と私意外で会話できる人がいるとは思わなかった。一つ上の先輩……同級生ではないというのも意外だ。でも、誰であれ少しずつ関わる人が増えてくれれば、変わるきっかけになるかもしれない。


「へぇ〜、いつ会ったの?」

「この前、川沿いの道で会った」

「そっかぁ」


 私の表情はうまく隠せているだろうか。私の力でなくとも、千歳が生き返るならばこの上ない光明となる。でも、こんな風に思う私を今の千歳は快くは思わない。眠り続けているところに目覚める未来を予感させてしまっては、きっと私の触れられない殻に閉じこもってしまう。


「今度、会う事になりそう」

「うん、そっか」


 私はその春川沙奈という先輩に望みを託そうと思う。最近出会って、電話をする仲になって、今度また会う予定だと言うのだから、とてつもない速さで距離を縮めている。もしかしたら、その内私よりも近い存在になるかもしれない。


 それで、良い。でも、もしも、わがままが通るなら、私……。

 千歳の横顔に触れようと、右に座る千歳に向かって手を伸ばす。


「千代?」

「あ、えっと……髪にゴミついてるよっ!」


 多分、千歳は不自然さに気がついているだろう。私は右隣にいる千歳に体をよじるようにして、左手を伸ばしたからだ。普通は、右にいる人に触れるには右手を伸ばせばいい。つまり、私は変に非効率な行動をしたのだ。


「……ありがとう」

「どういたしまして!」


 気付いている事を言葉にできない表情。聞かれれば「なんとなく」の答えで済ませるつもりだ。でも、聞かないのは千歳もそうなる事をわかっているから。いや、聞く必要なんてないとか考えるのかな……。


「それじゃあ私、そろそろ帰るね」


 返事はない。いつもの事だ。

 足を振り上げて、その勢いでピョンと立ち上がる。


「部屋の片付けしてね。宿題もやりなよ? ノートもみてね」


 またしても、返事はない。毎度毎度分かってはいるけれど、一言ぐらいくれたって良いじゃない。でも、今の千歳は──怖い。

 今の千歳は少しでも我を出そうものなら、誰であろうとバッサリ関係を断ち切ってしまう。変わってほしいと願えば願うほど、千歳は遠くなってしまう。


「お邪魔しました〜!」


 千歳のお母様に挨拶をして、外へ出る。流石に季節が冬に向かっているだけあって、体に力を入れるほどには寒い。それが私の中の不安を煽り、体の芯から別の寒さがこみ上げる。


 ──春川沙奈先輩、あなたはどうやってそんなに近づけたの?

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